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20世紀少年と、ともだちのこと

 ネット配信されている映画「20世紀少年」三部作を久しぶりに観た。浦沢直樹の漫画が単行本化された時に初めて読んで、映画の劇場公開を観に行き、テレビ放映版も観た。「果たしてトモダチは誰なのか」伏線が張り巡らされた謎解き要素と、エンタテイメントを楽しめる作品なので、未読、未見の方に是非おすすめしたい。

※この記事は作品の批評ではなく、ネタバレも含まないのでご安心ください


 物語は1970年の大阪万博前夜、小学生の日常から始まる。私よりも8歳ほど年上の世代だけれど、昭和40年代に小学生だった私にも既視感があった。デコチャリ、駄菓子屋、秘密基地にも毎日集まったし「絶交」も経験している。

 今回は、この作品を観て思い出す二人の「ともだち」について書き残したい。二人に共通しているのは、二度と会えないという事実だ。



かまちょのこと

 かまちょが病気で亡くなったのは、1993年の体育の日だった。病弱で体育の授業が苦手だった男には皮肉な命日だが、当の本人は気にも留めないだろう。享年26

 彼が亡くなったことを知ったのは、一年後の夏の日だった。私が実家へ帰った時に母親から聞かされた。翌週の土曜日、私は友人と二人でかまちょの家へ弔問に出かけた。

中学一年

 「かまちょ」はもちろんあだ名で由来は忘れてしまった。1980年のビリー・ジョエルのアルバム "Glass Houses"は彼から借りた。ダビングしたカセットテープは今でも持っている。アダム・アントを教えてくれたのも彼だった("Adam and the Ants"のLPは買って間もなく、馬車道のディスクユニオンで売り払った)

 当時、洋楽の話が通じる同級生は少なくて、彼の家で何枚ものレコードを聴いて盛り上がっていた。かまちょはジョン・レノン、ビートルズをよく聴いていたけれど、どこがいいのかさっぱりわからない。ミック・ジャガー、ローリングストーンズの方が断然カッコイイと思っていた。

 僕たちは同じ高校へ進学し、同じ美術部に入ったけれど、彼はほどなく退部してしまった。その後は、ほとんど顔を合わせることのない三年間だった。

再会

 高校を卒業後、彼には二度会っている。一度目は自宅の最寄駅で、久しぶりの彼に声を掛けてホームへ向かう階段を降りようとすると「肩をかしてくれ」と言う。

 「片目が見えなくてね」という彼は私の右肩に左手を添えて、ゆっくりと一歩一歩、階段を降りた。「目の奥に腫瘍が出来ていて、手術は出来ないんだ」と呟き、この駅から横浜の英会話学校まで通っていると教えてくれた。

 二度目に会った時、かまちょは各駅停車の座席に母親と並んで座っていた。私が声をかけると母親は気を遣って、別の席に移動してくれた。隣に腰掛けるとバツが悪そうに「もう、ほとんど目が見えないんだ」と言った。学校まで母親に送ってもらっていることを煩わしく感じて、少しイラついているように見えた。

 各駅停車に彼と母親を残したまま、私は次の駅で特急に乗り換えた。それが生きている彼と会った最後になった。

夏の日の午後

 かまちょの母親は私と友人を笑顔で迎え入れてくれた。幼稚園が同じだったので私のこともよく知っている。以前住んでいた一軒家から少し離れた場所にあるマンションの一室、茶色い箪笥の上にモノクロームの小さな写真が飾られていた。

 病気で膨れ上がった顔だったけれど、まさしく「かまちょ」だった。入院してからしばらくは普通に会話が出来ていて、好きなジョン・レノン、ビートルズの曲もよく聴いていたけれど、病気が進行するにつれて曲を聴くのも嫌がるようになったそうだ。それでも、棺には何枚かのレコードを納めて一緒に焼いてもらったのだという。

 遠くに蝉の声が聞こえる窓から、午後の黄色い日差しが優しく差し込む部屋で、私と友人は、息子を亡くした母親の話をじっと聞いていた。別れ際「子どもは苦労してでも育てなさい」と笑顔で諭された。


カワムラくんのこと

 カワムラくんと私は中学と高校が同じで、かまちょとも仲が良かった。中学時代は四人の仲間で遊んでいるのを何度も見かけていた。彼らはどちらかといえば内向的と思われるタイプの四人組だった。

 カワムラくんは21歳の時、勤務先の小さなビルの屋上から飛び降りて亡くなった。晩春のある日、新聞の地域欄に小さな記事が載っていた。詳しい経緯はわからないけれど、母親の看病をしていて鬱の症状があったと後日聞かされた。

赤いフェアレディZ

 高校を卒業後に一度だけ、京急の駅近くで彼と話したときのことを鮮明に覚えている。私は大学受験に失敗し、彼は公務員として就職していた。

 運転免許の話になったとき、カワムラくんは「赤いフェアレディZに乗りたいんだ」と言って笑った。彼がスポーツカーを運転している姿がどうしてもピンと来なかったけれど、本心からそう思っていることは十分に伝わってきた。

 カワムラくんが、物静かな見かけによらずプロレスファンだったことを知っている人は、多くはいないと思う。馬場や猪木について、熱く語る彼の目は輝いていた。私には細身のカワムラくんが誰かに技をかけている姿がどうしても想像できなかったけれど、彼の心の内は情熱に溢れていたのだ。

車窓から

 私が大学へ通っていた頃、京急の車窓から彼が飛び降りた小さなビルが数秒間だけ見えた。平日の昼休み、陽を浴びたパイプフェンスが白く張り巡らされたビルの屋上には、綺麗に磨かれて並んだ革靴に、遺書が添えられていたそうだ。

 社会人になって何年か過ぎた頃、同窓会の席で女の子が「私も通勤途中であのビルが見えると、カワムラくんのことを思い出してたの」と話してくれた。もう私が京急に乗ることは無くなった。あれから三十年以上が過ぎたけれど、今も誰かが、車窓から彼のことを思っているのだろうか。


ともだちのこと

 中学生の頃、同じ教室の同級生は同じように社会へ出て、同じように幸せな生活を送るのだろうと考えていた。現実は、進学、就職、結婚、人生の長さまで、すべてが違っていた。人は誰もが違う時間を生きている。

 子どもの頃は、自分と同じなんだと安心できる人を「ともだち」だと思っていた。でも本当は、自分とは違うんだと憂いつつ、それでも繋がっていたいと思える人が「ともだち」だとわかった。

 眠れない夜、私はもう会うことのないともだちのことを考える。それは、久しぶりに顔を合わせて他愛のない話に盛り上がるともだちと、何も変わらない。

(了)

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