【畠山丑雄著『改元』レビュー】「継承者として 」 磯﨑憲一郎
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継承者として 磯﨑憲一郎
毎月初に出版社各社から届く文芸誌のページを捲ってみても、物書きたる者は同時代的な、流行の課題を扱わねばならないという強迫観念に取り憑かれたかのような文章ばかりが目に付き、辟易させられることが多いのだが、ときおりは希望にも出会す、恐らく明確な決意と共に、しかしそれを喧伝することなく慎ましやかに、小説の長い歴史のわずかな一部分として文章を書いている若い作家もいる。その内の一人は乗代雄介だが、本作『改元』の作者である畠山丑雄もまた、過去に書かれ、読み継がれてきた数多の作品の連なりを、自らも作品を書き、それを発表することによって次代に橋渡すという責任、小説家となった者の使命を引き受けた書き手であるように思う。
私じしんも小説家としてデビューする以前の認識は似たようなものだったのだが、それぞれの時代、それぞれの地域、国家、大陸に、小説家はあくまでも個人として誕生して、それぞれの才能と技術、個性を最大限に発揮したいくつかの作品を遺す、それらの作品と作者の人生を数十年、もしくは世紀を跨いだ数百年という長い時間を経てから俯瞰的に眺めてみたときに、そこに初めて小説の歴史、作家の系譜めいた流れが浮かび上がってくると、一般的には信じ込まれているように思う。しかしじっさいに自分も小説家として作品を発表するようになってほどなく気づいたのは、むしろそれとは異なる、反転した実感だった、作品の後追いで歴史、系譜が作られるのではない! 流れは個々の作者、作品に先行して存在する! 新人のデビューが偶然なのか必然なのかは分からないが、とにかく作家となってしまった個人は否応なしに、強引にその流れに飲み込まれる、そして人生の大半の時間を費やしながら必死になって作品を書くことで、自らに与えられた役割を全うする。
本来ならば全ての作家はそうした役割を担った、小説という散文芸術の一形式の継承者に過ぎないのに、自己顕示の権利と機会が与えられたと履き違えてしまう書き手は少なくない、それに対して畠山丑雄の作品からは、同世代の作家の中では例外的といっても良いであろう、小説の歴史へと向かう意識が感じられる、例えば「改元」冒頭近くの、以下の文章を読んでみて欲しい。
主人公が空き家の下見をした際、欄間を見上げた場面の見事な描写だが、ここに畠山丑雄がインタビューなどで繰り返し言及している日本の近代文学の先達からの影響を読み取ったとしても、それはもちろん間違いではないのだろう、しかしそれだけではこの文章の特異さの説明として足らないように、私には感じられる。「見る側の方が目撃の直前で彫刻にされてしまった」「決断を迫られている側の傲慢さで沈黙を傍らに置き」といった、文意に加えて主語さえ判然としないにも拘わらず、語の選択まで含めてこの場面で記されるべき文章として極めて的確な、嵌まった表現は、現代の多くの作家が陥っている罠でもある、登場人物の心情を精妙かつリアリスティックに言い表さねばならないというつまらない義務感などは捨て去った上で、何にも増して日本語表現としての秀逸さを第一義に追求している書き手でなければけっして出て来ない、優れて小説的な文章なのだ。そしてこうした文章の質的レベルにおいてこそ、書き手の歴史に対する敬意は表れる、タイトルの通り、本作の舞台は平成から令和へと元号が変わる正しく現代ではあるものの、時代設定に煩わされることなく、歴史への敬意に満ちた文章は全編に貫かれている。
最後にこんなことを付け加えて恐縮だが、私個人は素晴らしい小説であればあるほど、こうした推薦文や解説の類いは不要だと思っている、小説とは、その小説本文を読む時間そのもの、読書というじっさいの体験に他ならない、解説を読む暇があるのであれば、一刻も早く作品の方を読み始め、何度でも繰り返し読み返すべきだ。本書は表題作「改元」のみならず、一緒に収録されている「死者たち」も魅力的だ、著者ならではの文章、語り口を堪能しながら、時間をかけてじっくりと読み込んで欲しい。
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