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この話をしてもいいですか。


仕事柄、観測史上最大の雨量を観測しただとか、5年ぶりの最高気温更新など、地域限定の気象記録を調べる機会が多い。

その中でずっと気になっていた「観測史上1位」がある。

それは日最低海面気圧959.0ヘクトパスカル。1913年(大正2年)8月27日に記録し、100年以上経っても1位のままの歴代気象記録だ。


歴史だけはある新聞社の書庫をあさってみると、大正2年8月31日付、石巻日日新聞に該当する記事が見つかった。


「大暴風雨と海嘯襲来の大惨状」

金華山を中心とせる台風は前日来の降雨をして昨午前9時頃に至り俄然大暴風雨に激変せしめ烈風猛雨迅雷のごとき音響を以て襲来し、森羅万象皆惨として悲鳴を揚ぐるが如かりし。午後4時頃に及び風雨益々激甚を加へ、当警察署においては突然水防の警鐘を乱打し消防組員を招集し、既に危険に陥へる門脇浜横丁・・・・・・


強烈な文章が並んでいる。このほか各地の高潮、出水状況、多数の溺死者、家屋損壊、流失、炊き出しなどの情報を生々しく伝えていた。局所ではない。調べると東北地方で多大な被害が出た広域的な大災害だった。


不思議に思った。

「なぜ自分はこの災害を知らなかったのか。」


ローカル情報を扱うのが仕事のはずの地元紙の一員で、東日本大震災を後世に伝えようとしてきた自分がだ。

驕りと思われても仕方がないが、正直な気持ちだ。ただ、どれだけの石巻市民、東北の人がこの災害を認識していたか。多くは自分と同じだと思う。



2011年3月11日の後、常々思ってきた。

物質だけでなく、情報も風化する。ただ、何故、死者行方不明者合わせて1​万8425人もの命が失われたのかを、残していかなければと。



100年以上前の弊社の先輩記者たちも同じ思いで、あの台風災害について強烈な筆致を残していたはずだ。だが、結果は地域で伝わっていなかった。


震災から10年目の今年、石巻市では、復興祈念公園が開園した。約40haが県営・市営公園、県営公園の中心に立派な国営追悼・祈念施設を国が整備した。さらにその中に、先日6月6日、展示施設である震災伝承館がオープンした。建設されたのは自分が津波に襲われ、逃げた場所だ。


否定をするつもりはないが、何を誰にいつまで残すかを明確にしておくべきだ。そして厳粛な行事を毎年行い、形式だけでも伝達していくべきだ。


多額の費用が投じられ、後世に何かの伝承をしていく目的の施設。それは次の災害に直面した誰かを救うものであってほしいし、そうでなければならない。


「東日本大震災最大の被災地石巻」

注目を集めるため、復興予算を獲得するためのコピーで終わらせてはいけない。100年後、最大の被災地になった理由である痛み、悲しみが風化したとしても、災害から命を守る教訓だけは残されている、という覚悟を込めた言葉だと思っている。

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