見出し画像

「研究者のための瞑想リトリート2024」レポート 〈Meditation PJ〉

2024年7月31日〜8月3日の4日間、「研究者のための瞑想リトリート〜自然の静けさの中で自分を見つめる体験から学ぶ〜」が、埼玉県秩父市の大陽寺にて開催された。主催は高橋康介(立命館大学)、北川智利(吉賀心理学研究所・立命館大学)、藤野正寛(NTT CS研)からなる「瞑想心理学研究プロジェクト」で、意識研は共催という形で理事の七沢智樹 他メンバーが参加した。

本企画は科研費基盤A「知覚像はどこまで自由に操れるのか:知覚像制御の心的過程と脳内基盤の解明」(https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-23H00078/)の一環であり、瞑想による知覚的、認知的、心理的側面への影響を調べることを目的とし、瞑想リトリートの事前と事後に、知覚・認知心理学の実験や調査が実施された。

参加者は全国から集まった研究者を中心とした男女18名。心理学から認知科学、神経科学、情報学、医学、人類学、技術哲学など、様々な分野の研究者たちが集結し、秩父の山奥で静謐な時を共にした。

膨大な情報の中でも振り回されない自分を確立できる

初日の昼に西武秩父駅に集合した一行は、バスで1時間ほどかけて標高800mの深山幽谷にある大陽寺を目指す。深々とした山間にひっそりと佇む大陽寺は、鎌倉後期に仏国国師によって開山された臨済宗建長寺派の由緒正しきお寺だ。天空の禅寺として知られ、「天狗が住む」とも言われる山奥にあり、携帯電話の電波は圏外。まさにリトリートに打ってつけの環境である。到着後、一行は御堂に集合し、まずは住職の浅見宗達氏のお話を聞く。

「ここは圏外で情報が入って来ないので、一般的には無知ということになるかもしれません。でも何にも振り回されずにあるがままをすべてを受け入れる、これも一つの幸せな生き方なのではないかと思います。

最初はLINEが繋がらない、メールが見れない、どうしよう…と不安に思うかもしれませんが、自然とともに呼吸を感じながら過ごすという人間本来の在り方を体験することで、膨大な情報の中でも振り回されない自分を確立できる可能性があります」と浅見住職。

皆で般若心経を唱えた後、今回のリトリートで瞑想の指導をしてくださる井上ウィマラ先生をお迎えした。

井上ウィマラ先生は、曹洞宗で出家して正法眼蔵と只管打坐を学んだ後、ビルマの上座部仏教で出家してヴィパッサナー瞑想、経典とその解釈学、アビダンマ心理学を学んだ仏教学者であり瞑想指導者。カナダ、イギリス、アメリカなどでも瞑想を指導してきた経験を持つ。ウィマラ先生は般若心経をフォークミュージックにアレンジしたオリジナルの楽曲を、ギターの弾き語りで披露した後、大きな禅堂に場所を移した。

瞑想の指導に入る前に、まずは参加者同士の関係性を構築するために、自己紹介が行われた。研究対象や興味関心、今回のリトリートに期待することなどをシェア。瞑想、しかもサイレント(誰とも喋らず、目も合わさない沈黙の期間)を伴うということで、孤独と向き合うイメージが強いが、実はリトリートでは一緒に坐る仲間(サンガとも言う)との関係性も重要だ。もし相手のことをよく知らなければ、瞑想の際に気になって集中できない、なんてこともある。また1人じゃないということで集中力を保てたり、心の中で励まし合うといった気持ちも生じる。瞑想の前に安心、安全な環境を整えることで、リトリートの質を高める。

お互いのことを知り、場が温まったところで、マインドフルネスについての基本的な説明が行われた。マインドフルネスはもともと仏教を起源にしており、ブッダが説いた悟りに至るための念処(satipatthana:気づきの確立)がベースとなっている。それを1979年にアメリカ人分子生物学者のジョン・カバット・ジンが、仏教色を排したマインドフルネスストレス低減法(MBSR)として医療分野で活用したことで世界中に広まった。主催者で瞑想研究者の藤野正寛氏は、マインドフルネスを「次々と生じている今この瞬間の経験に開かれた注意でありのままに気づいていること」と定義づけている。

1秒前を思い出すと言葉にできない世界に追い込まれる

この定義をわかりやすく体感するために、ウィマラ先生が体験実験を紹介した。まずは楽な姿勢になり、5年前に何があったのかを思い出す。次に1年前、1ヶ月前、1時間前というように徐々に時間を縮めていく。そして「1秒前を思い出そう、1秒前を思い出し続けようとすると何が起こりますか?」という問いかけがあった。他と同じように思い出せるのか? 何が違うのだろう? ということを意識しながら、1秒前を思い出し続ける。

実際に1秒前を思い出そうとすると「いつ誰と、何をして…」ということを言葉で説明するのは不可能。言葉を使って表現できない、ただ感じているだけの世界に追い込まれる。その体験を心地よいと思うのか、心地悪いと感じるのか、というのは両方あっていいとウィマラ先生は説明する(理系の人は論理的に考えられないので心地悪く感じることが多く、宗教的で直感的な感性の強い人は静けさや永遠に触れたようで心地よく感じるケースがあるそうだ)。いずれの場合でも、ただ、その時に身体のどこにどんな反応が起こっているのか、心の中にどんなイメージや物語が展開しているのかを観察するように、というインストラクションが入る。

そして今度は逆に何秒あれば、「いつ誰と、何をして…」という「私」を主語にした言語的思考が成立するのだろうかという問いかけがあった。ウィマラ先生は乳幼児精神医学者のダニエル・スターンが赤ちゃんとお母さんのやり取りに関するビデオ研究を通して、原初的な意識が発生するために必要な時間が3~4秒であったことを紹介した後、「言語化される前のただ見えている、聞こえている、感じているだけの間、<私>が存在してない時間があるのかもしれないということですよね。このことは存在論や認識論の分野で哲学者がいろいろと議論をしていてもなかなか取り上げられないテーマです。マインドフルネスではそれを非常にビビッドに体験することになる。それは、呼吸と心拍や感覚の流れのみを感じているだけで言語化される以前という意味では<純粋体験>とも言えます」と説いた。

この1秒前のことを意識し続けることは非常に具体的で、しかも比較的簡単に無思考状態を作れるため、参加者からも好評だった。

マインドフルネス瞑想では、ありのままの呼吸を観察することによって、心の動きが呼吸にどのように影響していくかを観察することも重要だ。まずは吸う息と吐く息の違いを実感する。吸う息と吐く息の違いを感じることは、コミュニケーションにおけるマインドフルネスにもつながっていく。なぜなら私たちは、言葉を話す時には息を吐いているからである。今、自分が何を話しているかだけではなく、どんな息遣いでその言葉を話しているのかを自覚することは、コミュニケーションしている自分と他者を非言語的なレベルでありのままに見つめる基盤となってくれる。

「吸う息と吐く息の感触の違いがよくわかるようになったら、今度は吸い始めから吸い終わりまで、吐き始めから吐き終わりまで、始まりと終わりを意識しながら、呼吸を見つめるように心がけてみてください。始まりと終わりをはっきりと意識することで、すべての物事には始まりと終わりがある、すなわち無常であるということが身に沁みてわかってきます」(ウィマラ先生)

呼吸の始まりと終わりを通して、無常をしっかりと理解できるようになったら、今度は一回一回の呼吸の長さ短さ、深さ浅さをありのままに見つめられるようにする。呼吸はその時の体の状態、心の動き、周囲の環境の状態に応じて常に変化している。一回一回が一期一会の呼吸である。<私>がコントロールしていなくても、呼吸はそれ自体で現れては消えていく。こうしたことをありのままに理解できるようになると、無常ということに心が開き始める。

呼吸を見つめるのと同じくらい大切なことは、心が呼吸から離れて何かを考えたり思い出したりしていることに気づいた時、どのように対応するかということである。

まずは何が起こっていたのかをありのままに確認する。「思い出していた」、「考えていた」、「悩んでいた」など、その状況にピッタリとくる言葉を添えて確認すると一区切りつきやすい。そんな時には自分を責めていることが多いので、そのことに気づいたら「自分を責めている」と確認する。こうして気づくことがマインドフルネス瞑想の良い出発点になってくれる。

そして次に、その思いに囚われたことで、身体のどの部分にどんな影響が出てくるか、どんな感じがしているかをしっかりと感じて味わう。胸がドキドキしていたり、歯を食いしばっていたり、手に汗を握っていたり、眉間にしわが寄っていたり…。部分を特定しながら身体で感じることが気持ちを受け止める土台になる。

しっかり身体で感じることができたら、身体のバランスや姿勢の変化を確認する。「胸が開いているか」「肩の力が抜けているか」「頭が背骨の上にまっすぐに乗っているか」などをチェックして、バランスや姿勢を整えて、ゆっくりと優しくしっかりと呼吸に戻る。そしてもう一度、吸う息と吐く息の感触を確かめる。この「優しく」戻るところで、自分自身への優しさ(セルフ・コンパッション)の土台が培われる。

「例えばいい研究のテーマが湧いてきても、精進料理って美味しいなと思っても、歩いていると風が気持ちいいな、足が痛いなと感じたとしても、どんなことを感じたり思ったりしても、その瞬間の姿勢はどうか、身体のどこに緊張や変化があるのか、頭ではどんな言葉が物語を展開しているのか、それらをしっかりと味わって、身体で感じることがマインドフルネス瞑想の基本です。もし呼吸から意識が逸れても、それに気づいて、感じて、戻る。その繰り返しの中で自分自身に対するコンパッションが養われてゆきます。決して責めることなく、責めていることに気づいたら、そこからはじめて七転び八起きで、ゆっくりとまた呼吸に戻っていきましょう」

ウィマラ先生は、この①気づく、②感じる、③整えて戻るという3つのステップを「気づきの作法」と名付けている。

見張るではなく、見守るを意識することが大切

心構えが分かったところで、今度は実際に呼吸を感じていく。呼吸を感じるのは鼻でもお腹でもよく、鼻の場合は鼻腔に空気が入って出る感覚を観察する。お腹の場合は鳩尾から下腹のあたりの膨らみと凹みを観察していく。もし感じにくい場合には、手のひらを鼻の前に置いたり、お腹に手を当てながら直接的に感じていく。

「吸う息と吐く息のどちらが温かいか冷たいか、その違いがわかりますか?」というウィマラ先生の声掛けが入り、さらに細く吸う息、吐く息の湿度の違いや細かな質感について観察していく。吸う息と吐く息の違いを意識するのは、その吐く息を使って私たちが言葉を発音してコミュニケーションしていることに気づくことにもつながってゆく。吐く息を声にして言葉を発する時、喉や声帯の感じはどうか、音はどう響いているか。

「自分の名前を息を吸いながら言ってみてください。言えますか? そうですね、名前を呼ぶときには息を吐いています。息を吐いていることに気づきながら自分の名前を呼んでみるとどんな感じがしますか?」 「こんなふうに呼んでもらえると幸せに感じるなぁ」という呼び方の息遣いを探してみる。息遣いを感じて、心を込めて言葉を発することが話すマインドフルネスにつながってゆく。

さらに、匂いを嗅ぐときには息を吐いているのか吸っているのかを確かめてみる。鼻の前に手を置いて息を吸うと、手の匂いがする。呼吸を見るといっても多岐に渡る。普段は無意識に行っている呼吸の奥深さに触れた思いがする。

慣れてくると今度は、吸い始めと吸い終わり、吐き始めと吐き終わりについても気づいてみる。始めから終わりまでの変化はどうなっていくのか。長い息もあれば短い息もある。深い息と浅い息の違いもある。吸う息から吐く息への転換はどうなっているのか、どこまで吐いているのかなどを詳しく観察する。それから呼吸運動を生み出してる横隔膜の動きや肺の周りの体壁筋の動きを感じていく。意識しすぎると自然な呼吸が出来なくなる場合もあるので、その場合は観察しようとする気持ちを少し緩めて落ち着かせてから、再度チャレンジしていく。

ウィマラ先生からは「観察する行為の中に見張りの要素が多いと窮屈になる。見張るのではなくて、“見守る”という感覚が大事。もしうまく呼吸が出来なくなったら、『そんなに厳しく頑張りすぎなくてもいいよ』と、自分に声を掛けてあげてください。見張りと見守りの違いが分かって、自然な呼吸ができない窮屈さが消えていくと、そこがマインドフルネスを起動するポイントになります。“見張るから見守るへのシフト”は、知らないうちに親の価値観を内在化してしまった超自我からの解放とも言えるでしょう」という声掛けがあった。

次にサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違いについての説明があった。サマタ瞑想は集中型瞑想で、ひとつの対象についてひたすら意識を向け続ける。ヴィパッサナー瞑想は洞察型瞑想で、その時心に一番明瞭に現れて来ている対象を繰り返しありのままに観察する。「人によって違いはありますが、サマタは見張る傾向が強くなりやすく、何かに集中することで何かを排除してしまうことがありますので、そのことに気をつけてください。ヴィパッサナーは、その見張ってしまう癖に気づいて見守る要素を生み出す基盤になってくれます。マインドフルネス瞑想にはどちらの要素も入っていますので、どちらの状態も経験すると思いますが、いずれにしてもマインドワンダリング(心が呼吸から離れてさまよう現象)に気づくたびに「気づきの作法」を実践して、考える人・悩む人から呼吸を感じて安らげる人に戻って来られるように工夫してみてください」とウィマラ先生。

口と肛門が繋がっていることを意識して軸を定める

次は坐る姿勢についてのレクチャーだ。足の組み方は左右の足を両方の太ももにのせる結跏趺坐や、片方の足だけを太ももにのせる半跏趺坐、胡坐(あぐら)などがあるが、今回は自由ということで、各自がやりやすい足の組み方で坐る。呼吸に合わせて左右に身体を揺らしながら、お尻にある二つの坐骨を感じて、二つの坐骨に均等に体重がかかる位置を探っていくと、揺れが次第におさまっていって、背筋がまっすぐになる中心軸が定まる。

中心軸が定まったら、一旦両手は腰の横にだらりとおろして、息を吸いながら肩を少し上げて、息を吐きながらストンと落とす。肩や首の周りは凝りやすいので、軽く回しながらほぐしていく。胸が開いて、肩の力が抜けて、背骨の上に頭がストンと真っ直ぐに乗っている感覚を確かめる。両耳と、両肩と、二つの座骨が一つの垂直平面上に並んでいるイメージが役に立つ。両手は膝の上においても、身体の前で組んでもよく、一番心が落ち着く所に置く。目は瞑ってもいいし、少し開いた半眼でもいいとのことだ。目線の先がどこに当たっているかを確かめて、目線を軽く定めると心が集中しやすい。

「口にも意識を向けていきます。口の中で、舌がどこに触れているかを感じてみます。唇を舌で軽く潤し、同時に肛門をキュッと閉めて、口と肛門が一本の長い管で繋がっていることをイメージしてみます。その管の表面は粘膜になっています。皮膚は外側の表面ですが、管の粘膜は内側の表面です。人間の身体は、この管で外界を体内に取り込んだような位相になっています。その腸の粘膜を通して様々なものを取り込んでいることを意識します。腸は私たちの脳や心に深い影響を与えることでも知られているので、腸内環境を意識することも実は重要なことです」(ウィマラ先生)

瞑想が終了する際は、チーンという鐘の音が鳴る。その音が聞こえたらゆっくりと目を開いていくが、その前に目と瞼が触れ合っている感触を味わう。目を閉じていても実は光を感じているかもしれないし、心の中に何かが見えているかもしれない。目と瞼が触れ合っている感触を確かめて、ゆっくりと目を開いていく。光が目に触れる瞬間を感じる。自然に色や形が見えてくる様子を確かめる。そして何ヶ所か目線を移動させて、「こっちを見よう」と意図する心の働きと、目を動かす筋肉の緊張と、目が動いて視覚映像が変化していく様子を観察する。日常では無意識的に繰り返していることだが、実はさまざまなことが瞬時に行われていることに気づく。自然に見えてくることと、自分の方から見ることの違いを実感する。これを20〜30秒くらい、ゆっくりと味わう。その後、軽く息を吐きながら、身体を楽にして、両手や足の裏の感覚を確かめながら、身体を自由に動かしてストレッチする。

呼吸の違いを味わうことは、命を味わうということ

坐り方が分かった後は、身体感覚をどのように感じるのかというワークを行う。1分かけて握り拳を握り、1分かけて指をゆっくりと開いていく。普段何気なく行っている行為だが、ゆっくり意識的に行うと、普段とはまったく違うように感じられる。ぎこちない動きになったり、速度調整がうまくいかなかったり、呼吸と合わせようとするとうまくいかなかったりと、なかなか難しい。「アスリートがフォームを変える際に、神経一本一本に意識を向けて調整していく感覚に似ている」とウィマラ先生は説く。

次に、歩く瞑想に向けた準備のための身体感覚を感じるワークということで、まずは肩幅に足を合わせて立つ。その際、どれくらい足を開くのが心地よいかをつぶさに感じてみる。つま先、かかとに重心をかけるとそれぞれどんな感じがするか。親指の拇指球と小指を結ぶ足の外側の線に体重をかけると、身体のどこが緊張し、どこか緩むのか。逆に足の内側に体重をかけるとどうか。息を止めてしまわないように、呼吸を通して観察する。

今度は吸う息に合わせて片足のかかとをゆっくりと地面から離し、反対側の足にしっかりと重心をかけて身体を支えながら、つま先が地面を離れて、片足が軽く浮き上がってゆく。息を吐きながらその足を下ろしていって、しっかりと地面を踏みしめて体重を乗せてゆく。そして今度は息を吸いながら反対側の足も同じように動かして、その場で軽い足踏みの瞑想にはいってゆく。慣れてきたら、少しずつ足を前に踏み出して、歩く瞑想に移行してゆく。吸う息、吐き息と足を連動させ、上半身の緊張も解いて自由に動かしてゆくと、呼吸のダンスのようになる。一歩一歩バランスを取りながら、肩や首筋の緊張も抜けて、全身がゆったりと連動してリラックスしながら、前に進んでゆく。身体の繊細な動きの感覚を感じながら、部屋の中を自由に歩く。歩いている最中に思考が湧き上がってきたら、「気づきの作法」に従って、気づいて、感じて、整えてから歩く瞑想に戻る。それでも頭から思いが離れないようだったら、一度足をそろえて止まって深呼吸する。立った姿勢で何回か呼吸を感じて、気づきの作法を繰り返しながら、ひと段落したらまた歩行瞑想を始める。

身体感覚を感じるワークの最後は、他者の呼吸をみるというものだ。「このリトリートでは対人関係を大切に取り扱おうと思ってます。それは沈黙の中でも、『みんながそれぞれに探求しているんだなぁ』という目線で見守る姿勢が大切だからです。ですからここでは、他人の呼吸をみていきたいと思います」と意図の説明があった後、二人組になって一人は寝た状態、もう一人は相手のお腹の横に坐る。

坐っている人は、相手のお腹に触れる前に、自分の手を軽く擦ってリラックスさせる。両手を離したり近づけたりしてみて、反対側の手のひらを微かに感じられるくらいになったら準備完了。どういう風に触るのが良いかを考えながら、寝ている人のお腹にそっと手を近づけてゆく。お腹の動きに合わせて、上がってくるお腹を迎えるように触れるのか、下がってゆくお腹に追いつくように触れるのか、どちらが優しいランディングになるかを工夫する。

実際に触れたら、「触れる場所はここでいいですか?強さはこれくらいでいいですか?」と言葉で確認する。横になっている人は、「もう少し上に…」とか「もう少し弱めに…」とか、正直に自分の気持ちを伝える。触れる場所と強さをきちんと確認することは、実際の人間関係でもとても大切な要素になる。

一回一回の呼吸の勢いや長さや深さが違うことに気づいたり、徐々にゆっくりになっていったり、止まっているのではないか、死んでしまったのではないかと不安に駆られたりなどを体感する。触られている人は最初は緊張して身体が強張るが、徐々に安心感を感じるようになり、あたたかい気持ちになってくる。

手を離す際にも、どのように離すと相手が心地よいか、安心するか、離した後の余韻はどうか、名残惜しい感覚はあるか、などを観察する。

「呼吸って一回一回こんなにも違うんだ、ということをしみじみと味わってみてください。それが命を味わうということになります」と、ウィマラ先生が呼吸に意識を向けるということの核心に迫る。

インストラクション終了後は食事の時間。食事はすべて精進料理だ。精進料理は肉や魚などの動物性の食材と五葷(ネギ、ラッキョウ、ニンニク、タマネギ、ニラなど)を使わない、野菜を中心とした料理である。事前に共有された資料で、禅宗などで唱えられる五観の偈や、食に関する反省(上座部仏教)などが紹介されており、それらを唱えても良いし、「食事の祈り」を自分で作るワークも事前に提案されていたので、それを唱えても良いとされた。

<五観の偈>(禅宗など)
1. 一つには、功の多少をはかり彼の来所をはかる。(この食べ物が、どこからどのような人々の手間を経てやってきたかをふりかえります)

2. 二つには、己が徳行の全欠をはかって、供に応ず。(自分の積んだ徳がどれくらいあるかを考え、供養をうけます)

3. 三つには、心を防ぎ咎を離れることは貪等を宗とす。(心を守り罪を作らないようにするために、貪り・怒り・無自覚などに気をつけます)

4. 四つには、正に良薬をこととするは形枯を療ぜんがためなり。(身体の健康を保つためによき薬を服用するようにこの食事を頂きます)

5. 五つには、成道のためのゆえに今この食を受く。(解脱・悟りに向けた道を成し遂げるためにこの食事を頂きます)

<食に関する反省>(上座部仏教)
ふさわしくふりかえりながらこの食事を頂きます。遊びの為でなく、自慢するためでなく、体を強く見せるためでなく、美しく見せるためでなく、この身体が健康に維持されて、飢餓や病気などの苦しみが消えて清らかな行いを守るためにこの食事を頂きます。この食事を頂くことで、古い苦しみが無くなり、新しい苦しみは起こらず、健康に恵まれて、罪を作ることがなく、安らかに過ごすことができますように。

食事中も基本的には呼吸や身体感覚で行ったワークと同じように、お茶碗を持って箸を使い、口に運ぶ時の感覚、口に入れた後の舌や歯に当たる感覚、噛んでいる時の食感や香り、甘さや辛さやしょっぱさなどの味を感じて味わう様子、飲み込む際の喉やお腹に入っていく感覚など、それぞれの動きを注意深く観察していく。食事終了後は、お茶と沢庵を使ってすべてのお皿を綺麗にし、最後にそのお茶を飲み干すのが作法となる。

一日目が終了し、二日目の朝はお寺から15分くらい歩いたところの渓谷まで散歩し、渓谷で過ごすにあたってのポイントや注意事項などを確認した。お寺に戻って朝食を食べた後、お昼から始まるサイレントに入るために、最後のインストラクションが行われた。

死の瞑想では最後の呼吸をどうするかに思いを巡らす

二日目の最初に行ったのは横たわって寝る瞑想だ。一人一人が横になり、床と身体がどのように触れ合っているのかを観察する。後頭部のあたりはどうか、ふくらはぎやかかとの感触はどうか、硬いのか柔らかいのかなどを感じわけながら、自分が一番心地の良い体勢を探っていく。仰向けになって足の親指とかかとを結ぶ線を意識して、身体の中心軸の両側にどれくらいの距離と角度で置かれているのかを意識してみる。少しずつ動かしながらそれが一番心地よい距離と角度なのかどうかを確認する。身体の中にどこか気になるところがあれば、ハァ〜と息を吐きながら、身体に「楽にしていいよ」と声をかけながら緩めていく。

「渓谷で寝るともっとゴツゴツしていて、身体のあちこちが痛くて緊張します。そんな時には、少しずつ身体を調整しながら、その緊張をほぐしていって、一番楽な姿勢を探ります。また、タイミングをみて死の瞑想をやってみるのも良いかもしれません。ヨガではシヴァ―サナ(死体のポーズ)と呼ばれるものに近いです。呼吸を感じながら、この呼吸はいつ止まってもおかしくないと思ってみましょう。次の呼吸が出てくるという絶対の保証はないのです。私たちはいつ死んでもおかしくないのです。あと何呼吸かしか呼吸できないとすると、どう呼吸したいですか? 最後のひと息をどこでどう迎えよう…真剣に考えてみましょう。仏教瞑想・マインドフルネスの到達点は、死に方の練習に通じてゆきます。浮かんでくる想念の看取り、『私』という仮想現実の死の看取り、それが究極的な死の準備になってゆくのです」とウィマラ先生。立ち上がる時も腹筋を使って一気に立つのか、横になって回転しながら立つのかなどの違いを意識して、一番楽な起き上がり方を探ってゆく。

次に行ったのは歩く瞑想。足を肩幅くらいにして立ち、足の裏の感覚を感じ、重力に逆らって身体がどのように保たれているのかを意識しながら、何回か呼吸を行う。歩き始めようという気持ちを確認し、吸う息、吐く息に合わせながらゆっくりと歩き出す。右足を出す、左足を出す、右足が上がる、移動する、右足を踏み下ろす…と確認しながら歩く方法もある。

速度は特に決まっておらず、10 mを1時間かけて歩いてもいいし、いつもと同じ速度で歩いてもいい。ただ速度が遅いほど、さまざまな感覚に気づきやすい。逆に言うと、集中力が上がって細かな感覚に心を向けることができるようになるにつれて、歩く速さは次第にゆっくりになってゆく。こちらも身体感覚を感じるワークと同じように、動きがかなりぎこちなくなる。無意識の時はスタスタと何のわだかまりもなしに歩けるのに、意識を向けた途端に歩き方が分からなくなってしまうような気がする。そのような非日常を味わっていく。

沈黙に入る前、最後に行われたのはレーズンを使ったワークだ。目をつむって、身体の前に両手を寄せて器を作って待つ。そこに、一粒のレーズンがぽとりと落とされる。目をつむったまま、それが何かを、感触や香りを手掛かりにして推測する。目を開けて確かめる。何が手掛かりでレーズンだと当てることができたのか? どんな感覚でそれ以外のものと勘違いしてしまったのかを確認する。それから改めて、今五感を使ってレーズンをどのように体験しているのかを一言ずつ口に出さずに実況中継してみる。

何気なくレーズンをつまんで口に運ぶという動作も、ロボットにやらせてみると結構難しいものだ。当たり前にできることが、いのちの奇跡の積み重ねの上に成り立っていることに心を寄せてみて、あらためて丁寧に一粒のレーズンを口に運ぶ。

まずは目でみて、匂いや手の感触を確かめてから口の中に入れる。口に入れた後もすぐには噛まず、舌の上で転がしながら、どういった形状なのか、大きさはどうかなどを観察する。噛む際も、噛む瞬間の感触、味わい、どれくらいで飲み込むのか、飲み込んだ後、どのようにお腹に入っていくのかなどをみていく。

それが終わると今度は、自分がレーズンになったとしたらどのように食べてもらいたいと思うか、「レーズンの祈り」というタイトルで自由に作文をする。できたら、3人くらいのグループで読み合わせをする。その時にも、読むマインドフルネス・聴くマインドフルネスの実践ができるようなルールを課す。読む時には、書いた通りに読むこと。恥ずかしいので編集して言い換えようと思うことがあるかもしれないが、そこをじっとこらえて書いた通りに読んでみる。そして、どう感じるかをしっかりと味わう。恥ずかしいと思う気持ちや照れる気持ちは、自分の本心と出会う際の抵抗かもしれない。こうした抵抗に慣れてゆくことが、ほんとうの自分に出会うために必要になる。涙が流れてくることもある。人が読んでいる時には、自分の作文は伏せておいて、読んでくれている声に全身全霊で心を向ける。そして、聴きながら自分は何をどう感じているかをしっかりと味わう。

マインドフルネス瞑想は間主観的に実践されるもので、自分だけを見つめていればよいわけではない。こうした実践を通して、関係性の中で生きていることを具体的に味わうことが大切になる。主語を入れ替えて、他人の目線から世界を観てみる実践にもなる。自分ではないと思っている存在、他者、自然、動植物などへの理解や共感をはぐくむことにもつながる。沈黙期間中は外部との接触を断つため、このようなコンパッションの醸成が助けにもなる。

そしていよいよ、サイレントの時間へと突入していく。サイレント期間中は誰とも言葉を交わさず、人とすれ違う際も目を合わさず、ひたすら自身と向き合っていく。初めての人にはなかなかハードな経験かもしれない。一方で人と話したり、コミュニケーションを取らなくてもいいことが、楽に感じるということもある。普段は無意識的に行っているので特に何も感じることはないが、意識して観察してみると、ストレスになっていることもあるようだ。

自然の中で存分に坐れることが本リトリートの醍醐味

坐る場所は自由で、渓谷に行って川や滝とともに過ごす人もいれば、禅堂や部屋で過ごす人もいれば、渓谷までの道で歩く瞑想を行う人など実にさまざま。一般的な瞑想のリトリートでは外部との接触を避けるために、禅堂のような部屋の中に集まって坐る場合が多いが、今回のリトリートの醍醐味はなんといっても自然の中で存分に坐れること。そのようなこともあり、自然の中でただ佇むという姿が多く見受けられた。また、瞑想経験者にとっても、非常に新鮮味のある体験となった。1日3回グループ瞑想の時間が設けられていたので、その時間は皆で一緒に坐り、互いに心の中で励まし合いながら、自身の瞑想をさらに深めていく。

サイレント中、希望者はウィマラ先生の面談を受けることができ、瞑想の進捗具合を報告しながら、どうすればもっとうまく坐れるかなどを直接指導いただく機会にも恵まれた。サイレントの期間は実質的には丸2日。最終日の午前中にサイレントが解かれると、30分くらい移行のための時間が設けられた後、皆で体験のシェアが行われた。以下、シェアされた内容をいくつか紹介する。

一生楽しめる遊びを教えていただいたと思っている

「渓谷で瞑想していると自分の存在が薄れて、まわりとの一体感をすごく感じて、自然がだいぶ近くなったように感じました」

「本格的に瞑想をしたのは初めてなので、呼吸に集中するというのが難しかったです。最初はどうしても整理しちゃって、すごく規則的なリズムで無理やり呼吸をしてたんですけど、途中からそうじゃないんだと思い始めて。勝手に始まる呼吸についていって、それと一体化できるようになり、これが呼吸に集中することなんだということを体感しました」

「グループ瞑想をしている時に、すぐ横に誰かが坐っている印象を強く感じたんです。雰囲気はウィマラさんだったんですけど、まさかウィマラさんがいきなり自分の横に坐ることはあり得ないので、誰もいなかったはずなんですが…。心理学ではイマジナリーコンパニオンといって、小さな子供がずっと自分の横にお気に入りの存在を置いておくということや、一部の認知症では何もないのにリアルにあるように感じる実体意識性というものがあるんですが、同じような知覚を体験したことに驚いています。研究テーマが知覚の変容なので、対象を集中して捉えようとすることで、知覚の変容が起こることを実際に体験できたことは大きな収穫でした」

「自分と対象が一体化するような感覚が素直にあったと思っていたんですが、瞑想をすることで、その一体感が失われてしまった気がしています。例えば渓谷に行って、大きな岩に苔やシダが生えている場所で坐ると、ものすごく綺麗なんですけど、まだ来るなと拒まれているような感じを受けて。瞑想とか死を考えていない時には特に意識することなくできたことを、もう一度見つめ直すというか、そう簡単じゃないということを改めて自覚するステージなのかなと思いました」

「はじめは足が痛かったり、虫に刺されて痒くなったり、なかなか集中できなかったんですが、徐々に呼吸に集中することが楽しくなってきて。一生楽しめる遊びを教えていただいたという感じがしています。時間さえあれば、どこでも軽く目を閉じて自分の呼吸と対話することができますし、吸う、吐くという行為と生と死の繰り返すことのイメージが重なることもあり、大変ありがたい行為を教えていただいた気がします」

「伝統的な狩猟採集社会や農耕社会、漁猟社会などを30年ぐらい調査をしているんですが、研究者は彼らの生態を研究して分かった気になっていますが、実は彼らのマインドフルな状態についてまったく分かっていないということに気づきました。今回のようなリトリートは、現代に生きる人々が必要としているものだと思いますが、では人類はいつ頃からマインドフルであることを忘れてしまったのか。それは自然に手を入れるようになった農耕が始まった頃なのか、それとも産業革命が起こって自分たちの力を超えたエネルギーを手にするようになってからなのか、というような興味が湧いてきました」

感想をシェアし合った後は、最後に慈悲の瞑想を行い、皆で自分の、一緒に坐った仲間の、家族の、同じ社会で生きる人々の、生きとしいけるものすべての幸せを願い、ポッとあたたかい気持ちを胸に帰路についた。研究者は一般的に分析と思考、言語を扱うことを生業しているため、それらをすべて手放し、ただ観察し続けるという行為は大変貴重な機会である。それ故、本リトリートで初めての知覚と出会い、新たなパースペクティブで自身の研究を捉えるきっかけになったのではないかと期待が高まる。

最後に本プロジェクトの主催者でコースの運営に関わった藤野正寛氏に、本リトリートの総括を語ってもらった。

多くの方に知覚体験の変容が生じたことに驚いた

「近年、欧米を中心に瞑想研究が精力的に進められています。そのきっかけには様々な要因がありますが、特に重要な要因の1つに、多くの異分野の研究者たちが瞑想リトリートに参加したことがあげられます。特にサイレント期間を設けるような瞑想リトリートでは、誰ともコミュニケーションを取らず、携帯電話やインターネットも使用せず、刺激の少ないものを食べるといったことを通じて、普段晒され続けている外部からの刺激を極力減らしていきます。そして、瞑想実践によって、普段は外側に向いている注意を内側に向けられるようになったり、そこで生じている感覚や感情や思考に対して振り回されることなく見守れるようになったりしていきます。

その過程で、それまで当たり前だと思っていたことが足元から崩れていくような体験や、身体と心の緊張がなくなった先にある本当の静けさに触れるような体験など様々な体験が生じてきます。それを他の誰でもない自分の身体と心で体験したり、そのことが自分だけでなく、リトリートに参加した周りの人たちでもおこっているということに気づいたりした研究者たちが、瞑想に興味を持ち、瞑想研究を始めていったのです。

欧米では、1970年代頃から、一般向けの瞑想リトリートが盛んになり、そういった瞑想リトリートに参加した研究者が瞑想研究を行うようになりました。日本でも、1990年代頃から、一般向けの瞑想リトリートが行われるようになりましたが、そういった瞑想リトリートに参加する研究者はまだまだ少数です。

そのような状況で、今回、科研費基盤A「知覚像はどこまで自由に操れるのか:知覚像制御の心的過程と脳内基盤の解明」の一環として、研究者のための瞑想リトリートを開催しました。参加した多くの研究者のかたたちにとってはこれが初めての瞑想体験だったようです。しかし、井上ウィマラ先生の指導のもと、今この瞬間に生じている感覚や感情や思考といった経験にありのままに気づいているための様々な実践を熱心に学んだ上で、それぞれの2日間のサイレント期間を過ごされました。

見渡す限りの山々に囲まれた大陽寺の広大な敷地には、みんなで一緒に座るための大きな禅堂だけでなく、散策できる森や、足をつけて涼をとれる川や滝、胡座を組んだり横になったりして瞑想をするのにちょうどよい岩などがいくつもありました。研究者のかたたちは、みんなで座る時間には熱心に瞑想に取り組み、また1人で瞑想的に過ごす時間には思い思いの場所で自然と自分の間で起きていることや自分の内側で起きていることに気づき振り回されることなく見守るという実践に取り組んでいました。

最終日にサイレントが解かれた後のシェアでは、多くの方が知覚体験の変容が生じたことを教えてくれました。特に、目を閉じているのに光が見えるような体験や、自分の外側と内側の境界が薄れていくような体験というのは、僕自身が10日間の瞑想リトリートに参加しているときに生じた体験と同様であり、そのようなことが3泊4日の瞑想リトリートでも生じたことに驚きを覚えました。また、自然に生じている呼吸に気づいていることや、自然に流れている川を眺めていることを通じて、様々な自然現象が生じては消えていくものであるということを実感として体験したかたもいたようです。

このような体験だけで、劇的に世界観や自己観、生き方が変わるわけではないと思います。しかし、このような体験は、その先にある何かに興味を持ち、瞑想実践を続けていく大きなきっかけになります。今後も、このようなサイレント期間を設けた瞑想リトリートを継続的に続けていき、より多くの研究者のかたたちに瞑想を体験できる機会を提供するだけでなく、そのような瞑想リトリートが私たちの知覚や自己観に与える影響を検証していきたいと考えています。そして、そのような活動によって、日本における瞑想研究が精力的に行われるようになることを願っています」(藤野)。

尚、本企画の研究結果は、瞑想心理学研究プロジェクト https://sites.google.com/view/meditation-psychology/ に掲載予定である。


いいなと思ったら応援しよう!