![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/86088981/rectangle_large_type_2_941fe4fb7e10576210e972ef66bdc8d5.jpeg?width=1200)
京から旅へ/インド仏跡巡礼⑤ルンビニ「マヤ堂」
「マヤ堂」は、白亜の建物である。
釈尊の生母、マヤ夫人がお奉りされているお堂だが、2003年5月に
新しく、造り直されている。
新マヤ堂は、旧マヤ堂の下から発掘された、釈尊生誕の地を示す
マークストーン(アショカ王が布石)と、それを囲む遺構(レンガで
作られた基壇)の上を、スッポリと覆って建てられている。
遺構の上には、渡り廊下が架けられ、直近で見学ができる。
数年前にルンビニを訪れた人に聞くと、その時は、マヤ堂のすぐ横で
バスを降り、そのまま、お堂に入って見学ができたらしい。
さらに、建物の屋上にも上れて、周りの景色が見られたと言う。
![](https://assets.st-note.com/img/1662189342881-B4uTUBcpKw.jpg?width=1200)
だが今は、ルンビニ公園の入口広場でバスを降り、そこで二人乗り
“リキシャ”に乗り換え、運河に沿った1.5kmの地道を10分程走り、
降りてから、また10分程歩いて、やっとマヤ堂の門へ辿り着く。
約2km。京都なら八坂神社からドンドコ歩き、清水寺に着く距離だ。
マヤ堂の門から中は、外で靴と靴下を脱ぎ、参道を裸足で歩く。
“リキシャ”に乗り始めた頃、想定外の強い雨が降り、衣服が濡れた。
参道にも水溜ができている。裸足で歩くなど事前に“聞いてないよ”
と、思ったが、聖地にいる事を理解し、靴を脱ぎマヤ堂へ向った。
まだ、観光気分のヌルさが抜けてないな、と、少し情けなくなった。
ところで“リキシャ”とは、人力車の事。
明治初年(1869年)に日本で発明された人力車は、籠より早く移動し、
馬よりコストが低い為、全国に普及し、明治から昭和初期まで、大い
に利用されていた、が、
1870年代半ばからは、中国を初め、東南アジア、インドへも輸出され、
各国でも、主要な交通手段となっていたようだ。
インドの街中で、良く見るリキシャは、嵐山と同じく、車夫が曳く。だが、
この公園では二人乗りの客席を自転車に繋ぎ走る。それも全速力だ。
この日は、既に12台のリキシャが待っていて、二人ずつ分乗した。
![](https://assets.st-note.com/img/1662189421291-ff3ql5XXxA.jpg?width=1200)
自転車をこぐ若者は誰もが細いが、素晴らしい脚力で、競って走る。
重い男達を客車に積み、ガタガタ道も見事なバランス感覚で、疾走。
だが、頼みもしないのに、勝手に競争して1着になると、チップ込みの
運賃にもかかわらず、さらにチップを請求してくる。抜け目がない
そこは無視して、サッとやり過ごす。逃げ足なら、負けないのだ^^。
![](https://assets.st-note.com/img/1662189457936-4F8Jcr7uK5.jpg?width=1200)
さて、マヤ堂だが、室内は撮影禁止の為、お見せできない。が‥
マークストーンの前では、熱心な仏教徒たちが列をつくっている。
自分の順番がきて、石の前に立つと、深く頭を垂れ祈りを捧げる。
或る者は、朽ちたレンガの壁を撫で、また或る者は、壁に額をつけ、
繰り返し経を唱えている。
壁には、ビルマの信者によるものか、小さな四角い金箔が、所々
に貼られている。 人々の周りには、荘厳さが深く、漂っている。
室内は意外に明るいが、私には何かズーンと、空気が重く感じた。
ここまで来て、仏教への向き合い方の違いを、思い知らされる‥
目の奥が軽く痺れ、折角のマヤ堂だが、見学もそこそこに退散したく、
私は自然光が招く、背後の出口から、外の世界へと身を投げ出した。
スルッと迎えた外気はまだ、靄に包まれ、少し、湿り気を帯びていた。
インド仏跡巡礼⑥へ、続く
(2014年3月3日 記)