あなたはどっち派?授業の挨拶
あなたがもし教師だとしたら、授業の始めと終わりに挨拶をさせますか。
あなたが実際の教師であるならば、日頃、授業の始めと終わりに挨拶をさせていますか。
どちらでしょう。
A 授業の始めと終わりの挨拶をさせる
B 授業の始めと終わりの挨拶をさせない
また、今「挨拶をさせる」と使役表現をしましたが、あなたも子供と一緒に授業の挨拶をしていますか。
それとも、子供だけにさせてあなたはしない?どちらでしょう。
C 子供も教師も一緒に挨拶する
D 子供だけ挨拶をして教師はしない
授業の挨拶を子供と共にしない教師がいるのかとお思いの方がいるかもしれませんが、います。
何人も知っています。教師であるあなたは、どっち派ですか。
いや、そもそもたかが授業の挨拶、どっちだっていいじゃないかと思われるかもしれません。
本当にそうでしょうか。
例えば、次の場合を考えると、どちらの言葉を選択するかということは、なかなか興味深いことになると思いませんか。
E 「◯時間目の授業を始めましょう。」
F 「◯時間目の学習を始めましょう。」
また、どんな言葉を使うにせよ、私の経験では、言葉と(礼などの)お辞儀を同時に行わせる教師と、言葉を言ってから無言で(礼などの)お辞儀をさせる教師の二通りが見られました。
あなたは、どちらでしょうか。
G 言葉と(礼などの)お辞儀を同時に行う
H 言葉を言ってから無言で(礼などの)お辞儀をする
ちなみに私が以前調べた結果では、日本人の伝統的な挨拶の仕方、つまり作法としての規範的であるのは、「H 言葉→お辞儀」なのだそうです。
この「事実」に照らすと、私は日本人の典型的なマナーを子供たちに指導していなかったことになります。しかし、自分が育ってきた経験では、「G 言葉とお辞儀は同時」だったのです。私はモズからの経験に則って指導をしていたのでした。
どうも、「たかが授業の挨拶。学習内容とは関係ないのでどうでもいい」と済ますことはできないようです。
鈴木晶子(2024)は、このことを考えるうえで示唆に富んでいます。
挨拶は、儀礼(rituals)の一つであり、儀礼の「人間の成長発達の果たす役割は計り知れない」(p.77)と言います。過去には、「軍事教練に始まる戦時下のさまざまな学校行事が典型」である「行事の強制」も見られ「根強い批判」の対象になりましたが、「授業外で、ひとつのことに向かって一致団結し協力することで生まれる帰属意識や友情、信頼など、学校日常を支えるいわばソフトパワーの醸成が重要な働きをしていることも確かである」(同頁)と述べています。確かに、儀礼や儀式がその強制力を前面に押し出すことで、学校が息苦しい空間になってしまう子供の生まれることが懸念されますが、方法によっては、「一致団結」が多くの子供にとって自分の居場所をつくることに繋がるのも確かでしょう。そして、「異なるリズムを抱えたままの学級集団」が、「挨拶やルーティーン化した活動を通して、いつものリズムへと調整されていく。儀礼的行為を通して、共に同じ場所で同じ時間を共有するためにリズムが調律されていく」(p.80)と考えるならば、挨拶のもつ重要性に立ち止まる必要がありそうです。
さらに、次の選択肢について考えてみましょう。
授業の挨拶で交わす言葉として、あなたはどっち派でしょうか。
I 「始めましょう」
J 「お願いします」
ここにも、先のE「授業」かF「学習」かの言葉の選択やGかHかの選択と同様に、教師の教育観や文化が色濃く反映していると言えるでしょう。
J「お願いします」と子供に言わせることは、教師から子供への知識の伝達が教育の目的であるという発想そのものだとお感じになる方が多いのではないでしょうか。教師と子供の非対称な権力関係が露骨に表現されていることへの嫌悪感を抱く方もいらっしゃることでしょう。
鈴木晶子(2024)は、儀礼的行為が反復によって継承されていくだけでなく「改変と創造」も同時に行われることを指摘したうえで、次のように言います。
「人類学的思考」についてはここで触れませんが、儀礼的行為に着目することで教師が省察的実践家になる契機が得られることをご理解いただけると思います。
このように、授業の挨拶を振り返ってみることは、かなり有意義なことであると言えるでしょう。
ちなみに、私の知るある教師は、授業の挨拶は必ず「お願いします」でした。
子供にだけ言わせるわけではありません。互いに「お願いします」と言葉を発して交わしていました。
そう、まるで今から「戦い」を始めるがごとくに。
「授業では、教師には教師の願いとプランがある。しかし、子供にも<目標>と学習の<プラン>がある。授業とは、両者のぶつかり合いであり、共同的な創造行為である。」というのが、その教師の持論でした。
つまり言い方を変えると、教材を媒介として、互いに抜き差しならない関係において生を全うしようとする場なのだから、「お願いします」と礼を交わすというのです。
こんな挨拶の見方もあるのです。
[引用文献]
鈴木晶子(2024)「学校日常のポイエティーク」鈴木卓治他編『教育の新たな“物語り”の探求―現代教育学のフロンティア―』朱鷺書房(発行所:書肆クラルテ)、pp.68-88