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なぜ教師はデジタル教科書を使わないのか?

財務省が全国の公立小中学校の教員を対象に実施したデジタル教科書の使用に関する調査結果が、9月に公表された。

それによると、紙とデジタルの教科書の活用状況は、英語、算数・数学ともに、「デジタル教科書のみ」という回答がわずか数%で、「紙のみ」及び「デジタル・紙を併用しているが、紙が多い」を合わせた回答の方は、6~7割だったという。

財務省はこの結果から、「紙とデジタルの教科書が『併用』という形で、その活用が現場の裁量に委ねられている結果、使い慣れている紙の教科書が使用され、デジタル教科書の活用が進んでいないことが推測される。」とし、「デジタル教科書のメリットを多くの教員が共有し活用を促すような取組(教育委員会や学校による研修等の組織的な取組)を進めつつ、例えば、デジタル教科書を導入した教科については、デジタル教科書の使用を原則とし、紙の教科書の在り方を見直すなど、紙からデジタルへのシフトを検討すべきではないか。」と、提言している。
(https://www.mof.go.jp/policy/budget/topics/budget_execution_audit/fy2024/sy0606/11.pdf)

この調査結果の文言を、保護者を始めとする「よりよい教育」を求める人々はどのように受け止めるであろうか。
「現場教師は怠慢である」「教育は時代の変革に追いつけていない」といった教育現場への否定的な評価につながることを、私は危惧する。

むしろこの調査結果は、現場教師の<良心>とさえ言ってもいい確かな実践知に基づく賢明な判断であること、そして、なし崩し的なデジタル化のなかにこそ問題の本質があることを表しているのではないかと考える。

確かに教師の中には一部、機器活用能力に問題をもつ者もいる。だが、それは本質的な問題ではない。

では、なぜ教師はデジタル教科書を当たり前のように日常使いしないのか。
その答えは、「使う必要を感じていないから」である。
紙の教科書と比較して、デジタル教科書を使うメリットが「ない」からである。

例えば、難波博孝編著(2024)『デジタル時代の読解力 紙とデジタル比較読解調査からみえること』(文学通信)では、小学生の読解調査結果において、紙かデジタルかというメディアそのものの特性による有意差は生じなかったと報告している。以前に実施された成人を対象とした調査も同じ結果であったという。しかも同書の調査では「深く読む」ことを対象としているのだが、それでも有意差が生じていない。つまり、同じ人が読むことにおいて、メディア特性には影響を受けないのである。(p.132)

同書が伝えるのは国語科における読解力に限定した結果ではあるものの、もしデジタル教科書が単に紙の教科書の内容をそのままデジタル画面に置き換えただけであるならば、どの教科においても同じような結果になることは確かであろう。
むしろ、同書が「デジタル機器への関心の高さが読解への集中力を疎外している可能性がある」と指摘しているように、デジタル教科書を用いることがデメリットをもたらす可能性があることに注目すべきであろう。「リスクを犯すくらいなら、効果は変わらぬ慣れた紙の教科書を使うことの方が子供のためになる」と教師が直感的に判断することは、実は当然であり、極めて賢明でさえあると言えるのではないか。

しかし、教師がデジタル教科書の必要を感じない理由は、それだけではないはずだ。たとえ端末の中のデジタル教科書のページが紙の教科書と同様ではあっても、例えばある学級で、「りんご」を英語で「apple」と表記することを学んだ時、子供の一人が「では、他の果物はどのように表すのか?」と疑問をもちサイトを検索したり、「アメリカで栽培されているりんごも日本のりんごも同じように『apple』と表すのなら、それぞれのりんごの特徴も同じなのか?」と思った子供がチャットを使って級友の意見を聞いたりすることは、端末そのものによって容易に行える。
教室のデジタル化によって、学びの広がりが期待できるのである。
にもかかわらず、教師がデジタル教科書の使用に必要感をもてないのはなぜなのか。

その理由を考えるうえで、大谷尚(2008)「学校文化と『神神の微笑モデル』―テクノロジーと教授・学習文化とのコンフリクト」『質的心理学講座1 育ちと学びの生成』(pp.233-266,東京大学出版会)は示唆的である。
大谷(2008)は、「教室にはこれまで、多様なテクノロジーの導入が試みられ」てきたが、それら「明治時代以来の教室、机と椅子、教壇、教卓、掛け図、黒板とチョーク、教科書、ノート等の他、戦後になってからのテレビ、ビデオ、レスポンス・アナライザ、プログラム学習、パソコン、CAI、インターネット等」のうち、「成功したもの、少なくとも広く普及して現在でも使われているものは、ビデオまでである。」「つまり、一斉授業を尊重する教育現場の価値観や従来の教授法に適合するかどうかが、教室に導入される新たなテクノロジーの成否を決めてきた」のだという。それは言い換えれば、「国家主義的な教育観に基づく旧来の教授・学習モデルに適合するかどうかが、その成否を決めてきた」のだと述べている。(p.258)

つまり、教師は自らの内側にあってその教育的営為を規定するものに基づくことにより、デジタル教科書に必要感を見いだせないのだ。教師は自覚的にも無自覚的にも、社会・制度が教育に求めるものや、自らが児童・生徒だった頃からの経験に規定されながら教壇に立っている。仮に、端末が自由で創造的な学びへの可能性をもったものであっても、それを活かすことが教室では許されてはいないことを、教師は「知っている」のだ。もしデジタル教科書を用いる可能性にチャレンジするのであれば、その背中を押す新たな教育パラダイムが必要なのである。

「はて?現行学習指導要領においては、学習者中心が強調されている。パラダイムシフトが起きたのではないか」と、あなたは考えるだろうか。「学習者中心の発想への転換」程度では、新たな教育像は示せたことにはならないだろう。子供が有能な学び手であることなど、既に35年前に、稲垣佳世子・波多野誼余夫(1989)が古典的名著『人はいかに学ぶか 日常的認知の世界』(中公新書)において世の中に提示し、教育現場に浸透していて久しいのではないか。

それでも依然として古い教育観が絶対的な基盤となっている状態でありながら、教育のデジタル化が経産省を中心になし崩し的に進められたという事実が、皮肉にも古い「産業主義的教育」そのものを如実に表していることは、笑えない冗談である。
現場教師が、当惑を覚えるばかりか胡乱に感じられて、デジタル教科書に伸ばした手を引っ込めるのも当然ではないか。そしてその結果、貴重な税金によって投入された端末が粗末に扱われ、世代間不均衡を招くことにもなるのである。

今必要なことは、デジタル教科書の活用を促すような取組を進めるといった小手先の指導方法の普及でもなければ、紙からデジタルへのシフトを強制することでもない。
ひとつは、難波博孝(前掲書)が行ったように紙とデジタルとの比較を詳細に調査し、確かなデータに基づいて意義や課題等について議論をすることであろう。
またひとつは、例えば一人一人の子供がデジタル端末を用いて自分なりの学習を進めること、そしてそれによって教育の入口と出口が個々によって異なるものになっても、それを認め、むしろ支えて、安定した「生」を送ることが可能となる<ファンタジーではなく現実の>社会構造を構築する方法を模索することではないのだろうか。