映画『ロッキー』のおかげで結婚できたという話【実話】
ある正月、私は『ロッキー』を観た。
シルベスター・スタローンの映画である。
実家の押し入れの中で、Amazonプライムの画面を閉じた私は確信した。
人生で最も大切なものはこれなんだ、と。
それがいったい何なのか、そのときはまだはっきりわからなかった。ただ、温かい涙が溢れていた。今自分が身を置いているこの環境は、自分がいるべき場所ではないということがはっきりとわかった。そして、そこから抜け出す決意をした。
そして私はその2ヶ月後、のちに夫となる人物と出会うこととなる。
そもそもなぜ『ロッキー』を観ようと思ったのか。
私はその頃、ある出来事により失意の底にいた。正月に実家に帰り、元旦の夜、ふと
「ついに『ロッキー』を観る時が来た」
と思ったのである。
スタローンの存在はもちろん知ってはいた。だが、高校生の頃に「どうやらこのゴダールという人の映画がすごいようだぞ」と思った私は、2本連続で途中で寝る失態を犯し映画嫌いになっていた。学生時代、周りには映画好きがあふれていたが、全く映画を観ない人、という設定で通すことにより劣等感を回避していた。
漫画家の花くまゆうさく先生の影響もあって『トラック野郎』は全作観ていたものの、それ以外のシリーズ映画(『スター・ウォーズ』等)を観たことはなかった。『あしたのジョー』や『ドカベン』を愛読していたこともあり、スタローンを好きになる土壌は十分に育っていたはずだが、周囲の友人は非英語圏の映画やカルト映画、白黒の日本映画等を好んでいたため、スタローンの映画に触れるきっかけがまったくなかったのである。
そしてもう一つ、私がスタローンへと導かれた決定的な下地があった。
それは、父が生前、金曜ロードショーなどの予告で『ランボー』の映像が流れると、すごく嬉しそうな顔をしていたという記憶だった。
父は「これを観なさい」とは一言も言わなかったし、家でスタローン作品を観ていた記憶もないが、今なら父がスタローン作品にどのような思いを抱いていたのかがわかる。なぜなら父は『エクスペンダブルズ』だったのだ。
酪農で大失敗し、妻と幼な子を抱いて故郷を離れざるを得なかった父。
親戚の誕生日になると「おじさんに電話をしなさい」と強制してきた父。
吉野家で「生卵は衛生上持ち帰りでは提供できない」(※当時)と言われ怒鳴ってきた、と誇らしげに語っていた父。
「今日トラックで間違って鳩轢いちゃった」としょんぼりしていた父。
おそらく父には心を開いて話せる友人も家族もほとんどいなかったと思う。
父はスタローンに、そんな自分を重ねていたに違いない。
かつてはさほど重要とは思っていなかったそれらの記憶と、「近々『ロッキー』のスピンオフが上映されるらしい」という現在進行形の情報、
そして、杉作J太郎先生の名著『杉作J太郎が考えたこと』(青林工藝舎)を片手に、阿佐ヶ谷・よるのひるねの杉作先生の塾に通い詰め受け取った数々の大切な教えによって、私にはすでに過剰なまでのスタローン受容体が備わっていたのだった。
そこに『ロッキー』である。
その日から、スタローンは自分の第二の父となった。
スタ者(もの)たちは皆「俺たちのスタローン」という言葉を口にする。
それは、己の中に不完全なまま眠っていた、生命の根源から希求しながらも満たされることのなかった父性をスタローンに見出し、賞賛し、己の心の羅針盤として
以後の人生を生きてゆく者たちの叫びである。
スタローン作品を観たときに誰もが感じる、絶対的安心感。どんなに不安な状況でもスタローンは生き抜き、私たちにあの悲しい笑顔を見せてくれる。そのまなざしは観る者の内なる父性の欠如を満たし、生きてゆく力をもたらす。スクリーンに映るスタローンが伝えているものは、悲しみを抱きながら、矛盾を抱えながら、それでもなにかをつかもうとする人間の悲しくも美しい姿である。
スタローンは人生における掛け軸のように、私たちが迷い、誤った道へ逸れようとしているときに
絶対的腕力と悲しい引力によって、私たちを歩むべき道へと優しく引き戻す。究極に達した父性は母性にも転じ、そのあまりにも大きな手で私たちを包み込む。
皆が「どの作品を観てもスタローンに見える」と口にするのは、決して悪口ではないと思う。これは、スタローンのことが好きであろうがなかろうが、人間はスタローンの絶対的な力を感じざるを得ないという事実の証左にほかならない。
スタローンの出世作であり、彼自身が脚本を書き、家族まで動員して作り上げた『ロッキー』には、彼の持つ力のすべてが詰まっている。言語ではない。筋肉でもない。スタローンの命そのものが、我々に生きる力をもたらしてくれるのだ。
これは、『ロッキー』の冒頭でイエス(キリスト)が描かれた壁が映し出されていることと無関係ではないと思う。
私たちが『ロッキー』でスタローンから受け取ったものはおそらく、スタローンが己の人生と神から受け取ったものに等しいのだ。
それが「俺のスタローン」ではなく、「俺“たち”のスタローン」と言われるゆえんである。
誰の心にも眠っているはずの、人類普遍の真実を呼び覚ます営み。それが『ロッキー』を観るということなのである。
お前の人生の主導権をほかのやつに渡すな
お前はお前の人生を生きろ
お前の本当に大切なものは何だ
お前はもう知っている
思い出すんだ
そして私は、本当に大切なものを持っている人に、会いに行く決意をした。
おまけ ロッキーの好きなシーン(ネタバレほぼなし)
・ROCKYのタイトルの文字が出てくるところ(文字がさりげなくておしゃれ)
・亀
・スケート
・エイドリアンを部屋に招いたロッキーがソファに座るまでの一連の流れ
・アポロたちが会議をしているシーンのかわいさ
・ポーリーが七面鳥を投げるとこ