中央と周辺
風土
「子供達は何処の米か分からないような米ではなく、土地の米から土地の野 菜から、近くの海の魚から彼等の身体を貰った。土地の声である地方語から心を貰った。なだらかな山と静かな入り海と湖と、それに挟まれた小刻みの田や畑から気質を貰った」
これは、明治の中頃、幼少期を思い、柳宗悦らと共に、民芸復興運動の中心のいた陶芸家 河井寛次郎の「60年前の今」と戦後まもなく書かれた「火の誓い」の一節です。和辻哲郎の風土論や、戦前戦後のパラダイムシフトに影響されているかもしれませんが、まさに、身土不二の思想です。
身土不二
人の身体とその地に生きる土、風土は不二、つまり一つである。人は、育つ風土と共にあるといった考え方です。人と自然は等価であるといった考え方でもあります。更に、この本では、子供時代の魚採り、自然との遊びや季節ごとの行事だけでなく、商店での職人達、結屋、飴屋、ろくろ屋等の日常が鮮明に描かれています。自分の体験と重なり合い、初めて読んだ時に、心が震えたことを思い出します。
自らが過ごす地域との思い出が豊かな様を「心の根っこ」と呼んでいます。心の根っこの有無、程度の差は、人の成長に大きく関わる相関関係があることは都市社会学の成果でもあります。
古里の歌
一方、これは、明治の中頃の古里でのことに対し、同時代(大正期)に作られた歌に「ふるさと」があります。「うさぎ追いし、かの山、小鮒釣りし、かの川・・・」のそれです。とても美しい歌だと思います。
明治の中頃といえば、江戸期から抜け、国家がその体裁を整え始めた時期です。日本は、国民国家を目指し始めます。国民国家とは、それまで(江戸期以前)の人々=私達庶民の大半の意識は、今でも高齢の人の間で使われる言葉から推測出来るように(あなたのお国は? どこの国の出身?私は三河、
尾張です? といったやりとり)県や藩、郡が各人の国を表していました。更には、尾張の国の○○の一郎と本人の出自を表していたように(○○とは集落名を指します)個人ではなく、ある共同体(集落)に属している誰々と自覚していました。こうした人々の意識を、藩、郡、県、共同体を超えて、個として国に向かうようとしたものが国民国家です。集権的その受け皿が大都市、とりわけ東京でした。
中央と周辺
古里の歌は、どこか遠きにありて思うものといった、今はもう遠くなってしまった思い出、古里には今はもういない自分、更に遠くなっていく古里、といった中央から地方を見る意識があるようです。
河井寛次郎の文章には、明治中頃以前の共同体や風土と共にある暮らしであった古里、地方を継承すべく、今も近くにあって親しいものといった中央も地方も等価、優劣で見るものではない意識が、時代の中から生まれてきたようです。 どちらかに軍配を挙げるために、他を批判するのではなく、これらの言葉が生まれた「なぜ?」を理解することが素直なことではないでしょうか?
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