【書評】村田沙耶香『コンビニ人間』
もう五年ぐらい前になるが、たまたま大晦日に紅白歌合戦を見ていると、錚々たる顔ぶれのゲスト審査員のなかに村田氏の姿があった。村田氏の名前は文壇では知られていたが、その場を離れて、一般的にはそれほど知られていなかった。なぜだろうと思っていると、村田氏がこの年に本書で芥川賞を受賞していることに気づいた。ただ、それだけのことでゲスト審査員になれるものかと思っていると、本書が大きな反響を呼び、刊行後数か月で五十万部を超えるベストセラーとなっていることを初めて知った。その前年に又吉直樹氏が芥川賞を受賞して文壇の大きな話題となったが、又吉氏が当時すでに人気芸人であったことを考慮しなければならない。それ以前にも芥川賞を受賞した小説家が受賞会見の席で気を衒った発言をして受賞作の売り上げが伸びることもあったが、何のパフォーマンスもせず、一般的な知名度も低い純文学の小説家の作品がベストセラーとなることは極めて異例なことであると言わざるを得ない。そのような様子であるからには、恐らく優れた小説なのだろうと思い、早速読んでみた訳である。初読から早四年が経ってしまったが、これから本書を批評していきたい。
古倉恵子は、大学一年生の時から始めたコンビニエンスストアのアルバイトを三十六歳になる今も続けている。その店舗がオープンした時から勤めているから、最古参の従業員である。そのためか、そつなく業務をこなす。
彼女は元々奇妙な性格の子供だった。度々、職員会議にかけられ、母親が呼び出される。彼女は、例えばこういう風な発想をする。「皆口をそろえて小鳥がかわいそうだと言いながら、泣きじゃくってその辺の花の茎を引きちぎって殺している。」感受性の強い子供であるならば思いつきそうかも知れないが、実際には、彼女は死んだ小鳥を食べようと提案している。むしろ、とんでもない解釈をする子供なのである。とはいえ、猟奇的ではない。どのように説明すべきかは難しいが、彼女の言動にユーモアがあるのは確かである。これは、あくまで一例に過ぎない。
そんな彼女の家庭環境は、いたって普通である。彼女が奇妙な性格であっても、両親は可愛がる。そんな両親をこれ以上悲しませないために、彼女は必要なこと以外のことは喋らなくなった。休み時間を一人で過ごすほどである。そんな生活が大学生になっても続いた。これでは社会に出られないと両親は心配し、彼女自身も焦っていた。コンビニでアルバイトをすることになったのは、そんな時であった。そこで彼女は、「世界の正常な部品」となったことを実感した。だが、大学を卒業すれば、就職をしなければならない。それでもなお、彼女は三十六歳になる今もコンビニで働き続けている。「完璧なマニュアル」がなければ、どうすることもできなかったからである。
そんなある日、新たにアルバイトの従業員が入ってくる。その名は、白羽といい、ひょろりと背が高く、針金のハンガーのような体格で、銀色の針金が顔に絡みつくような眼鏡を掛けた男である。年齢は、恵子と同じぐらいだが、非常に理屈っぽく問題行動を起こす。初日から遅刻したり、レジのなかで携帯電話をいじったり、オレンジジュースが並ぶべきところに牛乳を並べたりして、マニュアルの内容に文句を言ったり、事ある毎に差別的なニュアンスを含んだ縄文時代の話をしたりする。アルバイトの動機を尋ねられると、「婚活」と答え、以後、女性客の家の場所を知ろうとしたり、夕勤の女の子の電話番号を調べて電話を掛けたり、既婚の従業員にも声を掛けるようになり、わずか数日で辞めることになった。
お正月を前に、恵子は地元の友達数十人とバーベキューをすることになった。そこで、ある友達の夫から、就職が無理なら結婚した方がいいと勧められた。それによって彼女は、三十六歳でアルバイトで未婚の自分が、異常だと思うようになる。その日の夕方にコンビニに寄った恵子は、店の外に辞めたはずの白羽がいることに気づく。住所を知ろうとした女性客を待ち伏せしていたのであったが、そんな白羽を恵子は近くのファミレスへと連れて行く。そこであれこれ話を聞いているうちに、恵子は白羽に自分と婚姻届を出すことを提案する。突然の提案に驚く白羽だったが、白羽には様々な事情が重なって行く所がなく、恵子は、現状の変化を求めていたこともあり、白羽を強引に家に連れて行った。
恵子は、家に白羽がいることを、まず妹に伝え、次に友達に伝え、そして最後にコンビニの店長と従業員に知られてしまった。誰もが異様なほどの喜びようであり、それによって彼女は、自分がいかに異常であったかをより痛感する。それ以後、コンビニの店長と従業員の恵子への眼差しが変わる。職場の誰しもが白羽とのことばかり聞き、恵子はうんざりするようになる。「店員」としての自分を必要としてくれるのは、利用客だけとなっていった。
白羽を家に連れ帰って数日後、アルバイトから帰ると、見知らぬ若くてメイクがきつめの女性が白羽を睨んでいるのを見た。それは白羽の義妹で、白羽の借金の催促のためにやって来たのであった。その義妹に対して、白羽は、恵子とは結婚を前提に交際していて、家事は自分がやり、彼女の就職先が決まれば、そこからお金を返すと勝手に約束した。そのため恵子はコンビニのアルバイトを辞めることになった。「店員」でなくなった自分がどうなるか想像がつかないままに。言うまでもなく、恵子の生活リズムは崩れる。コンビニのマニュアルなしではどうすることもできず、基準を失った状態だからである。
そして派遣採用の面接を受ける日を迎える。白羽は、面接が終わるまで外で待つつもりでいる。面接までだいぶ時間があり、白羽はコンビニ内のトイレへ向かう。恵子もトイレに行こうと思い、白羽の後に続く。入店するやいなや、恵子は店内の惨状を目の当たりにし、「コンビニの「声」」を聞く。そして、「コンビニの「声」」に従って、売り場の整理をする。そんな恵子の様子を見た白羽は、彼女を強引に外へ連れ出したものの、彼女は自分がコンビニ店員であることから逃れられないことを確認する。白羽は立ち去り、恵子は面接先へ断りの連絡をし、新しいコンビニの店舗を探し始める。
白羽がいかに下司な男かうまく伝えることができなかったが、以上が物語のあらましである。だいぶ長くなってしまったが、これから筆者が考えたことを披瀝していきたい。
村田氏は、自身が大学時代から本書を執筆するまでコンビニでアルバイトを続けたことから本書の着想を得たと想像するに難くない。その意味で本書は私小説である。しかし、村田氏は恵子ではない。恵子は村田氏のように小説を書かず、村田氏は恵子のようにコンビニから逃れられない訳ではない。本書はあくまで物語であることは言うまでもないが、店内の描写は見事なものである。そこに余分な修飾はなく、実際の店内のありようが自然とそのまま描き出されている。
また村田氏は、コンビニの従業員がマニュアル通りに動いていると考えていると思われる。村田氏がコンビニ店員だった経験から来ていると思われるが、マニュアル通りというのは、何もコンビニに限ったことではない。筆者は、コンビニ以外にも、ディスカウントストアやドラッグストアでアルバイトをしたことがあるが、いずれも従業員はマニュアル通りに動いている。それは、スーパーマーケットにしたって同様であろう。ディスカウントストアもドラッグストアもスーパーマーケットも、コンビニ同様に各地にありふれており、その分従業員数も多い。マニュアル通りに動くものであるからには、替えが利き、退職者もそれだけ数多いことは想定できる。他にも細やかな要因がいくつかあると思われるが、以上の二点が、この一般的には知られているとは言い難い村田氏による本書が広汎に読まれることになった要因であると考えられる。
次に物語の細部について何か所か言及していくが、本書を読み進めていて、だいぶ目についたのが、恵子があまりにも没個性的であることである。自己と言い換えてもよいが、自己は自力で確立できるものではなく、関わりのある他者との関係性から自ずと浮かび上がってくるものであるが、恵子の場合、幼少期に奇妙がられた経験があって、それによって自ら行動を控えるようになったとはいえ、三十六歳になってもあまりに没個性的である。それどころか、あたかも他者の所有物であるがごとくである。他の従業員の喋り方が伝染するのはまだいいが、対象がマニュアルの場合には、まるでマニュアルの思うがままに動くだけであり、白羽のように批評(?)することもない。挙句の果てには、最後に「コンビニの「声」」を聞き、その「声」の通りに動くだけであり、まるでコンビニを神のように見なしている。この場合、恵子はあたかもコンビニの所有物のように見える。本書には、低賃金労働者の悲哀はない。最終的に発見されるのは、低賃金であろうがコンビニで働くことの生き甲斐だけである。恵子は大学を卒業しているはずだが、彼女固有の経験があるとはいえ、もう少し批評的な面を出してもよかったと思える。ユーモア溢れる理知性がところどころ見られるとしても。もちろん、「自然」が優位に立つことは言うまでもないが。
この物語で異様な雰囲気を漂わせる人物が登場する。それは本稿でも盛んに言及した白羽である。白羽は、恵子とほぼ同年代の理屈っぽい男である。いかにも高橋和巳のような「場末」のような匂いを漂わせる小説を書く作家が描き出しそうな人物であるが、白羽は高橋が小説のなかに中心として据える人物のようにインテリではない。大学を中退し、のち専門学校もすぐに辞めているが、それは思想的ゆえにとは言えず、彼が頻繁に言及する縄文時代の話も、簡単な通史に書かれた記述に自身の妄想を加えたものに過ぎない。そこに社会主義思想もある訳がない。いくら妄想的な理想を語ろうが、恵子のユーモア溢れる論理性によって論破されて終わる。恵子の振る舞いにユーモアがあるためか、白羽を連れて帰ろうが、そこに「場末」のような匂いが漂うことはない。ただ強いて言うならば、コンビニを退職してから派遣採用の面接の日を迎えるまでのみ漂っている。コンビニを辞めたことで基準を失い、生活リズムが崩れたからである。筆者としては、本来ならば批判すべき点なのだが、恵子がコンビニから逃れられないことを再確認する上で必要であるならば、何も言うことはない。
筆者にとって、本書はどういった評価を下せばよいかわからない作品であったが、また、ここ近年の純文学の小説のなかでは、優れた作品の一つであることは間違いない。だが、このことが現在の文壇の現状を物語っているように思えてならない。
(文藝春秋、2016年7月刊、後に文春文庫)
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