教育に対する、私の違和感。


人を育てるということについて、私はこだわりが強すぎる。
基本的に「ありのままでいていいよ」「好きにしたらいいよ」「人それぞれの興味ややりたいことを大事にしたらいいよ」と強く思うタイプだ。

だから、教育現場で行われている、ほとんどのことが、凹凸のない正常な発達の子を育てるために行われているように感じられて、苦しくなる。みんなと同じ、従順で空気が読めて、悪さをしなくて、普通の子でいなさいと言っているような気がしてくる。

2箇所の教育現場で働いてきたが、そんな子を作るために自分は動いているんだと思うと、悪いことをしているような気持ちになった。
そして、体調を崩して働けなくなった。
それほど、そんな普通の子に育てあげることを、私の体が受けつけなかった。

今は、オルタナティブスクールとか、森の幼稚園といった、子どもの自主性や子どものありのままを大切にする教育現場が増えてきていることも知っている。
オルタナティブスクールや森の幼稚園ではないが、子どものありのままを大切にする教育現場で働いたこともある。でも実態は、1人1人の子どものできないことを洗い出し、できるようになるために指導をする、というような現場だった。結局、よくいる「普通の子」に育てるための場所でしかないと感じた。
だから教育というのは、形はどうであれ、子どものできないところを指摘してできるようにすることが付きものなんだと感じている。
学校や社会に適応する人間を育てる場所。
同じような子をどんどん生産する場所。
そう感じてしまう。

ただ同時に、今の教育のそういう役目も必要だと思う。できないことはできるようになった方がいいし、凹凸の凹はない方がいいに決まっている。

だけど私がやりたいのはそういうことじゃない。
もっと自由に、ありのまま、好きなことをして生活することを大事にしてほしいし、その過程で生じる困難からいろんなことを学んだり、その困難をうまく乗り越えたりしてほしい。

ただそれだけ。ただそれだけなんだけど、
この私の感覚は、あまり理解してもらえないし、この感覚を持って教育現場に入ると、あまりにも現場で行われていることが自分の感覚と違いすぎる。

だから私のやりたいことは「教育現場」にはないのかもしれないとも思ってきている。
図書館や科学館といった、ただ楽しむ場所。ありのままで思い思いに過ごせる居場所的な役割もある。
そんな場所で働いたら、人のできないところを直す必要もないし、利用者が興味に応じて思い思いに過ごしているのを見守ることができる。
凹凸のない普通の人に育てる感覚などもないだろう。

……
そのほか、私のこだわりが活きる場所(職場)があったら教えてほしいです。

……
こだわりがあるって大変。こだわりが強すぎるせいで働けなくなる。でもそのこだわりを捨てられないことも知っている。だから、こだわりがあってよかった、そう思える日が来るように頑張るしかないと思う今日この頃。

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