宇佐見りん「推し、燃ゆ」(2021年芥川賞受賞作)
宇佐見りん「推し、燃ゆ」2021年1月芥川賞(第164回)受賞作品 感想
2023、1、27記 石野夏実
同人になる前から、同人になってからはほぼ毎回、芥川賞受賞作品が掲載されている「文藝春秋」を買っている。
受賞作を読むかどうかは、書き出しの箇所だけ目を通し、面白そうかどうか、その直感だけで決めているが、昨今、ほとんどが「積ん読」になっている。
今回の課題書「推し、燃ゆ」は、受賞決定のニュースが流れた時、読んでみようかなと珍しく思った作品だった。
題はストレートで4文字だが「自分が追いかけている大ファンのアイドルが(何かが原因で)収拾がつかないほど炎上するように叩かれている」という意味に解釈した。
「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」の文で、この小説は始まる。
題材が今風で面白いのはもちろん、女子高生言葉で書かれている会話などの箇所と、一方では風景や状況説明、心情描写は、新鮮で説得力のある表現、純文学愛好者の嗜好に合致する語彙で並べられていて、読者の好感度が高くなるのは必至だと思った。
話し言葉と説明描写の違和感のない配置と融合に読者が頷きながら読み進むことができれば、著者への評価はとても高くなるであろうとも思った。
芥川賞受賞作品の読者は、年齢層の幅もかなり広いと思うのであるが、じっくり読めばどの層の読み手にも、ストライクど真ん中の心に届く久しぶりの若者文学であると思った。
主人公のあかりは「推し」の上野真幸の存在だけが「生きる」ための全てだ。「生きる」ためにどうしても真幸の存在が必要なのだ。彼女はそれを「背骨」と呼ぶ。
いかにあかりが(ほかの子も)真幸の大ファンであるかは、随所に「推し」で追っかけの子たちがバイト等で稼いだ大金を使って購入するグッズやCDの異常な多さが書かれているので、それが生きがいなのだから、仕方がない時期なのだとも思うものの、痛々しさが胸を突く。
絶対的な存在、情熱を傾けられるものがあるのは、それだけで救いなのかもしれないとも思うのであるが。。
何か具体的な支えがなければ、「生きづらさ」を抱えている子たちは、死にたくなってしまうのかもしれない。
あかりの不安定さは、母親はもちろん、姉にも父親にも原因があるように思える。拘りの強い「ASD」(自閉症スペクトラム障害)と「ADHD」(集中力のない忘れっぽい、じっとしていられない発達障害)のような精神的な障害を持っていると思えるが、その起因となったのは家族関係であろう。
愛情のない家庭で育ったとしか思えない。あかりは、仲の良い母姉関係から疎外され父親は長期赴任の不在で、ひとりぼっちだった。
真幸の突然の結婚と引退発表で、彼女を支えるものが消滅した。
最後の描写がとても良い。陽光が部屋全体を明るく晒し出し、中心(背骨)ではなく全体が、自分の生きてきた結果であると。骨も肉もすべてが自分。背骨だけで生きていないと自覚し、出しっぱなしのコップ、汁の入ったどんぶり、リモコン。結局、投げつけるには後始末が楽な綿棒のケースを選んだら、気泡のようにわらいが込み上げてきて、ぷつんと消えた。(冷静な自己判断ができるから、病んではいない)
ばら撒いた綿棒を四つん這いで拾う姿は、ゆっくりでももう一度赤ちゃんのようにハイハイから始めようとする意志だと、私は受け止めたかった。
時間はかかるだろうけれど、白く黴の生えたおにぎりを拾い、空のコーラのペットボトルを拾い、その先に長い長い道のりが見える。。。と書いている。
自分で自分を孤独に支えるのは辛い。心から理解してくれる家族でも友だちでも、ひとりでもいてくれれば、人は生きようと思うだろう。
いないから「生きづらくて悲しくて死にたい」のではないだろうか。
カウンセリングを受けてでも家族関係を再構築できるのか、ひかりのブログの愛読者の中から、わかりあえる親友を見つけることができるか、この状況から抜け出すには、どちらも叶うといい。