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【前編】『改元』刊行記念対談「小説という自由(をもう一度獲得するために)」 畠山丑雄×樋口恭介 @正文館書店知立八ツ田店
畠山丑雄著『改元』刊行記念対談第1弾「小説という自由(をもう一度獲得するために)」の模様を、前篇・後篇に分けてお届けします。
SF作家・樋口恭介さんをお招きし、本作の魅力はもちろん、著者・畠山さんの問題意識、お二人のデビュー前夜や小説作法、そして小説というものの未来について、熱い対話が交わされました。
後篇はこちら。
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◆「改元」の成り立ち――分岐する歴史
石原書房 本日はお運びを頂き、ありがとうございます。『改元』版元の石原書房の石原です。対談に先立ちまして、簡単に本作のご紹介をできればと思います。
本書は小説家・畠山丑雄さんの中篇を二つ収めた作品集です。
表題作「改元」は、実在の天皇制とはまた別の天皇制が地方の山奥に潜在していて、それは現実の政治のシステムのことではなく龍(ドラゴンの龍)であって、これが人間の想像力に寄生して代々宿主を変えて存続しているという小説です。
統治機構の先端である地方公務員の主人公が、改元の年にその龍が今宿っている人間から別の人間に転移する媒酌のような役目を果たすことになります。
併録の「死者たち」は、第二次大戦をまたいで繰り広げられる、ある地主の一族の年代記です。前半では日猶同祖論にハマる次男を中心にその家代々の因縁が語られ、後半ではその息子で、父によって世界の救い主となるべく十字架の十とjewishのjewにちなんで「十」という名前をつけられた男の子が、その因果を背負いながら成長していく半生が描かれます。
両作ともに、純文学としてカテゴライズされる作品としては異色の、ガルシア=マルケスを思わせる豊かな幻想性と物語性を備えた傑作です。練られた文体や構築性だけではなく、強固な批評意識の裏打ちに支えられた本作は、磯﨑憲一郎さんをはじめ刊行以来各氏の絶賛を得ております。
それでは樋口恭介さんに、本作を読まれてのご感想を伺うところから、トークを始めたいと思います。
樋口恭介(以下、樋口) よろしくお願いします。まず、なんで僕が今日呼ばれているのかということを僕なりに解釈してみたいと思います。
僕はSF作家なんですが、いわゆるジャンルとしてのSFというものと、それ以外のジャンルの小説があって、そのSF以外のものの中にもSF的なものって沢山ありますよねとか、SFとされているものの中にもいろいろ拡張性があるんだよということを紹介する仕事もしています。この『改元』という作品は純文学の雑誌に掲載されていて、ジャンル的には純文学とされているんですけれども、樋口はそういう読み方をしないんじゃないかということで、呼んで頂けたのではないかと思っております。
そういう人間としてこの作品を読んだ感想ですが、まず僕の理解では、「SF」としてかなり面白い小説です。純文学としては異色の作品というご紹介もありましたが、確かに異色の作品なので、変なものを読みたい人にはかなりおすすめです。どう変かというと、いろんな変さがあるんですけど、まず「改元」における龍や、併録の「死者たち」に出てくる死者が、単なる比喩とか夢みたいなつかみどころのないものとして語られるのではなくて手触りのある実在として扱われており、そういうイメージや象徴的なものの実在性は、単にフィクションとして頭の中で捏ね上げて作られたものではなくて、日常や労働の中で培われた肌感覚に依拠しているものだと思います。純文学というのは、作家の肌感覚をリアリズムとして描いていくのが基本線なんですけれども、そういう感覚をベースとしながらも、龍や死者、歴史、宇宙、銀河という話になっているのが異色なのだろうと思います。純文学の雑誌に掲載されるものとしてこういう作品はあんまりないし、SFの方でもまず理論から書き始めたりするので、生活実感から出発して抽象的なものに結び付けるというアプローチを基本的にとらない。だから、いろんな小説のフィールドでの居心地が悪そうだなと思いました。
畠山丑雄(以下、畠山) そうかもしれません(笑)。ありがとうございます。
「改元」では天皇制という強面なものを扱っているんですけども、日常性とのつながりからそういうところにたどり着いている、ということを言ってもらったように思いました。
この作品を書いたきっかけは確かに仕事で、僕は役所で生活保護関係の業務をしていたんですが、いわゆる高次機能障害を抱えた方と接することが多いんですね。例えば脳卒中などの病気や外傷などで脳の血管などが器質的・物理的に損なわれてしまって、それまでとは別人のように怒りっぽくなることがある。そうした困難を抱える人を社会的にどう包摂していくかということも含めて、高次機能障害について学ばないかんなと思ったことがあったんです。
その中で、カトリーヌ・マラブーという人の、高次機能障害を脳科学と思想の両面から考えてみようという本に出会いまして、この本の中で、マラブーは「可塑性というものが脳にはある」ということを言っています。ここでいう可塑性ってなんじゃいということなんですが、例えば脳の喜びを司る部分が損傷したら以後喜べなくなるのかというとそうではなくて、別の部分が「僕、喜び担当しますわ」という感じで受け持ってくれる。この変化が人格にも反映するので、それ以前とは違う性格になってしまうわけなんですが、そうするとその人の「違う過去」のようなものができる。人格が変わってしまう。しかし当人の中ではしっかり同一性がある。なので、ご家族をはじめ周りの人もとても大変なんです。
こういうことを学んでいく中で、「これが日本という国家の歴史で起きたらどうなるのだろうか?」ということを思いました。つまり天皇制が一番分かりやすいんですが、歴史上で同一性を保ちながら続いてきたものがどこかで分岐して、新しい線が作られる。それが物理的なもの、たとえば河川と結びついていたらどうなるかな、というように。
そこから、第一皇子なので本当は天皇になれたはずなのに、藤原家の陰謀で失脚した惟喬親王という人がいるんですが、実はその時に天皇制の本質的な部分が惟喬親王の方に流れて、形式としての統治機構とは別の流れとして続いていく、という話として書き始めました。
樋口 非常に面白い。冒頭の生活保護の話から「これが歴史で起きたら」という話につながるダイナミズムもすごく面白かったんですが、そういう語りはこの小説の中にもありますね。畠山さんの思考とナラティブの特徴だと思います。
畠山 それはそうだと思います。
◆あやめと知立/小説の中の象徴と具体
樋口 具体的な実在レベルのことを、とても抽象的なメカニズムの話に落とし込むという動きが今の語りにはあったと思うんですけど、これはあんまり純文学にはない語りのダイナミズムだと思いました。SFだといきなり抽象的・図式的なものが提示されて、その設定の中で人物が動き始めるというのはあるんですが、具体的な語りからどんどん図式化されていって壮大な階層構造があって……という思考の在り方みたいなものの由来は、心当たりありますか?
畠山 関西人だからというのもあると思いますね。理論というもの対して「ホンマかいな」と突っ込む癖があります。マラブーの可塑性の議論もそうですけど、深刻に提示された理論を散文的にひっくり返してみて、その上で進んでいくと、一回ひっくり返している分説得力が出ると思っています。
樋口 「改元」もそういう小説でしたね。「これなんの話?」というエピソードが頻出して語り手も困惑し続けているんですが、やがて実体的なものと結びついて像を結んでいく。
主人公に龍の話をする登場人物も、「天の川銀河の大きさは人間の五官という身体的な感覚ではとらえられないが、龍もまたそういうものだ」とかなんとか、詭弁めいたことを言うんだけど、ほとんど抽象的な天の川銀河と実際の川が繋がったりして、いきなり抽象から具体に下ろされてきたりする。統治機構というすごく抽象的なものが分岐するイメージも、川の分岐や、あやめの株分けと急に結びつく。
畠山 あやめといえば、僕は知立で『改元』の最初のイベントをやれたというのがすごく嬉しくて、それはなぜかというと、惟喬親王の側近で、作品の中にも出てくる在原業平が『伊勢物語』の東下りで有名な「かきつばた」の和歌を詠んだのが知立の八橋なんです。ここでもあやめ=かきつばたが象徴的に出てくる。これは僕の印象なんですけども、あやめにはセクシャルなイメージがあるし、水と陸の両方に咲くということ、「ものの文目」という言い方があるように、あやめそれ自体が境界性のようなものを背負っている存在でもあります。そういう象徴的な役割を持ったものとしても使っています。洛北の方には惟喬親王が植えたとされるあやめの子孫が残っていますし、東下りの途上の業平の目に留まったのがあやめだったという史実も面白い。
「改元」に出てくるもので重要なのは、ナスヒオウギアヤメという種類のあやめというのがありまして、これは昭和天皇が研究・命名した種なんですね。種子を結ばない花なので、株分けでしか増えていかないんですが、そういうものがなぜか辺鄙な集落にあるという繋がりもついています。
本当は何かを象徴として使うというのは、特に純文学においては良くない作法とされています。なんでかというと、「AはBの象徴である」という場合、「もう検閲もないんだからそんなまわりくどい賢しらなことをしないで、Bの方をそのまま書いたらいいじゃん」ということになるわけです。
そうなってしまうのは、僕は象徴の数が少ないからだと思うんです。小説全体を森のように埋め尽くしてしまうくらい出てくると、象徴同士がつながったり、剥がれて遊離し始めたりして単に小道具として上手に使っているというところから離れて混沌とダイナミズムが生まれるんです。そうすると、大きなものが語りやすくなる。それが今樋口さんが仰ってくれたことなのかなと思います。
樋口 そうですね。「象徴の操作みたいなものは純文学ではダサい」というのは、主に保坂和志さんが作ったトレンドだと思いますが、いわゆる「保坂スクール」の一人と目されている磯﨑憲一郎さんが褒めているというのが意外でした。
保坂和志的な小説観というのは、大雑把に言うと「象徴と象徴をつないで意味ありげな構図が生まれました」という世界観からはみ出るようなもの、小説に流れる時間やその中で生まれていくものを体験するのが小説だろうというものなので、どういう褒め方をされているんだろうと。
畠山 象徴や構図うんぬんの手前の、文章の強度や場面が目に迫ってくる感じみたいなものを評価してくださったのかなと思ってます。
さっき「あやめを象徴としても使った」ということを言いましたけども、それは作っている僕の都合であって、読んでくれた方の中で象徴として読みとられることがなくても、もちろんあってもどちらでもいいんです。天皇制とのつながりという話もそれは読みの一つであって、それ以前にあやめが、その花が花としてどう書けているか、読む人に迫ってくるか、匂ってくるかという方が大事です。それが上手くいって、褒めてもらえたのかなと思っています。
樋口 おそらく象徴をネットワーク化するということは近代というものと強く結びついているから、そういうものとは距離を取らないと危険だろうというある種政治的な思想が、純文学においてはあると思います。
一方でSFやミステリでは、クローズドな知的パズルを解くということに喜びを見出すジャンルでもあるので、僕自身も含めて図式化に対する否定的なオブセッションはほぼなくて、そういうものとして大変面白く読みました。
◆足元の大地=歴史からは誰も逃れられない
樋口 このイベントの前にも一時間くらい畠山さんと話してきたんですが、お話を聞いていると、フィクションの中で図式や象徴の階層構造をいかに細かくするかということを突き詰めた結果、かなりご自分の実生活や労働観にも象徴のネットワークが延びているように感じました。
畠山 陰謀論にハマる人みたいな……(笑)。
樋口 そういう「情報に対する欲望の在り方」というところは、どういう自覚なんですか。
畠山 確かにYouTubeを見て陰謀論にハマったり、やばいスピリチュアルに入り込んでしまいそうな人にありがちな「これとこれが繋がるんや!」みたいなのはめちゃくちゃ好きなんですが、僕は体を動かしながらやるのでわりと大丈夫なのかなと思っています。
というのは、今大阪の茨木というところに住んでいるんですが、散歩が好きでよく歩くんですね。そうすると、歴史的なものが沢山見えてくるんです。つまり今現在見えている風景ではないもの。茨木川という、今は半分廃川になった川がありまして、そこから水を引いて、茨木高校という地元の高校が日本で初めての学校プールを作るんですが、その作業に川端康成が参加していたりするんですね。あとその茨木川が途中で合流してY字になっている安威川という川があって、ここの流域には広大なケシ畑があったんです。これは阿片の原料なんですけども、二反長音蔵という農民が当時世界一のケシ畑を展開して、その後この人は満州に渡ってケシの栽培法を伝えて回る伝道師みたいなことをやるんです。
歴史をたどっていくと、今の満州の話のように、自分がいるところから時間的にも空間的にも離れられる瞬間がある。今回自分で『改元』を読み直してみて、自分が批評家だったら「じゃあアジアについてはどういうものを書くんだ」と言うだろうなと思ったんです。「日本の中で天皇制と龍が結びついている、という想像は分かったけれども、その外にあるアジアはどうなっているのか?」ということです。まだ誰にも言われないので自分で話してるんですが。なので、今書いている小説は茨木のものなんですが、ここからアジアにつながるもの、すなわち日本の加害の歴史につながるものを書いていきたい。
そこにどういう現代性があるのか、今満州のことなんて書いても趣味的な意味しかないんじゃないかと思われるかもしれないんですが、僕はそうじゃないと思っています。
今、ガザやウクライナの問題があって、これについて文学者たちも声を上げている。そういう直接的な抗議だけじゃなくて、作品にもなんとかあらわそうとしている。でも小説のレベルでは、まだまだうまくいっていないと思うんです。というのは、やっぱり面白くない。たとえその小説が面白くないものだったとしても、そこに表されているようなことをもともと考えている人は賛同してくれます。僕も賛同する。イスラエルもいかんしロシアもいかんと思うから、より「いかんよな」という思いは強くなります。でも全くそうは思っていない人に、こちらから見えているものを見てもらったり、試しに同じようなことを考えてもらうためには、面白くなければいけないし説得力が必要だと思うんです。それをどうしたらいいのかというのはずっと考えています。
今は皆、モノでつながろうとする。たとえば不買運動のような「イスラエルに武器を売っている企業とつながっているから、ここの商品は使うのやめましょう」ということも、効果があるのでどんどんやっていくべきだと思いますが、結局それはモノなので、手の内に収まってしまう、パッと手に取れるかわりにパッと手放せるという感覚があります。別の紛争が始まったらすぐ捨ててしまえるようなものにとどまるといいますか……ちょっと感覚的な話なので、分かりづらいと思うんですが。
あと小説は、「日本ではこうなっているが、一方海外では」という具合に、横のつながりを描くのが難しいんですよね。日本にいながら紛争地帯に思いを馳せるということを書いても、どうしても「ホンマけ?」とツッコミが入ってしまって説得力を出すのが難しい。
じゃあどうしたら我が身のことにできるかというと、僕はそこで歴史が大事なんだと思っています。さっき言ったように、茨木を歩いているだけで満州とつながる瞬間がある。それは自分が今現に踏みしめている地面から繋がってくるわけだから、逃れることができない。つまり今ここに自分がいるということは、加害性の連続の上に形成されてきた場所を踏まえて立っているということなので、そこからは誰も逃れようがないんです。それがモノと歴史の違うところです。
まず自分が踏みしめている地面がある。その下に歴史がある。その歴史が大陸への加害という事実につながっている。その「加害性」ということにおいて、ガザとウクライナとではなく、ロシアとイスラエルと私たちをつなげることができると考えています。そこで初めてわが身のこととして考えることができると思うんです。
そういうことを小説でやるためには、ある程度の長さと厚みが必要です。短絡的にやることはできない。それが小説の良さでもあるし、それが実現できて初めて、そのようなテーマを小説として扱うことができたと言えるのではないかと思います。
樋口 確かに逆から見てみても、海外文学でめちゃくちゃ政治的な作品でもあまり日本は出てこないですね。今何かあったかなと考えていてトマス・ピンチョンの『重力の虹』に思い当たったんですが、最後に「長さと厚みが必要」という話になったので納得感がありました。
『重力と虹』も面白い小説で、どうでもいいエピソードが羅列されているんですが、一貫してV2ロケットが象徴として出てくるんですね。主人公の大佐が勃起すると、ドイツが技術のすべてを注ぎ込んで開発したそのロケットがどこかに落ちる。これを大きな軸として、時空がぐちゃぐちゃになりながらも当時の世界を概観するという小説です。
その中に出てくる日本人の二人組は元神風特攻隊で、戦争が終わっていることに気づかずに、浜辺で特攻の訓練をしながら珍しいヤドカリを探してるんです。その話それ自体がめちゃくちゃ面白いんですが、これがV2ロケットの話と完全につながってくる。今の「歴史をどう書くか」というお話しを聞いていて、異なる歴史を持った人たちも、一つの横軸で見たらつながっているということを時間の多重性の中でどう描くかということを考えた時に、『重力の虹』はなかなかうまくやっているんじゃないかと思いました。
畠山 遠いものを書こうとする場合には、うわべでつなげようとするのはやはり弱くて、本当に政治的なものを書こうとするならやはりそういう多層的な、搦め手的なものが必要になるでしょうね。
◆システムと都市の風景に残り続ける暴力の痕跡
樋口 ガザやウクライナの問題につながるものとしての歴史と自分の身体性をいかに結びつけるか、ということを語る人は少ない気がします。阿片畑の話もそうですけど、さっきイベントの前に話していた畠山さんの仕事の話でもそう思いました。
畠山 役所の仕事で書類の書式とか法律の改正の変遷とかを遡っていくと、国体護持が役人の仕事だったきな臭い時代までけっこう簡単にたどり着いてしまうんです。大日本帝国と今の時代は一応別ものということになっているけれども、統治機構のシステムそのものはそんなに変わっていない。「改元」の主人公が地方公務員というのもやはり大事で、その機構の末端にいる「私」がもう一つの流れに触れてしまうという構図になっています。
樋口 散歩の話ともつながりますが、建築とか道路は寿命が長いから、歴史そのものみたいなところがある。アメリカやアフリカは、すごく区画整理されているんですよね。開拓者が土地を切り開いたら何エーカーもらえますという法律があって、荒野が勝手に誰かの土地になっていく。そういう歴史の暴力性みたいなものと建築や道路は緊密に結びついているから、散歩していて暴力を発見するというのは正しいと思います。
アフリカも帝国主義の国々が「ここは俺の国だから、ここから先はお前の国な」という謎の書類を取りかわすことによって国境が設定されて、建物や道路ができていく。しかし文書によって体制が変わったところで全部の建築をなくすことはできないから、暴力の歴史は都市の風景の中に残り続けていく。
畠山 今お話を聞いていて思い出したんですが、僕の出身は万博があった吹田市の千里ニュータウンというところなんです。そこはニュータウンだからあんまり歴史がないなと最近まで思っていたんですが、さっきの二反長音蔵のことからいろいろ調べていくなかで、この千里ニュータウン計画を主導した人の一人が、大戦中に満州で「都邑計画」という都市開発プロジェクトに携わっていたということを知ったんですね。つまり大陸で開発を推進していた人が、向こうでやっていた制度や技術をもとにして、終戦後にニュータウンを作っているんです。
樋口 めちゃくちゃ面白い。面白すぎて怖いのですが、それ陰謀論じゃないですよね?(笑)
畠山 ではないです(笑)。
ニュータウンだから、ある意味歴史のケガレというか過去の暴力と切れているというのはいいことでもありつまらんことだなと思っていたんですが、そのことを最近知って、「満州の夢をコンパクトにして実現したのかもしれない土地で僕は生まれたんか」と思うと、なかなか重いものがありました。
そういうことを追っていくと、過去や遠いところとつながることができる。満州がグッとこちらに来るんですね。「俺のニュータウン、そうだったんかよ」と。
樋口 まったく聞いたことのない郊外批評すぎて、脳汁が止まらなくなってます。
畠山 郊外というものは、現代思想の影響でふわふわと遊離したものと言われがちなんです。
樋口 だいたいポストモダンですよね。歴史性を剥奪されていて、そこには消費と情報だけがある。そこで箱庭のようにやっていくのがニュータウンなんだと。その歴史との断絶によって、いろんな問題が起きている、という話。
畠山 それはそれでおしゃれでポップで面白いんだけど、そこに満州の影みたいなものを見つけられるともっと深くなる。
僕は図書館が好きで、どこに行ってもその土地の図書館で郷土史を読みに行くんです。そういうものを読むと、例えば戸籍法以前には土地と名前が一致していた時代があって、その人が占めている土地の名前とその人の名が同じという状況があったことが分かる。ではそれにそのまま縛られていたのかというと、移動したり名前を変えたりしてけっこう自由にやっていけたようなんです。しかし肉体というものがついてくる以上、どこに行っても自分一人ぶんの場は占めなければならない。「地縛霊」という表現があるように、人によっては死んでも占め続ける。それがすごく重要なことだと思っています。
(後篇につづく)
◆登壇者プロフィール
畠山丑雄(はたけやま・うしお)
一九九二年生まれ。大阪府出身。京都大学文学部卒。二〇一五年『地の底の記憶』で第五十二回文藝賞を受賞。
樋口恭介(ひぐち・きょうすけ)
作家、編集者、コンサルタント。anon inc. CSFO、東京大学大学院客員准教授。『構造素子』で第5回ハヤカワSFコンテスト大賞を受賞。『未来は予測するものではなく創造するものである』で第4回八重洲本大賞を受賞。編著『異常論文』が2022年国内SF第1位。他に、anon press、anon records運営など。
2024年11月30日(土)於 正文館書店知立八ツ田店