となりにいる人と 手を繋ぐ
オンラインで外国人の方に日本語を教える仕事をしている。
わたしの担当する生徒さんの中には、
留学や仕事のために、すでに日本で暮らしている人も複数おられる。
先日、日本在住の生徒さんと世間話をしていた時に、
彼女が「近所の小売店に苦手な店員さんがいる」と言い出した。
店長さんもほかのスタッフさんも親切でとても気に入っているが、ひとりだけ挨拶をしてくれない店員さんがいる。何度も通っているとわかるが、彼はほかの日本人客には愛想よく挨拶して丁寧な言葉で話しかけるが、自分にだけ態度が違うようだ…という。
現場を見たわけではないので、わたしには何とも言えない。常識的で周りをよく見ている生徒さんだから、生徒さん自身に心当たりが無いというなら、少なくとも、ものすごく悪いことをやらかした…ということはなさそうだ。
「わからないけど、そういう人に運悪く当たっちゃったんじゃないですか。その人は多分、他の外国人客にも同じ態度だと思う。わたし個人としては、そういうことが起きるのはとても残念に感じますけど」と話した。この生徒さん自身も、そんなことはすでにご承知のことだ。生徒さんは各国を渡り歩いて生活した経験の多い方で、「どこの国に行っても似たようなことはある」と割り切ってはおられた。だが、ご不快はわたしにも想像できる。
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わたしはフリーライターとして独立した20代当初から、工芸職人さんのインタビュー記事を専門に書いている。わたしの大学での出身ゼミは社会調査のゼミで、先生はわたしの仕事もよく知ってくださっており、卒業後も細々と交流がある。わたしが30代前半くらいのころ、先生から「今度、院生を連れて80代の元職人さんのインタビューに行くので、良かったら一緒に」とお誘いをいただいたことがある。
当時、ゼミの院生の中に女性の中国人留学生がいた。英語よりも日本語が得意だというから、会話はいつも日本語だった。アカデミックな話題になっても日本語でやりとりするのに不足がなく、とても知的なひとだった。
取材当日、並んで一緒に歩きながら「先輩の鞄かっこいいです、働いてる人っていう感じ!どっかのブランドですか?」とか聞いてくれた。わたしは学部卒なので、厳密に言うと院生の彼女の先輩には当たらないんだけど。かわいらしい人だなと思った。
インタビューは昔の町の様子の聞き取りから始まり、ごく和やかに進んだ。途中で、先生が「当時のお仕事の話をお聞きしてもいいですか。これはうちの卒業生で私の教え子ですが、彼女のほうがお話がよくわかると思いますので聞き手を代わりますね」といって、わたしに交代してくださった。
技術的なお話はたいへん貴重なもので、面白かった。元職人さんは、当時の現物のサンプルや図案なども引っ張り出してきて見せてくださって、大変親切だった。現役時代のお仕事の話になると、ご年齢よりもぐっと明晰にお話しくださるお年寄りは少なくない。きっと、腕のいい職人で大活躍だったんだろうなと思う。彼らは高度経済成長期には寝る間も惜しんで働いた世代で、まさに、わたしたちが生きる現代に直接繋がる土台を築いてくださった、偉大な先人だ。わたしはこの世代の職人さんたちを尊敬している。
「ええ時代やったけど、じきに中国のもんが入ってくるようになってな」。
元職人さんは、そう言って顔をしかめた。伝統工芸に携わっていたお年寄りからは、しばしば異口同音で聞かされる話だ。当時、高い品質の日本製工芸品には、あくまでも職人たちが生業として食べていけるだけの、労力に見合った価格設定があった。そこに、海外から似ても似つかない低クオリティのものが、あまりにも過剰に安い値段で入ってきた。こうなると、既存の工芸品はいくら品質が高くても、また品質の対価として妥当な値付けをしていても売れなくなってしまう。このせいで、まっとうにやってきた国内のご商売の廃業が相次いで…というものだ。
「中国が」「中国のせいで」。元職人さんの憎悪は強く、なかなか聞いていて辛いものがあったが、それは実際に若いころの彼の身に現実に降りかかった不幸で、しかも彼自身にはどうすることもできず、時代の大きなうねりに巻き込まれた格好だ。ご家族を抱えて想像を絶するご苦労をされたことと思うし、そりゃあ恨みつらみが収まらなくても当然の話である。わたしはただ、元職人さんのお話を最後までお聞きするだけだった。
きれいごとを言うならば、道徳的な正しいふるまいではないと言えるのかもしれないけど、でも彼のような人が中国に怒っても、恨んでも、嫌っても仕方がないと思う。直接的な理由があるから。
ただ言えるのは、元職人さんの憎悪は、取材に同席していた中国人留学生の彼女に何の関わりも責任もなく、彼女にとっては生まれる前の過去の話だ。もしかすると国内でフィールドワークをするという研究上は知っておくべき情報かもしれないけど、感情の上では彼女が心を乱す必要のないことである。
そうはいっても、理屈と感情的なことはまた別の話だ。その場で黙って同席していた中国人留学生の彼女が、どういう思いでお話を聞いていたのか、わたしには正確にはわからない。
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前段の、わたしの生徒さんとの会話に戻る。
「でもね先生、この前電車に乗ったら、隣の席に座った日本人のおばあちゃんがすごくやさしかったんですよ。知らない人だけど、しばらくお話しながら乗ってたんです。お菓子もらったりして、楽しかった。日本語勉強しておいて、おばあちゃんと話ができてよかった。結局は国と国じゃない、人と人なんですよね」。
生徒さんはそう言って、その雑談を締めくくった。
その通り、国は国だ。国の中にはたくさんの人がいるというけど、じゃあ、その国の人たちみんなの顔を、だれが実際に見たことがあるのか。その国のみんなというけど、みんなって、いったい誰のことなのか。
とりあえず手近にいる目の前の相手の顔を見たら、当然だけどそこには「○○人です」なんて書かれてはいない。見た目で人種までならわかっても、出身国を当てるとなると、それはもうクイズの域だ。イヤなやつも意地悪な人もいるし、面白い人もやさしい人もいるけど、そのへんは国に基づく特徴じゃないので、個人は個人でみんな違う、そんなのは当たり前のことだ。国なんてでっかいものを見ようとしても見えないのだから、わたしたちは、ただ目の前にいる人を見るしかない。
わたしは今の自分の仕事が好きだ。
仕事でいろんな国の人に会っていると、その「国」に対して抱いていたイメージが、どんどん剝がれていく。日々、国際ニュースを見ていると、わたしにも好きになれない国はあって、大抵のニュースなんてものはこわいな、いやだな、ひどいなと思うことばかりだけど、でもそれらは国のニュースであって、人のニュースじゃない。そう考えるようにしている。
その国の中にも、きっとわたしと言葉を交わし、手を繋ごうとしてくれる人が生きている。