「ようやく男性差別も炎上するようになった」という言葉への違和感
近年「男性差別だ!」として炎上する案件がぽつぽつと出始めるようになった。
僕も記事に取り上げた「牛角女性半額」の件や、しまむらの展開する子ども服専門店「バースデイ」の「パパをけなすようなデザイン」に対する炎上などがそうである。
各事例における詳細は本記事に置いて重要では無いため省略するが、このような「男性差別と捉えられての炎上案件」に関わる記事や動画等のコメント欄では、しばしばこのような発言が見受けられる。
「ようやく男性差別も炎上するようになったか」
僕はこのようなコメントに強い違和感を覚えた。
まず真っ先に僕の中に浮かんだ感情は「自分はこんな風に思いたくはないな」だった。これは、もしかしたらごく微量とはいえ僕自身の中にもそのコメントと同じような気持ちが湧いて出てしまっていたことへの反発だったのかもしれない。
ただ、僕の持論としてはやはり何か物事について理屈を建てていく際には、まずその件に触れた時に一番最初に浮かんだ感情を軸にして考えるようにしている。だから、今回僕は例に挙げたコメントのような「男性差別として炎上することを肯定的に捉える姿勢」に対して異議を唱える立場として自分の考えを整理していきたいと思う。
弱者男性を自称しており、男性として数々の苦しさを味わい、当然男性差別を良しとしない僕が、なぜ「ようやく男性差別も炎上するようになった」とは思えないし思いたく無いのか、そこに違和感を感じるのか。
整理し、まとめていきたい。
「炎上」はいつから「世間の風潮」を代表するようになったのか
過去にあった「炎上」している案件のそのほとんどは、「男性」という属性にとっては直接関係ない、どこか他人事のような物が多かったのではないかと思う。
僕の愛するnetTV:ABEMA prime←ちゅっちゅ♥ が「炎上案件」として取り上げている物から抜粋すれば、「月曜日のたわわ新聞広告」「宇崎ちゃん献血」「DaiGoホームレス差別」「ヴィーガンケンタ前」等々があり、どれも「男性」と言う属性はそこまで関りが無いor炎上と対する立場であることが分かる。
それら世間から「炎上案件」として取り沙汰されている物に対して、「あまり関係が無いor対する立場」である「男性」の僕は、基本的に冷ややかな目線で見ているか、もしくは「いやいや、そんなに責めなくてもいいだろ」というスタンスだった。
僕以外の「男性」である人達はどうだったのかは分からないが、上記で取り上げたような「炎上案件」に対して「これは炎上して当然だ」「炎上してよかった」「もっと炎上すべき」というような肯定的なスタンスを「男性」としてとっている人が果たしていたのだろうか? (その人が宇崎ちゃんアンチだとか、自分がホームレスだとかいう”追加の条件”無しに純粋に”男性として”のみで)
そもそも「炎上案件」という物は、かつてあったドランクドラゴン鈴木の「逃走中自首」や、その後所謂「バカッター」などに波及していった「批難されても仕方ないような愚か者」に対して「けしからんと思う一部の人々の声」に「騒ぎに乗じたいだけの野次馬」が乗っかって発生するお祭りのような物であったのではないのかというのが僕の考えだ。
ほとんどの人にとって「炎上案件」とは――これは言い得て妙だが――「対岸の火事」のような物で、「どこかで何かが燃えてんなー」ぐらいの認識だったと思うのだ。
つまり、一つの炎上があった時、それに対する人々の感情の割合が
けしからん:おもしろそう:どうでもいい=1:3:6
ぐらいだったのがかつての「炎上案件」だったのではないかという推測である。
しかし、昨今取り沙汰される「炎上案件」は、かつての炎上とはどこか雰囲気が違ってきているように感じる。
「これは炎上してしかるべき」だとか「これが炎上するのはおかしい」だとかいう声が目立って、まるで「炎上」という物が「世間の風潮」に則って「正義の断罪」としての役割さえ担っているように捉えられてしまっているように見える。
「炎上を歓迎する」人々はかつて、「炎上案件」を「面白いお祭り」としてとらえる人々で主に構成されていたはずなのに。
「炎上を歓迎する」人々は今や、「炎上案件」を「断罪されるべき悪行」「排除してしかるべき愚者」として捉えてしまっている人がほとんどになってしまっているのではないだろうか。
上記で挙げた人々の感情の割合で言うなら
けしからん:おもしろそう:どうでもいい=4:1:5
この位にまで炎上を取り巻く人々の意識が変化しているのではないかと言うのが、僕の実感である。
そして、このことを「とても危険」とも、僕は捉えている。
「炎上」=「世間風潮からしてしかるべき断罪」という認識の危険性
「炎上」という物が「正義の断罪」と合わさってしまうと一体何が危険なのか。
それは「歯止めが全く効かなくなる」という点である。
「おもしろそうだから炎上させる」となると、「正義の断罪としての炎上」よりも質が悪いように思えるかもしれないが、むしろその方がましとさえ僕は考えてしまう。
「おもしろ炎上」に関しては、当の炎上に参加している人たちが「あー面白かった」なり「もう飽きたわ」なり、本人の好奇心が満たされれば途端に興味を失い炎上は終わりを迎える。そこに「炎上させられている当人(例えばドランク鈴木)」がどんな態度かだとか、どんな処遇を受けているかだとかは実は関係が無いのだ。
しかし「正義の断罪炎上」はそうはならない。なぜならば、炎上に参加している多くの人たちが「コイツはけしからん!」という動機で動いているので、「当の本人がどのような態度か、処遇を受けるか」がその炎上にとって最も大事になってくるのだ。そうなると、このタイプの炎上は「本人が謝罪する」「(所属する事務所、団体などから)処罰を受ける」「活動を自粛するなどして表舞台から消える」などをしないと納まりが付かないのである。
もし「炎上した当の本人」がそれでもふてぶてしい態度だったり、所属団体もしくは公的機関からの処罰が無かったりすると、最悪「私刑」として凸する者が出てきたり、SNSその他メディア等のあらゆる媒体に置いてバッシングを受けるようになったりと、どんどん事態が悪化することとなってしまう。
「炎上」が「世間風潮的に妥当な断罪」であるという認識は、何処までも行き着いてしまいかねない「秩序・節操の無い攻撃」を正当化してしまう危険性を孕んでいる、ということだ。
先日岡田斗司夫氏が自身のYOUTUBEライブの中で「だんだん学校の中だけであった『いじめ』という物が、日本社会全体に広がってきている。社会のスクールカースト化が起こっている」と言及したが僕もその考えには大いに賛同するところだ。
「炎上案件」という物を、「世間風潮的にしかるべき断罪」と認識しどこまでも攻撃しても許される、という考えは、「虐められる方にも原因がある」と考えて制限なしに相手を追い込んでしまういじめっ子の精神と似てしまってはいないだろうか。
「炎上」を正当な物として歓迎してしまうことは、それに伴って生じる「相手が排除されるまで・いなくなるまで続く弾圧」をも歓迎することになってしまわないか。
その懸念が常にあるからこそ、僕は決して「ようやく男性差別も炎上するようになった」などとは考えられないし、考えたくないのである。
「差別をなくすこと」は「差別をする人・企業を攻撃、排除すること」ではない
「多様性」の精神は一体どこへいってしまったのか、と僕は問いたい。
「差別をすることはいけないこと」「社会からあらゆる差別をなくすべき」という考えには、僕はとりあえず同意することができる。
しかし「差別をする人・企業を攻撃、排除すべき」という考えには同意できない。
そして「炎上」とは、本質的に「攻撃性」を孕んでおり、近年ではそこに「世間風潮的に妥当な断罪」という認識が加わったことにより「排除性」までプラスされてきてしまっているように思う。
日本社会で生きていれば、誰にだって「これはけしからん!」と感じることはあるだろう。
かくいう僕だって「牛角女性半額」の知らせを聞いた時には「何で男性だってだけで半額で食べられないんだよ。こんなのおかしい!」と心の底から腹が立った。だからnoteで記事にまでしたのである。
しかし、とはいってもやはり僕にできるのは「牛角に女性半額をやめさせる」ことではなく「それがいかにおかしいのか世間に訴える」ことだったり「自分自身が牛角に行くのをやめる」ぐらいのレベルでしかないし、そうあるべきだとも思っている。
そして、もし「牛角女性半額」が本当に「あってはならない差別」としての領域にまで入っているのであれば、炎上なんかなくたって「差別はいけない」と考える個人個人それぞれが各々の立ち振る舞いをすることによって、自然と牛角は「これではいけない」として「女性半額」をやめるだろう。
「差別」という物は、それをする者を排除することで無くしていくのではなく、それに対する「差別はいけない」とする個々人の毅然とした振る舞いの集合によって無くなっていくと、僕は考えている。
「炎上」は、「社会に蔓延る悪を断罪するための正義の行い」でもなければ、「差別を無くし社会をよくするための正当な処置」でもない。
ただ、「誰かを攻撃したい者達の、尤もらしい標的に対して行う際限ない攻撃・排除」でしかない。
「ようやく男性差別も炎上するようになった」という言葉は、僕にとってはこう映る。
「とうとう男性も尤もらしい理由を得て他者を攻撃する立場になってしまった」のだと。