弱者男性は「人権下社会」及び「そこから成る価値観・思考」からの脱却こそ図るべきである シリーズ「弱者男性はどこへ往く」最終章
人権による恩恵を唯一受けることができず、現代社会において置いてけぼりにされるが如く冷遇されるに至った存在。それが弱者男性であることはもはや自明の理であった。
弱者男性は救われない。
僕はこのシリーズを通して、判然たるこの事実を繰り返し繰り返し証明してきた。
第一章では、現に社会的に理不尽な冷遇を受ける弱者男性の実例を示した。
第二章では、歴史的観点から弱者男性の発生を捉え、農耕時代から続く伝統的な身分社会の崩壊→近代的人権の発明による弱者闘争こそが弱者男性の生みの親であることを突き止めた。
第三章では、人権下社会が「女性」を「保護すべき性」と捉える一方で「能力差別」を容認するが故に、「男性」の中でも「努力を怠った差別してもいい存在」としての「弱者男性」を生み出すに至ったことをつまびらかにした。
第四章では、「弱者男性もいずれ人権によって救われるはずだ」という幻想を、「そもそも人権が行う”ラベル付け”は、そのラベル内での”能力弱者”を曝け出すことにしか繋がらず、差別は無くならずむしろ先鋭化させる」ことを示してぶち壊していった。
第五章では、弱者男性自身のもがきは人権下社会への復讐となって現れ、それを防ぐことは人権の蔓延した社会ではどうしても不可能であることを語った。
第六章では、人権下社会ではどうしたって弱者男性は救われないということを、「仮に人権下社会で弱者男性救済策を取るとどうなるか」の思考実験を行うことで、それが到底実現不可能であることから逆説的に明らかにした。
第七章では、弱者男性は「弱者男性から脱却し、強者男性を目指すことで幸せになれる」という魅力的な甘言が、弱者男性にとっていかに危険で避けるべき罠であるのかについて警告した。
さて、ここに長い長い前置きがようやく終わった。
最終章となるこの第八章では、では一体これから先弱者男性は一体どうして行くべきなのか、一体どこに弱者男性が穏やかに過ごし、幸せを感じ、生を全うできる理想郷が存在するのかについて、僕の考えを書いていきたいと思う。
何のことはない、答えはいたってシンプルである。
弱者男性にとっての本命、一丁目一番地は、人権下社会から脱却した自分自身の中にしかない。
そのためにこの章では、「人権下社会」の影響下からどうやって逃れればいいのか、その方法について終始語っていくこととする。
「自分に無い物」とは「無価値な物」である
自分の中にある「人権下社会の影響」から脱却するため、まずは「心の片付け」から始めよう。
片付けの基本は「要らない物は捨てる」ということである。そして、心にとって要らない物とは即ち「自分を不幸にする考え・価値観」に他ならない。
いったい何がその人を不幸にするのかについては人によって様々だが、それを判断する基準として明確に上げられるのは「自分には、社会的に価値のある本来あるべきものが無い」という思い込みだ。
例えば親友・恋人。これらが自分には無いと感じている人は、「親友・恋人は社会的に価値の高い、本来皆持っているはずの物なのに自分には無い」として不幸を感じる。
ならば、親友・恋人のいないその人にとっては「親友・恋人は人類すべてにとって価値がある必要な物である」という考えこそが「要らない物」として片付けるべき対象となるだろう。
もっと概念的な物に関しても同様だ。「優しさ」の無い人は「自分は人が持つべき優しさが無い」として不幸を感じるし、「幸せ」で無い人は「幸せでなくては人生意味が無い」と考えて不幸を感じる。
逆に物質的な物もそうで、「車」「家」「服」……いわゆる「生活必需品」と呼ばれるものでさえ「それが無いから不幸」なのではなく、「必要であるはずの○○が自分には無い」と思い込むことで人は不幸になるのである。
※注釈
「服が無い」ことは人を不幸にしない。寒さを感じたり、蚊に刺されまくって痒みを感じたりする「不快」のみがそこにある。
及び「不快」もまた人を不幸にしない。寒いことが即ち不幸なのではなく、「普通人が持つべき服を自分は持っていないから寒さから逃れられないのだ」と考えて不幸を「産む」。
「服が無く寒いこと=不快」が人を不幸にするならば、氷河期に生きていた我々の祖先はさぞ皆日常的に不幸を感じていたことだろう。水風呂に浸かる人々は皆寒さを覚えど、それによって不幸になることは無い。
つまり「不幸である」という状態は全て「価値のある・あるべき○○が自分には無い」という思い込みから発生していると言えるのだ。
恋人・子ども・仲間・能力・資産・信用・人気……等々、各弱者男性の中に現に存在していない物は、弱者男性にとって実は「無価値な物」であり、それどころかそれに価値があると思い込むことで自らを「不幸にする物」であるということにまずは気付く必要があるだろう。
「自分のせい」という自惚れは捨てる
弱者男性の不幸その②は、「今の自分があるのは自分にも責任がある」という、これまた深刻な思い込みから発生している。
弱者男性は、実はそのほとんどの人が「自分がこうなったのは社会のせい!」とは思わず、大なり小なり「自分にも責任がある」と考えているというデータがある。
↓参考動画:フェルミ漫画大学「【要約】弱者男性1500万人時代【トイアンナ】」
2023年に「週刊SPA!」が弱者男性500人に行ったアンケートによると、その内の75%が「自分が弱者男性になった原因」として「自分のせい・自己責任」と回答したというのだ。(上記動画の9:10~)
なぜそのような発想に至るのか。それには各弱者男性がこれまでの人生で「もっと頑張れ」と言われても頑張れなかった経験や、「人のせいにするな」「自己責任だ」「男のくせに」等々あびせられた心ない言葉の数々などが大いに影響していそうな気はする。
しかしそれ以上に、「自分が弱者男性になったのは自己責任だから、この後は自身の努力によって強者男性にだってなれるはず」という願望が根底にあるのではないかと僕は踏んでいる。
「これまでの自分は、自分が腑抜けていたからそのせいで弱者男性になってしまった。だからこそ、自分の意思で心を入れ替えて努力すれば自分は強者男性になって幸せになれるはずだ」と、75%の弱者男性は考えているのではないか、という勘繰りである。
しかし、ここは心を鬼にして言わせてもらいたい。
「自分自身の努力不足で弱者男性になった」?
「弱者男性になったのは、自分の意思が弱かったせい」?
……あのさぁ、きみ「自分の意思」のこと過大評価しすぎじゃない?
自 惚 れ る な
先の項では「社会的価値のある○○が自分には無い」という思い込みから不幸が発生していると言及したが、こちらの方は「(実際には無い)○○が自分にはあるはずだ」という思い込みから不幸が発生していると言えるだろう。
つまり「自分には意思があり、そのコントロールによって行動は変化させることができるはずだ」という思い込みである。
断言しよう。意思など無い。
これは弱者男性に限らず、実に多くの人が抱える不幸の根源たる思い込みの一種であるのだが、「我々の肉体とは別に・もしくは肉体に備わっている機能として、我々の行動を支配し得る意思」が存在するという思考は、実際の所「我思う故に我あり」から始まる西欧的な価値観から来る誤謬に過ぎない。
我々の中に、我々の行動をコントロールする独立した決定機関である「意思」など存在しないという証拠は、日常の各所に散りばめられているはずなのだ。
なぜ屁は、どれだけ出したくないと強い意志を持っていたとしても無様な音を立て溢れ出てしまう物なのか?
野〇村知事は、初めから公衆の面前で泣き叫ぼうと思って会見に挑んだというのか?
なぜ母親は、慈しみ大事に育てなくてはならないはずの我が子に苛立ち、時には手を上げてしまうことがあるのか?
なぜ私たちは、「理想的なあの人」を目指し日々努力しているはずなのに、終ぞそこへ至ることが叶わないのか?
これらの事実を、「意思」という物の薄弱さとして説明してしまうのは、それこそ薄っぺらに過ぎる。
自然に捉えれば、「意思」というあるのかどうかも分からない透明体より、確りと存在している「各々独自である、幾億というパターンを持つ肉体の反射・反応」こそが遥かに強力なのだということに考えが及ぶはずなのだ。
母親の中にも、子の泣き叫びに涼しい表情を浮かべられる肉体を持つ者もいれば、著しく脳幹を刺激され過剰な反応に至ってしまう肉体を持つ者もいる。そこに各「意思の強弱」などという発想を持ち出すのは滑稽だ。
野々〇知事は、あの時点で「どんな質問・尋問に対しても耐えられる強固な肉体」を持っていなかったからこそ、あんなことになってしまった。彼が仮に米国陸軍に入隊し、日々苛烈な訓練といびりの地獄を味わい「肉体変革」を行ったのならば、意思の強弱など一切関係無しにあの程度の会見では涙一つ見せない人間になることだろう。(妄信の酷い人は、それこそを「訓練によって意思が強くなったからだ」と捉えるだろうが)
弱者男性は「いつでも変革し得る、これまでは自らの肉体を弱者男性へと至らしめていた意思」を持っているから弱者男性なのではない。
人権下社会における理不尽に晒され、それに真っ直ぐに反応した結果「弱者男性」となった「弱者男性へと至る肉体」を持っているから、弱者男性は弱者男性なのである。
意思が弱いから弱者男性になったのではない。人権下社会の影響下において弱者男性にならざるを得なかった肉体が、その言い訳として用意したのが「弱者男性に至った弱い意思」という虚構なのである。
人権下社会と言う最悪の環境。
弱者男性への指向性を持って生まれた肉体。
これら2大巨頭の存在を無視して「自分の意思」という何だかよくわからない物を持ち出し、それこそが自分を弱者男性にしたのだという発想は明らかに現状認識能力に欠けていると言わざるを得ない。
それは、大海原に放り出されたハエトリグモが、悠々と海底で餌をとるタラバガニを見て「俺が上手く餌をとれないのは俺の意思が軟弱だからだ」と溺れながら餌を手に入れようと必死にあがくが如く非現実的な光景に、僕には写る。
変えるべきなのは「自分」ではなく「環境」
先の例で、なぜハエトリグモは不幸から脱却することができないのか?
一つは思い込みを捨てることができていないからだ。大海原という自分に対してあまりに過酷な環境下で「なぜ自分には皆にはあるエラが付いていないんだ」だとか、「でも自分が苦しいのは自分の意思が弱いせいだから」だとか見当違いのことをいつまでも言っていては、そりゃあ幸せになれるはずがないだろう。
そしてこの例から分かると思うが、ハエトリグモにとって幸せになる方法はどう考えても「陸上性の蜘蛛が大海原に適応するという値千金の奇跡」を狙うことでは決してなく、「海面にわずかに存在する浮草や流木を探して上陸する」所にしかない。
つまりはこういうことだ。
現在自分のいる環境が、「弱者男性としての自分」に全く適合せず苦しいのであれば、そこから離れて自分の持ちうる力を生かせる別の環境に身を置くということが最も肝要なのである。
弱者男性にとって自らを生かせる新しい環境として、例えば……これはあくまで例えばだが「山奥小屋暮らし」などはどうだろうか?
ここからは、現に山奥小屋暮らしをしている僕自身の体験談となることをご容赦願いたい。
僕自身、都市郊外のアパートに居を構え公立学校の教員として働いていた時は周囲との感覚のズレに戸惑い、そして何とか周囲に自分を合わせようとそれはもう苦悩していた。
結果、担任していたクラスの児童からは嫌われ、担当クラスの児童の親からは苦情を受け、そんなことがいつまで経っても終わることはなかった。
苦しかった。「なぜ僕は児童に嫌われるのか」「自分の何がいけないのか」「もっとこうしなくては」「理想的な人間にならなくては」「児童の規範にならなくては」……そんな思いがいつも脳裏を支配していた。
しかし、状況はいつまで経っても好転しなかった。少しはマシになった瞬間もあったかと思えば、いつでも状況は僕の期待を裏切った。
何一つ上手くいかない。
だがそれは当然なのだ。
だって僕は「弱者男性」となるべき宿命を背負って生まれ、にもかかわらず全く「弱者男性」としての自分が楽にならない環境に身を置いてしまっていたのだから。
何なら、「公立学校教員」という環境そのものが僕を「弱者男性」たらしめていたのではないかとすら、今では思える。
それは、僕が自身を置く環境を大きく変えて、「山奥で一人小屋暮らしをする」という「自分という人間の特性」に合った環境に身を置くことができたからこそだ。
もちろん、山奥小屋暮らしをすることが全ての弱者男性にとっての幸せにつながるとは限らない。しかし、かなり多くの弱者男性にとって楽に過ごせる環境足りえるのではないかとも考えている。
山奥小屋暮らしでは、他人に合わせる必要が無い。いつでも大音量で音楽を聴いたりゲームを聞いたり、歌を歌うことができる。小屋づくりなどDIYの際に出る騒音、焚火の煙やコンポストトイレの排せつ物処理等々、「近隣への迷惑」という物に全く考慮しなくていいのは、そこの所の調整が苦手な弱者男性にとって何とも気楽だ。
山奥小屋暮らしでは、土地を自分の好きなようにできる。草を刈り、畑を耕し、害虫を駆除し、害獣を追い出し……これまで「あれしちゃだめ」「こうしなくちゃだめ」と抑圧を感じがちであった弱者男性にとって、土地を自分の意のままにできると言うのは得も言われぬ快感のはずだ。
山奥小屋暮らしでは、結婚だとか将来設計だとか、少子化だとかLGBTだとか政権がどうとか、世間で取り沙汰されるもの全てが他人事だ。散々noteの他記事でそのことについてグチグチ触れている僕が言っても説得力は無いかもしれないが……。「若い女性」「家族連れ」、これらが普段まったく目に入らないだけで自分はこれほど心穏やかに過ごせるものだったのかと驚いている。
弱者男性が自分に合った環境を見つけ、そこに身を置くということは、言うほど容易ではないだろう。
引っ越しにかかるお金、周囲の反対、仕事の関係、そもそも自分に合っている環境が何なのかすら分からない、等々……。
だからこそ、弱者男性が救われるのは……否「自らを救う」のは依然として非常に難易度の高いものではある。
しかし、今すぐ行動には移せなかったとしても、どうかこれだけは心のどこかに留めておいてほしい。
「自らの思い込みに気付くこと」「変えるべきなのは自分ではなく環境」この2つこそが弱者男性が弱者男性のままに幸せになるための唯一の道であること。
「自らを高めて強者男性に至ることで幸せになる」だとか「いつか社会が変わって弱者男性も救われる」だとか言うのは、人権下社会に毒された、自らをより苦しめる妄想でしかないということ。
この文が、少しでも人権下社会に苦しめられ、今なお弱者男性ビジネスに搾取され、社会という深海の底の底で溺れている弱者男性にとっての一抹の泡ぶくとなれたら、これほど幸せなことはありません。