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【極論】 日本の僕らにインストールされなかったもの
儒教 vs. 老荘 極論から始めよう
「儒教とか老荘とか知らんし、それより今日のご飯は何にしよう?」という人のために、極論から始めよう。
儒教 努力を続けてこの世で上に登り、その力を民のために使うことべし!
老荘 儒教のそんな教えは幻ですから!春になると草が繁り、冬になると枯れていく。人間の一生もそんなものでしかないから!
儒教は馴染み深い
日本人にとって儒教は馴染み深い。馴染み深いというより、「この価値観は儒教である」という意識すら持たないほど血肉に浸透していると言ってよい。
刻苦勉励、「仁・義・礼・智・信」、努力して立派なひとかどの人物になる、末は博士か大臣か。こういった日本人が当然のように持つ価値観というのは、実は自然に存在するものではなく、幾世代にも渡って刷り込まれてきたものなんである。
論語と算盤(そろばん)なんてのもあったね。
老荘 はカウンター
そんな儒教に対して、老荘(≒道教)は少し遠い。知識はもちろん日本に入ってきている。しかし日本人の価値観・生き方への影響力でいうと儒教に完全に圧倒されているようにも見える。
これにはいくつも理由があるのだが、主なものは「権力者に嫌われた」ということであろう。老荘は俗世的な価値観を否定する。例えば権力・財・名声・地位など、「ぜ〜んぶ幻想ですから」とぶった斬る。
これは時の権力者には嫌われる。だって王様は、みんなが自分のことを「王様だ」って思ってくれているから王様なんだから。お金だって、みんなが一様に「これがお金だ」って信じているからお金なんだから。
「そんなものは幻想で実は価値なんかない」って言いふらしている奴が現れて、そこそこのフォロワーを集め始めたら、その幻想の上に立っている権力者たちは良い気はしないよね。
儒教に偏った国
台湾に行った時のこと。
台湾人のある女の子と仲良くなって、帰国後もしばらくLINEでやりとりを続けていた。あるとき彼女が写真を送ってきて、「今日はお葬式があるの」って。その写真に写っていたのは、真っ黄色の紙を使って作った折り紙のハスの花がいくつも並んでいる様子。黄色の紙には真っ赤な文字が書いてある。
「これ、台湾の仏教?」
勉強不足な僕は無邪気にそう尋ねた。返事は「いや、これ道教だよ。」
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日本の中にいるとなかなか分からないことだが、少し俯瞰してみると、儒教と道教(老荘)が車の両輪のように機能している国がある。
「努力して上に登れ!」という価値観と、「ただ生きて死んでいく、それだけでいいんだ」という相反する価値観が生活の中で拮抗している状況がそこにはあるのだ。
対して、老荘道教が比較的浸透してこなかった日本。時の権力者たちは、どうやら儒教がお気に召したようである。儒教的な価値観を奨励すれば、国が富んでいくし権力者としての自分も尊敬されるんで、体制作りには儒教はめっぽう便利。お気に召すのは当然である。問題なのは、儒教に対するカウンターとしての老荘道教があまりにも弱いまま歴史を積んでしまったこと。
儒教、独り勝ち。この独り勝ち状態は韓国も似ているようである。そしてこれが日本と韓国、似たような地獄が現代に現出している理由でもある。(この場合、仏教は別次元の教えとして割愛する)
優劣ではなくって
老荘の方が儒教より優れた教えだよ、と言いたいのではない。儒教と老荘が互いのカウンターとなって、社会の中で、または一個人の中で機能しているという状態が大事なんである、ということを言いたい。
だって儒教の教えを体現し、儒教的価値観に沿った良い人生を全うしようと思ったら、どんどん上に登ることを強いられるんである。努力しないで上に登ろうとしない奴はダメなんである。ヒエラルキーの中で上に登るほど良いんである。これは強者崇拝の考え方だ。しかもかなり俗世的なヒエラルキーを想定しての強者崇拝だ。
しかし現実はそう甘くない。1人の強者が生まれる過程には、1万人の敗者が生まれるのである。そりゃそうだ。みんながみんな勝ち続けられるわけがない。というか勝ち続けられる人間なんか本当はひとりもいないんじゃないのか。
そこで大多数の(もしくは全員)の敗者を救うのが老荘だ。老荘から言わせれば、あなたが登ろうとしているヒエラルキー自体が幻想だ。「生きてりゃいいじゃん、それ以上の意味なんて人生にないよ」ここには勝者も敗者も存在しない。命を全うすればいいんである。ここに儒教的な考え方に対する有効なカウンター機能がある。
儒教が自傷行為になるとき
このカウンターが機能しなくて儒教が独り勝ちの場合どうなるのか。それは日本人の僕らが骨身に沁みてわかっているはず。儒教が「登れ」と設定したヒエラルキーを思うように登れなかった大多数(もしくは全員)の僕らは、儒教的な価値観では落伍者であり、教えを体現できなかったダメな奴らなんである。非常によろしくないことは、その落伍者の烙印を自分自身で押してしまうこと。だって儒教的価値観は、僕らの血肉にまで浸透しているのだから。
こうして僕らは勤勉・真面目・自責などのキーワードのアリ地獄の中で、自分の無力さを痛感しながらどんどん活力を失っていく。自縄自縛という言葉がぴったりだ。
儒教+ハイパー資本主義
もうひとつ付け加えておくと、この儒教独り勝ち状態に現代のハイパー資本主義ががっちゃんこしたケース、それが現代の日本社会のヤバさである。儒教の「ヒエラルキーを登れ!」という教えが、ハイパー資本主義のシステマティックに全てを数値化していくという性質と相性バツグンなんである。
偏差値・売り上げ・総資産・なんちゃらランキング・時価総額・GDP,,,。なんだって数値化して優劣勝敗をつけるハイパー資本主義。儒教が登れと命じるヒエラルキーがそこここに出現し、僕たちは頂点を目指すことをよしとされている世界に生きている。ほんとはそんな山なんて登りたくもないのに。
出口は、自家培養型老荘
ここまで、日本人の精神性構造の一面を説明してきた。
僕らがなかなか意識的に理解できない構造の話だ。なかなか理解できないのは、僕らはその構造の中で生まれ育ち今も生きているからで、本来その構造は空気のようになって自らは意識できないものだからだ。
その価値観に支配された世界を、一歩外に出てみよう。日本の外には僕らが当然のように良しとしていることを「なんでそんな生き方するの?」キョトンとした顔で聞いてくる人たちもいる。
価値観はひとつじゃない。というより、日本の中のこの価値観なんて世界に出たら小さな異変種でしかない。
僕らが持っている価値観の構造を知るためには、構造の外に出てみること。そして他の価値観を体験し、自分の中にある構造を再点検してみること。これを相対化という。
僕らが持っているスタンダードな価値観は、実はそんなにスタンダードでもなかったりする。
たぶん僕らの中には必要以上に儒教的なるものがすでにインストールされている。それを少しずつ無効化していくために、カウンターとなる価値観を自分自身で育てよう。
自家培養型老荘思想。それが現代を生きる僕らの出口になるだろう。