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拙速な宿題改革が子供の学力を低下させる

古い学力観を否定し、新しい学力を育むことを称揚する動きが活発化している。
こうした議論では、「古い学力」とは「読み・書き・そろばん」であり、知識を量として捉える学力観を指している場合が多い。そのため、「繰り返し学習」という方法も、子供の主体性を奪うという理由から否定されることが多い。
これは宿題を見直すことにもつながり、「新しい学力観」に立つ宿題へと移行しようとする動きが散見される。
その動きを「宿題改革」と呼ぶならば、「宿題改革」では「自分に合った内容に取り組む」という考え方を軸とし、宿題における繰り返し学習と一律の課題内容が批判・検討の対象になっていると考えられる。

しかし、そうした「宿題改革」は、本当に子供の学習をより良いものに変えることができるのだろうか。
私はこれまでこのnote上で、自己選択を重視する宿題は多様な家庭環境に対応可能なのか、問題があるとしたらどんな対策方法があるのか、そもそも宿題が必要なのか等について考え、拙速な「宿題改革」について批判的に検討をしてきた。(「リフレク帳120~124」)

今回は、「繰り返し学習」を窓口にして考えたい。
確かに、例えばある漢字を、既に書くことも読むこともできるようになっている子供とまだ未習熟状態の子供とを一緒くたにして一律に何十回も繰り返し書かせるという宿題は、問題である。
しかし、「だから繰り返し学習はやめて、それぞれの子供が自分の興味関心に基づいた内容に取り組む宿題に変えよう」というのでは、振り子の端から端へと動いたに過ぎない。
それは、「繰り返し学習」と「探究的な学習」を両端に対置した二項対立の思考である。

また、その「宿題改革」推進の背景に、教師のいち早く「新しい学力観・教育改革」の潮流に乗ろうとする心情を感じ取るのは、意地の悪い見方だろうか。

「読み・書き・そろばん」を「古い学力」として否定的に見る動きは、今に始まったことではない。私の知る限りでも、既に40年以上前から盛んに言われていた。
自己選択型や探究型の宿題へと切り変える取り組みは、その当時から行われていたのである。

それがここに来て「宿題改革」の論議が盛り上がっているのは、なぜか。
私には、これが時代の「流行」に遅れまいとする拙速な動きに見える。

二項対立と「流行」としての「宿題改革」は拙速を招く。

これまで教師は、「読み・書き・そろばん」を「古い学力」と見なしながらも、決して無駄なものとは捉えず、むしろ繰り返し練習も大切な学習であると考えてきたはずだ。
この考え方は、「ゆとり教育」の反動として席巻した「学力低下論」とは、まったく異なる。
当時の「学力低下論」は、上記の振り子の両端の動きの逆でしかない。

教室ではもちろん、家庭学習においても、九九を始めとする「繰り返して身に付けること」への取り組みを子供に求め続けてきたのは、それが「必要」だと経験的に知っていたからである。

自己選択型や探究型の宿題の意義を認めつつ、「繰り返し学習」を宿題として課題化してきたこの経験的な信念を支持する学習科学の知見を、私達は『教育効果を可視化する学習科学』(ジョン・ハッティ、グレゴリー・イエーツ 原田信之ほか訳 北大路書房 2020、pp.82-100)に求めることができる。
本書では学習科学の最前線の研究結果として、丸暗記の学習による「単なる表面的な知識」と「深い学習」とは対立するものではなく、両者の間には断絶がないこと、むしろ反復と強化によって概念的習得やより深い理解による知的成長が促進できることが明示されている。そして、小学校の低学年段階で計算的知識や単語の知識が不十分だった子供は、高学年で学校での学習がますます困難になるという結果が出ていると述べている。
つまり、繰り返し学習による知識や技能の習得は、探究型の学習のためにも必要不可欠なのである。

例えば、「自ら進んで課題解決に向かう力を育てるべきだから、繰り返し学習を宿題にすることはもはややめるべきである」と発言する教師は、こうした学習科学の知見をどれだけ検討したのだろうか。

教師には、二項対立の思考や「流行」の先取りをしようとする傾向が見られがちだ。
熱意ある教師ほどはまる落とし穴かもしれない。
新しさを求める「素直さ」が、振り子を大きく揺らすのだろうか。
だが、無頓着な「素直さ」ほど鈍感な悪意を包み隠して子供に害悪を与えることを、私は自戒している。
どのようにしたら、教師は有能な反省的実践家になることができるのか、考えを深めるべき時がきている。