ずっと反抗期



先日、「090の携帯番号はオジサンの番号…。」みたいなネットニュースの見出しが目にとまった。40歳代、携帯は090で始まる自分にとってタイムリーな記事だなぁとは思いつつ、開かなかった。いや、「意地で見なかった」の方が正しい。

検索履歴や年代を分析し、喜怒哀楽に訴求して記事をタップ・クリックさせる仕組みには感心する時もあるが、最近は「何でもありなの?」と思う。

検索サイトで病気のことを調べれば、表示される広告はズラーっと病気や薄毛、ここ一番の元気!の話題、パソコンの価格を調べれば、画面はメーカーのセールでいっぱいになる。一方のニュース記事といったら不倫とオリンピック、ワクチンの賛否のことばっかり。刺激があるだけで、何かが身についている感じがしない。インターネットって縛られない自由、ミスリードがないのが良いんじゃなかったの?だ。

自分が新聞社に勤めているから、ネットはダメー。新聞最高!と言う気はまったくない。紙媒体もデジタルと同じようなもの。自分もひっくるめて、かなり狭い場所をウロウロしているようだな、と思う。媒体のチカラのごく一部だけ、表面だけを皆で使っている感覚。どうしたらもっと上手にこれらの道具を使う事ができるだろう、と日々、考えている。

そんな時の「090の携帯番号はオジサンの番号…。」みたいなネットニュース。まず読んでいないので、批判すらできない。勝手な思い込みの可能性もある。しかし内容は090とか080の歴史を踏まえつつ、070のPHSにも触れ、090は古い番号で使っている人はオジサンじゃない?という記事ではないだろうか。間違っていたら謝るほかない。すみません。

いずれにしろ、記事にするほど気になるなら、なぜ意固地になるのか。自分のオジサン度合を否定したい人に無理やり読ませようとしているのに、嫌な感じがしたのと、もうひとつの理由がある。それはオジサン、オバサンがダサい、格好悪いという風潮が、ずっとおかしいと思っていたからだ。


こんな感じで、「若く、幼くいるのが良いという風潮が変」、「情報発信も、受信する方も変」などと考えていると、もはや「自分こそ変になっているのかも知れない」と感じるときもある。

時系列は異なるが、このような思いが自分がnoteを始めたきっかけだ。文章を書くのも読むのも好きな全国の人たちが、どんな情報を求め、それを楽しんでいるかを知りたかった。しばらくは読んでいただけだったが、書き始めてみると、やはり副産物が。読んでもらう喜び、良い文章を発見した心地よさ。それを今、感じている。情報発信も受信も、まだまだ楽しめることもあらためて分かった。


そして書いているうち、いつのまにやらモヤモヤがスッキリするのも不思議なところ。


きょうもお付き合い、ありがとうございました!

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