カメラが与えてくれる「第三の目」
目に見える世界をそのまま残したいと思うのは、人間の本能なのだろうか。
そのために人は、古来から様々な工夫をしてきた。古くはラスコーやアルタミラなどの洞窟壁画に見ることができる。芸術の世界では「写実」の究極が求められた時代もあった。
そしてカメラの原形となる「カメラオブスキュラ」の発明より以降、人間は現実世界を一瞬で写しとることを可能にしてきた。
しかし「目に見える世界をそのまま残す」という意味では、もうとっくに目標を達成しているにも関わらず、カメラの進化が止まらないのはなぜか。
それは、カメラが写す世界は人間の目で見ることができない世界を表現することができるからだ。
そんなことを考えながら撮っている三つの手法がある(と言いつつ、普段からそんな小難しいことを考えているわけではなく、振り返ってみればそういう結論に帰結できるというだけの、いわば「あとづけ」なのだが)。
ひとつは「植物を真上から撮る」というものだ。これは自著にも書いたのだが、「植物の正面は、実は太陽から見た様子なのではないか」という持論に基づいている。植物は日光を効率よく吸収するためにキレイに葉をよけ合って生えており、実際に真上から見た植物は幾何学的な美しさを放っている。
これは言うなれば「太陽の目」から見た写真だ。撮り方は簡単で、SIGMA dp2 Quattroをできるだけ高くから真俯瞰で構えて撮るという単純な手法だ。公園や植物園に行って、サッと撮る。ただそれだけ。
二つ目は、「低木を根元から撮る」というもの。これはただの思いつきで、花壇に生えていたツツジの根元が何となく森のように見えたのがキッカケだった。視点をただ下げるだけで、小さな木が巨大な森のように見えるのが自分では面白いと思っている。
これらの木は、すべてその辺の公園の植え込みだ。それらの根元付近、地面すれすれにカメラを置いて撮る。広角レンズで狙った方が迫力は出るのだろうが、極端な広角は個人的にあまり好きではない。これもdp2 Quattroの画角(35mm換算で45mm相当)くらいがちょうどいい。
これは、つまるところ「虫の視点」と言えるだろう。
そして三つ目は「雨を真下から撮る」というものだ。ある雨の日に、バケツに撮った水面の写真がキレイだなと感じ、「これを真下から撮ったらどう見えるのだろう」と考えたのがキッカケだ。
もちろん、そのまま真下から撮ってもキレイに写るはずはない。種明かしをしてしまえば、水を入れたガラスの水槽を設置し、それを三脚で突き出したSIGMA fpで真下から撮影している。これは、言うなれば「魚の視点」と表現することができるだろう。
実はこれら三つの手法に共通するのは「アングル的にモニタを見ながら撮影することが難しい」という点。だからこそ、これらの実現に欠かせないのは「カメラの機動性」と「モニタを覗かなくてもいい絵が撮れるという信頼感」だ。自分にとって、それらを実現してくれるのがSIGMAのdp2 Quattroとfpという信頼できるパートナーなのだ。
自分でもどんな絵が撮れるのか分からないからこそ、面白い。
自分が想像した以上のものが撮れるからこそ、楽しい。
カメラの究極の形態は「目」だ。そしてそれは、自分の目で見える世界以上のものを与えてくれる。自分がカメラに惹かれ、面白いと感じるのはこの「第三の目」としての楽しみ方なのかもしれない。