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『フィクショナル』上映後トーク 酒井善三(監督/脚本)×大森時生(テレビ東京)×魚豊(漫画家)
ショートドラマ配信アプリ「BUMP」にて配信され、現在シモキタ-エキマエ-シネマK2ほかで上映中のドラマ『フィクショナル』。
2024年11月17日(日)の上映後に開催された酒井善三監督、本作プロデューサー・大森時生さん(テレビ東京)、本作に絶賛のコメントを寄せた漫画家・魚豊さんによるトークの模様をお届けします。
連続上映された酒井監督の前作『カウンセラー』上映後のトークの模様はこちら。
*本文中、『フィクショナル』の内容に関する記述があります。
『フィクショナル』
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あらすじ:
うだつの上がらない映像制作業者・神保のもとに、ある日、大学時代の先輩・及川から連絡がくる。憧れの先輩との共同業務に、気分が湧き立つ神保だったが、その仕事は怪しいディープフェイク映像制作の下請けであった。やがて迫りくる自身の「仕事」の影響と責任……神保は、徐々にリアルとフェイクの境目に堕ちていくのだった……。
『フィクショナル』上映情報(シモキタ-エキマエ-シネマ「K2」)
▼物語と陰謀論/モチベーション不在のドラマ
酒井善三(以下、酒井) 『フィクショナル』監督の酒井です。よろしくお願いします。
大森時生(以下、大森) 『フィクショナル』プロデューサーの大森と申します。
魚豊 漫画を描いてます、魚豊と申します。
大森 唐突に終わって観客の皆さんは何が何だかという感じかもしれないんですが、まず魚豊さんから感想を含め、お話を伺えればと思います。
魚豊 この一本前に酒井監督の前作『カウンセラー』が上映されていて、その後のトークで「現代的な不安を描いているように感じる」とお話ししたんですが、それは情報が倒錯・錯綜してしまって統合ができない、失調されているというということでした。それがひいてはアイデンティティが壊れていくこと、自分と目の前の他者のどっちが自分でどっちが他者か分からなくなっていくことにつながるというのが、今っぽい不安の表現だなと思いました。『フィクショナル』ではそれがさらに強化されていて、しかも陰謀論というテーマと密接に結びついているから、正当な進化というか「こういう風に発展していくんだ」と思った、というのが一つ。
それと同時に、自分も『ようこそ!FACTへ』という陰謀論の漫画を描いた時に思ったのが、物語で陰謀論を扱うのはマジでむずいなということでした。なぜかというと、陰謀論の本質は無秩序な情報に筋を与えて物語化することなので、物語で陰謀論をテーマにした時点で、陰謀論の魅力の構造みたいなものを借りてしまうことになる。そういう状態で陰謀論の重力から解き放たれる物語を書くことって本当に難しくて、つまり面白い物語を書けば書くほど、それは「陰謀論の魅力」になっちゃうんですよ。なので物語で陰謀論を扱う、もしくは陰謀論を解体することって難しいな、できないなと思って、自分の作品では恋の話から始まって、陰謀論に入っていってまた恋の話に戻ってくることによって、恋という「そうじゃない人間のありよう」を持ちだすことで、物語の中で陰謀論に決着をつけるというよりは、ある種陰謀論と距離を置くようなエンディングのつけ方にしました。
でも本作では、この「物語によって陰謀論を解体する」ということに真正面から挑戦していて、他の陰謀論を扱う作家ができていないことを達成していてすごいと思いました。それは何かというと、情報を錯綜したままにするということですね。情報を統合させずに、失調させたままにする。
陰謀論者の主観って、めちゃくちゃ筋が通っているんですよ。『ONE PIECE』とか、この『ようこそ!FACTへ』とか『進撃の巨人』とかもそうですけど、「実はこうだった」という筋が通っているのが陰謀論的な見方であって、この映画のようにすべてがバラバラに見えているままに進行するというのは、陰謀論者の主観を描いているように見えて実はそれを外側から描いているということです。これこそが物語で陰謀論を扱いながら陰謀論を解体する表現なんじゃないかと思います。こういうのはなかなか見たことがないし、ともすれば単にバラバラな物語になってしまうから、成立させるのがすごく難しい。『フィクショナル』はそれを映像と時間という固いハコの中でやったことで、陰謀論者の主観を描くように見せながら反陰謀論を表現しつつ、しかも陰謀論の魅力から抜け出ている物語として実現できた初めての作品じゃないかと思います。めちゃくちゃ面白かったです。
酒井 ありがとうございます。めちゃくちゃ嬉しいです。
仰る通り、人物を客観として捉えて描かないと陰謀論は描けないんだけど、それをやってしまった時点でドラマ性は薄れるというか、誰もキャラクターを愛せなくなってしまうので、とても難しい。僕は『カウンセラー』からの手癖で、「こうすれば予算的にもいける」ということも含めて「信頼できない語り手」的なものを挟めばギリギリそれが実現できるんじゃないかと思っているんです。でも『ようこそ!FACTへ』では、「これってモチベーションをめぐる話だよね」とすることによって、先ほど仰ったように恋という別軸に挟まるドラマとして成立していますよね。「物語として成立する」という意味では、こっちが正解なのだろうと思いながら読んでいました。同じ難題に対して違うアプローチを試みていると思っていたので、そういう風に言って頂けて救われました。
魚豊 僕も嬉しいです。あと聞いてみたかったのは、恋愛を挟み込むことについて。その取り入れ方も、露骨にそこを推すわけではなくて、そういう宣伝をされなかったら気づかないくらいの上品な触れ方だと思うんですけど、なぜこういう演出方法になったのか、そもそもなぜそれを取り上げたのかは気になるところです。
酒井 制作のヒントとして、三つ以上の先行作品の雰囲気を参照して真似ていくことで作品の像が結ばれていくところがあるんですね。今回の場合は、いわゆるフィルム・ノワールによく出てくる「運命の女」を男性にしているというだけなんですけど、その描き方がここまであっさりしているのは、「モチベーションがない」ということがこの主人公のドラマだからだと思うんです。
なんとなく欲望はあるけれども、「こうしたい」というものがなくて言い訳ばかりしている奴が最後には決断する、というプロットラインにしようと思っていたので、「動機にしては薄いし、恋なのかもよくわからない」という扱いになっています。
大森 恋愛になりきってないから、それがモチベーションにはなっていないというのが『ようこそ!FACTへ』と決定的に違うところですね。男性同士というモチーフもそこに繋がるところだと思います。「なんとなく満たされていないから、なんとなく動いてしまう」ということが繰り返されて物語が進行していくのが面白い。モチベーションではないもののために体が動いて、確実に社会悪であることをしてしまうんだけど、成果が出てテンションが上がっちゃう、というのは「なんなんだろう?」という感じがありますよね。
魚豊 それもアンチ物語ですよね。まずキャラクターのモチベーションと恐怖を提示するところから物語を強烈にドライブしていくのが簡単にドラマチックな演出効果を出せる手法だと思うんですけど、それを排除しているというのが意欲的だなと思いました。
大森 ある種の「信頼できない語り手」が主人公の映画というと『ブラック・スワン』とか『シャッターアイランド』とかいろいろありますけど、これらは視点を主人公の主観に寄せて、完全に虚実が分からなくなっている不気味さを描いていることが多いと思うんです。『フィクショナル』の場合は異常に客観的なんですよね。そこで起きている事象を俯瞰で見続けているはずの主人公にもどんどん事態が分からなくなっていく様子が、観客の不安にもつながっている。
魚豊 大森さんはプロデューサーとしてどういう発注というか、どういう思いでこれをプロデュースされたんですか?
大森 僕はフェイクドキュメンタリーを作っていることが多くて、その場合は何かがまるで現実に存在するかのように、ドキュメンタリーらしくリアルに見せるという手法なわけですけど、酒井さんとその現場でお仕事をしているうちに、やはりフィクションの人だと思ったんです。カットバックとかを使う映画的な撮り方をするときに一番活きるんじゃないかと思っていました。
その上で、酒井さんとドラマをやりましょうということになって、お互い興味のあることを話していくなかで、僕がずっとやっているテーマではあるんですけど、「情報の不確実性」や「フェイクニュース」が挙がったという感じでしたよね。
酒井 共通の興味がそこだよね、という。
魚豊 BL的なテーマはどこから出てきたんですか?
大森 主人公の渇望の要素として恋愛を入れるというのは聞いていて、男性同士というのは脚本の第一稿をもらった時に知りました。これは酒井さんが仰ったわけではなくて、僕が脚本を読んでの想像なんですけど、本人たちが気づいているのか気づいていないのかわからないような欲望、恋愛なのか恋愛じゃないのかはっきりしない、ただ喉が渇いたような渇望の感じがあるという状況は、異性同士の場合だとなかなか描きづらいと思うんです。
魚豊 分かりやすくはなりますからね。
大森 同性同士の場合、それがつながらない場合があるかもしれないということが今回の作劇では活きていると思うんですが、そういう意図もあるんですか。
酒井 たしかにそういうことはあるかもしれないと今聞いていて思ったんですが、もう一つには、官能的に描きたいという気持ちがありました。この場合は同性の方がエロティックだという直観があったんですが、学生時代の作品にも同性同士の設定のものがあったので、僕の無意識的なものかもしれないです。その方がエロティックに、しかも裸そのものやセックスそのものを描かずともエロティックに描けるだろうという感覚があります。
▼『フィクショナル』の爽やかさ/大学生の美しさ/爆発と銃撃戦
魚豊 これはガワの話なんですけど、さっき裏で『カウンセラー』と『フィクショナル』でかなり予算の額が違うということを伺ったんですが、その差異について肯定的な面でも否定的な面でも、変化はありましたか?
酒井 人のお金で映画を撮るということの素晴らしさ、というのはもちろんあるんですが(笑)。
一般的には監督とスタッフがバラバラだったりするんですけど、僕の場合は小さな工場を持っているような立場で、発注を受けるとスタッフィングも僕がしているんですね。また仲間でやろう! という感じで。
自主映画でそれをやっているときには「趣味です」と言い張れるので、けっこう仕事上の無茶を言ったりするんですが、人のお金でやるとなると、意外にも「これは仕事だ」という意識があるだけに、「そういう無茶は控えて、きっちりやろう」という気になるんですね。予算が付いたのでこれくらいは大丈夫かな、と思って書いたことが実は全然正規の値段ではできなかったりするので、結果的に無茶はしてもらっているんですが……。そういう意外と律義な面が自分にあるんだなと思いましたね。
魚豊 今話しながらこの映画を思い出していたんですけど、めっちゃ爽やかでしたね。意外と陰謀論のところじゃなくて、淡いシーンが残っている。見た直後はそういう気持ちになっていなくても、これから二週間くらい経って「見たな」と思い返すときに出てくるのがおそらくそういうシーンなのは、読後感というか鑑賞後感としてめっちゃ爽やかでええやんと思いました。
大森 良くも悪くも、最後に主人公が選ぶようになったというのが大きいと思うんですよね。これはこっちがずっと客観的に見ているから分かることだと思うんですけど、「選ぶ」ということが本当はマイナスの行為でもありうるじゃないですか。何を分かっているわけでもなく、なんとなくずっと決断をせずに逃げてきた人が最終的に道を選ぶというのは、実は一番危険なことかもしれない。そういう面白さをはらんだ爽やかさでしたね。
魚豊 僕が刺さったのは、気になっていたり尊敬していたりする人や、いいなと思っている人と飲みに行く機会が来たり、一緒に寝るチャンスがあるとか、それってすごく人生にとっていいことだったんじゃないか? と(笑)。そういうことってめっちゃ減っていくじゃないですか。学生時代に「この先輩かっこいいな」みたいな人に声をかけられたら嬉しくなったり、ちょっと緊張したりするみたいな、そういう爽やかなドギマギが映っているのが「いいなあ」と思うところでしたね。僕はまったく人づきあいがなかったので、そういう人はいなかったですけど。
あと焚火を見るシーンは、美しい場面だなと思いますね。ああいうことを実際にやったことはないけど、イメージとして。
大森 ともすればクサくなるくらいに爽やかな瞬間ですもんね。
魚豊 そうですね。それがぜんぜんクサくなってない。切ない感じもあって、爽やかな感じがすごくしました。
大森 脚本で最初に焚火のシーンを読んだとき、「酒井さん、意外と爽やかだな」と思いました。『カウンセラー』とかのイメージがあって、ずっとグジグジするのかなと思ったら……(笑)。現場もよかったですよね。雨が止むまでみんなで待ったりして。
酒井 天候の荒れ具合はすごかったですね。でもあのシーンはめちゃくちゃ恥ずかしいんですよ。僕自身が「なかった青春時代」を自分で書いちゃってるようなヤバい気恥ずかしさがあって、あそこだけは直視できないですね。現場中もずっと横で「恥ずかしい……」って言ってました。いまだに恥ずかしいです。
魚豊 その強い思いが映ったのかもしれないですね。そんなに露骨なシーンでもないのに(笑)。
大森 『カウンセラー』に引き続き水を舐めるシーンとか、水滴や水が流れる瞬間が印象的に撮られてるなと思ったんですが、それは狙いがあったんですか?
酒井 水はかなり良いアイテムで、とにかく使いやすい。まず安い。あと舐めてもいい、落としてもいい、流れる、こぼれる。けっこういろんなことができちゃうんですよね。音でも使いやすくて、何か困ったら水を出そうというのはあります。あと、これは手癖なんでしょうけど、ある願望を喉が渇くこととか水に例えがちですね。それもあって、あの水を舐めるシーンにつながってるんだと思います。
大森 あのシーンは一番見ていて喉が渇くというか、主人公の神保の承認欲求とか、人に愛される感情とか、孤独感とかが本当に全部満たされてないんだろうなという印象を水を舐める姿から受けるし、一方で「絶対にこれから良くないことが起きるな」という感覚もするんですよね。その水の使い方が面白いなと思いました。
魚豊 回想で大学時代が出てきますけど、本当に大学生っていいなと思いました。美しい存在ですよ。フリーターとかも美しい存在ですよ、本当に。
大森 時間があるからこそ、主人公もストーカーとかしているわけですもんね(笑)。
魚豊 大学生って、見れると本当に嬉しいんですよ。高校生でもいいんですけど。教室にいるから。教室にいる存在ってマジで嬉しいので。でも大学生って特別ですよね。
大森 何が特別だと思いますか?
魚豊 もう何でもできるじゃん、と思いますね。時間あるし、寝てられるし、めっちゃ勉強できるし……嬉しいですよ。そういう満たされなさというか、なんでもできるが故の「どうすりゃいいんだろう?」みたいなことが、こういうのにつながりかねないのかなとも思うんですけど。でもやっぱり大学生ですよ、人生のサビは。
酒井 暇っていうことの良さですかね。
魚豊 暇ということと、大学生ってすごく奇妙な年齢というか、大人でも子供でもないけど、「全部わかってる」みたいな……「触るな」みたいな感じじゃないですか(笑)。それでいて高校生ほどの繊細さもないというか。大学生の色っていいんですよね。透明でちょっとだけ青いような。だから大学生とか、そういう年齢の人が出てくるだけで嬉しいんですよ。
大森 知らない癖でした(笑)。『ようこそ!FACTへ』も大学生?
魚豊 あれは19歳ですね。でもちょっと幼めのキャラ。『フィクショナル』も主役の清水尚弥さんがめっちゃいいですよね。あのアンニュイな顔が、「うわあ、大学生の顔だ」みたいな。
大森 両方抱えてる顔というか。
魚豊 こっちに気を遣わせる顔。
大森・酒井 (笑)。
魚豊 なんか言ったら知らない角度の批判をしてくるような、「それハラスメント」みたいに来そうな感じが。
大森 最初の飲み会のシーンとかの表情も本当にいいですよね。「本当に嫌な奴と飲んじゃってる」という気持ちにさせられる表情。
酒井 『ようこそ!FACTへ』でも大学生への憧れは出てきましたね。
魚豊 出てきます。ヒロインが大学生なんですけど、大学生の中でも一番いい大学生。
酒井 なるほど、つながりました(笑)。
魚豊 それだけでも3億点なのに、陰謀論も入っちゃって……。
大森 大学生が使われてるから3億点?
魚豊 もちろんそうですよね。
大森 それはけっこう甘めな(笑)。
魚豊 「ちょっと待って大学生出てくるじゃん! てか大学楽しかったな」とか思いながら見てたら陰謀論も絡んできて、最後に銃が出てくるんだから最高です。
大森 それこそ最後の病院のシーンは、なくても終われるじゃないですか。
魚豊 僕もびっくりしました。病院まではまあ分かるけど、銃が出てきて驚きましたね。
大森 銃を持った謎の男の看護師が来て、そこにいた女性の看護師を撃つ時に、そこはもともと付き合ってたみたいな微妙な間があったりして、知らない物語も始まってるような面白さもありつつ(笑)。あの病院の銃撃戦も、あった方がいいなという感覚があったんですか?
酒井 そうですね。鬱々としたというか、非常に憂鬱な狭い話をずっとやってきて、お客さんはここまで耐えてくれてるんだから、サービスは必要だよねと。やっぱりサービスといったら、銃か爆発。
大森・魚豊(笑)
酒井 でも爆発はできないんですよ。すごくお金がかかるし。銃も一発ごとのお値段がまあまあするんですけど、ある程度に限って、ちゃんと何発かで人が吹っ飛ぶところを見てもらって、「これでこれまでの鬱々とした話を許してください」というサービスのつもりなんですよね。自分が楽しいのはもちろんなんですけど。
魚豊 それはめっちゃ分かりました。
酒井 ちゃんと人が走るというか、「ウジウジしてないぞ」という感じですね。
大森 結構フィジカルが大事なんだなと思いますよね。あそこで主人公が走った、その息切れによって最後に選んだ感じもするというか。
魚豊 走るっていいですからね。大学生が走るのは最高です。
大森・酒井(笑)。
魚豊 『バトル・ロワイヤル』の最後とか本当にいいじゃないですか。「走れ。」って真っ赤な字で、明朝体なのもいいし。あれは中学生ですけど、二十歳くらいの藤原竜也が小6を演じるという衝撃のシーンがあるんですよね。もう無理すぎて下半身を映してないみたいな……(笑)。
でも仰っていたことは本当によく分かります。陰謀論の話はどんどん精神的になっていくし、内に内に入っていくから、自分も最終巻で銃撃のシーンを描きました。単に趣味でもあるんですが、そういうバランスのとり方というか、世界の広がりがあると、自分が見ていたものの重みが変わる感じがあって、奇妙な憧憬感があるよな、というのは思いましたね。
酒井 なるほど、確かにそうだ。
大森 大学生の良さに気づいたところで、お時間ということで。本日はありがとうございました。
(完)
取材日:2024年11月17日(日)
於シモキタ-エキマエ-シネマK2