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This Is Meと叫びたい

おまぜは文章を書きたいニンゲンである。


具体的にいうとものがたりを書いてみたい短歌を詠んでみたりしたい。もっというとそちら側の人間になりたい。
がおまぜは『書かなければならない』と思う人種ではないのだ。『書いてみたい』が強い人種なのである。
この差は結構大きくて文章が溢れ出てきてしまうタイプが前者で憧れだけが募り現実とのギャップにしょげるのがおまぜである。

書くニンゲンにはいまだなれない。

昔の話をしよう。

昔、小学校四年生のとき詩と出逢った。沢山書いた。もしかして当時担任だった先生はまだわたしが夏休みの宿題として提出したホッチキス止め絵詩集を持っていてくれているかもしれない。
小学校の卒業文集に書いた『こころ』(漢字だったかもしれない)という詩なんて多分いま読んでもいいものだろうし、中学一年生のとき一度だけ書いた(本当は二回だけど二回目は悪いことしてないし反省すべき点なんてどこにも無いので一度って言わせて)反省文を読んだ母がいまだに『本当にあれは(文章が)上手かった。感動した』と言うくらいである。

そうそう高校は卒業文集というシステムがなく、三年生のときの泊まり行事を終えて書いた文が全員分載るというものだった。悲しかな🦩は泊まり行事に参加しておらず、アイルランドにいたので課題図書からふくらませ想像で書いている。が、しかしあれは力作であった。今読んでもいいものだと思う。『大の』というところを『題の』と誤変換されてしまっているのが悲しいところ。


さて、過去の栄光はさておき、なぜわたしが文章を書きたい、と思いながら書かないのか、書きかけの文章が25本(小説もどきを加えるとその数は三倍以上に増える)もあるのか、言い訳をしていこう。

『語彙力がない』

以上である。

これは逃げだ。ただの逃げ。

なぜこの言葉が逃げなのか。
それは単純、わたしには語彙力があるから。
『語彙力』という言葉を原義のまま受け取るとわたしは語彙力がある。すべてが正確で、使いこなせる訳では無いがそれでもたくさんの言葉を知っているし言葉を集めるのはわたしの趣味のうちの一つだ。IQの話を持ち出すとわたしは言語性IQが少し高めらしい。ちょっとだけすごいことらしいね。ちゃんと数字を書きたかったのですが誰も正確に記憶しておらず結果の紙も今はどこにあるのやらということで書けませんでした!母と🦩ちゃん両者ともに確か120は超えてたはず、、、という記憶しかない。ちょっと残念。

さて、気を取り直して。
なぜ『語彙力がない』という言葉にわたしは逃げるのか。

一つ目、自分が納得する域に達していないため。

🦩は本が好きで江國香織さんと小川洋子さんと吉本ばななさんが好きである。この三人、読んだことがある方はわかりすぎるくらいわかるだろうが江國さんは人の1.5倍もしくは2倍のセンサーでものごとを見れてしまう人であり(一個人の所感です)小川さん、吉本ばななさんは見えてしまう人(こちらはご本人のエッセイやあとがきにそのような文言がある)なのである。

そんなのむりであろ〜〜〜あろ〜〜〜あろ〜〜〜

(もち大先生の『キューティクル探偵因幡』に登場する首領風に)

おまぜちゃんは何にも見えません!


2021年は雪舟えまさんの文章に出会い、あっ、書くのってこんなパッションでいいんだ、こんなにひらがなまじりでいいんだ!ということに気づき多少は書けるようになった。よかった。ありがとう雪舟さんだいすきです!わたしちゃん観察日記などはとてもその影響を受けています。


二つ目、文章を書くという行為がコンプレックスであるため。

そんなの気にするなよ〜というレベルなのだがおまぜ、普通に大学の文芸学科に落ちているのである。落ちてしかるべき内容だったので当然なのだが某🦩は素晴らしくコンプレックスをこじらせた。
聞くところによると逆は多いそうである。演劇に入りたかったのに落ちて文芸。おまぜよく考えたら文芸に入りたかったよ?もうびっくり。
おまぜちゃん演劇学科(でした)じゃなくて文芸学科がよかったよ〜と駄々をこねる次第である。どちらも通わなかったのでもう何もいうまいが。


ここで一度わたしの、おまぜちゃんとして書きたいとおもう文章とはなにか考えてみよう。
ユーミンや(好きなので)江國さん、雪舟えまさんや、岸田奈美さん(とても好きです)のような、そんな文章である。読んでしまう、するすると読めてしまう、でもどこか引っかかる文章。

わたしは読ませる文章を、読ませる文章が書きたい。


また文章を、特にこういったnoteに書いて上げるようなものを、書くにおいて個人的にはもう致命的なのでは?と思ってしまう点がある。

わたしは、これはカウンセリングでよく指摘されるのだが、『自分の好きなものに関していくらでも語れるニンゲンである』のだか『自分をストレートに表現することを絶対に避けて通ろうとするニンゲン』である。


表現がしたい。表現するという行為にもうずっと憧れている。でも、自分の中から出てくるものなんてない。いやある。あるが言語化が間に合わない。沢山ある。あるはずだ。
元がはっきりしていないので書き散らす、しゃべり散らすだけ散らして終わり、そんなのいやだ。

ここまででもう充分理解してだけると思うが語彙力=言語化能力ではない。
わたしはよくぴったりな言葉を見つけられなくて本に、音楽に、短歌に、自分の感情をそわせることで解決しようとする。そして思うのだ『ここにもう素晴らしい完成形があるからいいじゃない』と。

そしてなによりまだ認めたくないのだ。おまぜ、いや本名のわたしはもう天真爛漫だけではないことを。明らかな二面性がわたしの中に存在してるということを。


言葉は、わたしの言葉はあまりにも足りない。
『わたし』と『あなた』の言葉は意味が違うことを理解しているから全てが長くなってしまう。用語解説をしなくては、この言葉はこのような意味で使っていることをちゃんと伝えなくては。なぜわたしが『魔法』という言葉や『祈り』という言葉を使わず『呪い』という言葉を使うのか、説明しなければ多分誰もわからない。


喋るということも同じである。
喋ることは書くことよりも難しい。一瞬で消えるし、目に見えないし、何よりなにが残るかわからない。わたしに言わせれば喋るということにおいて、これは特に一対一の場合だが、大切なことは相手を見極めることである。相手がどれほど理解できているか(それによって言葉の難易度を選択しなくてはならない。相手の辞書にある言葉で喋ることはなによりも大事である)、何に興味を持っているか(情報の取捨選択。わたしは常に情報を多くしすぎる)、何を聞いてほしいと思っているか(この人はわたしのことをよく見ているな、というポイントを作りたい。そういう会話をしてもらえるとわたしは嬉しいなという気持ちが残ることが多いから)を瞬時に判断してうまく言葉を投げることはあまりにも難しい。

無理でござるよ〜〜〜!!


無駄な知識をひけらかしたいのかすぐいらないことを言ってしまう。どけちなので情報量を減らすことができない。相手のことを全然見れない。いや、見えているときもあるのだがそれよりもわたしで頭をいっぱいにしてやれ〜〜が勝つ。

困ったやつだ。

わたし、おまぜは、石川まぜちゃんは!へきちゃんも、そして本名のわたしちゃん!明日香ちゃん(本名)は!孤独を!認めたくありません!成熟!道のりが遠すぎます!怒り!悲しみ!苦しみ!認めたくありません!!
そりゃわたしだって雪舟えまさんと星四朗さんのように、霧矢大夢さんのように、JUJUさんのように、横浜中華街で会った魔女(絶対にそう、魔女は自分から言わないものよってサラッと仰っていたあたりで確信した)の飯島都陽子さんのようになりたいのだわーーーーーーッ!!!!

おまぜは家で、もしくは店で好きなものを蒐集し、それを布教し、これとこれまぜたら楽しいんじゃな〜いと遊び、誰かにとってくぼみとなる場所をつくり、文字を書き、本を作り、糸を紡ぎ、糸を染め、糸を織ったり、編んだりして物を作り、お茶を淹れ、歌を歌い、踊り、ハーブガーデンから今日のハーブを収穫しオーブン料理を作る。そして寝る前に今日はこんなことがあったよ〜と交際者(この場合表現はなんでもいい、同居人とか、友だちとか、かつ一人に限らない)と話して笑い合うことをしたい。いやするべきであるしそういう感じの近しい未来があるという事実をわたしは運良く知っている。
おまぜの、いや本名のわたしの栄光は過去にあるものではなく未来にもあるものだ。もう楽しみで仕方ない。

『文章を書くということ』

をテーマに書き始めたのだが書き終えてみるとこれは『これが"わたし"』という文章だな、と思います。まとまってなくて、とっちらかってて、いきおいだけで(それも深夜に)書いていて。

何ヶ月も、そして実は何年も放置していた『This Is Meと叫びたい』というタイトルにふさわししいものだなと思います。これは今この瞬間の叫びなので。

あーーーやったー書けた!書けたことにしよう。


願わくばこのわたしが放った矢が誰かの体のすぐ側を掠めますように。誰かの心を捉えますように。落ちた矢を誰かが拾い上げてくれますように。


また書きます。

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