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羅生門X

 下人の行方は、誰も知らない。
 そう、あの女を除いて。

 ここは羅生門。
 広い門の下には、この裸体の老婆のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。
 そしてもう一つ。老婆の前に女の死体が案山子のように立てられている。
 老婆の手には先の煤けた一本の木片。燃え尽きた松明をゆらりと掲げ、猿のような呻き声をあげながら女の死体に打ち付ける。
 ある者の目からは、それは狂乱した老婆の発作に見えただろう。
 しかし、羅生門を通りかかった一人の男。都の剣術指南を司る鬼一法眼には、その老婆の太刀筋が狂気ではなく怜悧に構築された剣術であることを見抜いた。
「そこな老婆よ!」
 鬼一法眼は声を張り上げる。
「名を何という!」
 老婆は木片を振るう腕をぴたりと止め、喉を絞るように息を吸い、
「名などねえ。ただの老婆じゃ」
 吐き捨てるように言う。
 武士に対して打ち首も有り得る言い草。されど鬼一法眼はそれを豪快に笑い飛ばした。
「うむ、それもよかろう! して老婆よ。そなたの太刀筋からは並々ならぬ怒りが見て取れる。何があった」
 老婆は再び木片を打ち付ける。
「若い男がいてな。そいつが己の着物を奪っていった。なんとしても、取り返さねばならねえ」
 鬼一法眼は値踏みするように顎を撫でる。
 怒り任せに振るえばその死体か木片。どちらかがとうに朽ち果てていただろう。されど老婆の棒捌きはどちらも傷ついていない。羽虫を箸で掴むような加減だ。
 果たして、我にそれができるのか。
「老婆よ」
 鬼一法眼は馬から降り、鞘から刀を抜き取る。
「我と打ち合おうじゃないか」
 老婆ははじめて鬼一法眼の方へと目を向ける。その瞳には、皺よりも深い積み重ねが見て取れる。
「やめておけ、おめぇじゃ勝てねえ」
「それは打ち合えばわかる」
 鬼一法眼は頭上高く刀を構える。
「我に勝てばこの馬と刀。それから着物もよこしてやろう。勝てると言うのなら、勝ってみせよ」
 鬼一法眼は「寸で止めてやる」とも付け加えた。
 老婆はゆらりと鬼一法眼に向き直り、脱力したように木片を構えた。
 一瞬だ。
 鬼一法眼は直ぐに理解した。
 一瞬で決着がつくと。
 そして実際にその通りとなった。
 まず踏み出したのは老婆であった。
 そのやせ細った足からは想像できぬほど筋肉が膨れ上がる。
 鬼一法眼は咄嗟に刀を振り下ろす。否、振り下ろさせられた。老婆の気迫に釣られたのだった。
 鬼一法眼の刀は空を切り、気がつくと煤けた木片の先が喉元にあった。
「安心しろ、寸で止めた」
 老婆はそう言うと、棒の先を払った。
 鬼一法眼は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
「──見事!」
 刀を鞘で仕舞うと、帯からそれを抜き取り老婆に差し出した。
 老婆は刀を受け取ると、襤褸布の褌に差し込んだ。鬼一法眼が着物を脱ごうとすると、老婆はそれを手で止めた。
「そいつは今から取り返す」
 裸体の老婆は馬に跨がると、黒洞洞の夜闇へと消えていった。

 数日たったある日、あの老婆のことが気になった鬼一法眼は再び羅生門を訪れた。
 するとやはり、檜皮色の着物を着た老婆が案山子に見立てた死体によりかかっていた。その手に棒は握られておらず、死体の顔を覗き込むように眺めている。
「老婆よ、何をしているか」
 鬼一法眼が問うと、老婆はゆっくりこちらを振り向いた。
「この髪を抜いてな、この髪を抜いてな、鬘にしようと思うたのじゃ」
 そう語る老婆の瞳は、まるで夢を見ているかのようであった。
 あるいは、あの憎しみの淵にいた老婆の姿こそ胡蝶の夢であったのかもしれない。
 もし老婆の着物を奪えば。再びあの老婆に出会えるのではないか。
 そんな考えを笑い飛ばし、老婆の側にあった血錆のついた刀を抜き取ると。鬼一法眼は羅生門を去っていった。

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