“Don’t think and don’t feel” 働き方改革で子供の所見コピペ
学校の働き方改革は、「遅くまで学校に残っている先生は、いい先生だ」という「神話」を崩すことに役立った。
しかし、「業務を減らすためには、所見はコピペでよい」という、教師に対して自分が拠って立つ教育観を180°転換させていることに気付かせない事態も生んでしまった。
中には、「仕方がない」と割り切って「コピペ」を行っている教師もいるかもしれない。
だが、その結果が子供に対してどんなデメリットをもたらす可能性があるのか、「ヒント帳47」で述べた。
(「ヒント帳47」はコチラ ↓ ↓ ↓ )
では、どうしたらいいのか。
その答えは誰でも知っている。
教員の大幅増員、定数の大幅改善である。
だが、国は、それができないと言う。防衛費は大幅増額できるが、教育関連費の増額は難しいのだそうだ。特に、小、中学校に対しては。
むしろ、教職員定数の削減が国の方針である。
どんな解決策が有り得るか
それならば、考えられる解決策は次の三つしかないだろう。
解決策 その1
一つ目は、「子供の所見とは、コピペで処理する程度のものである」という、子供・保護者を含めた社会的なコンセンサスを形成することである。
それは、教育に対する社会の期待値を下げるということだ。
既に、大都市などの一部の地域では、これは常識かもしれない。
10年以上前から、私立中学の受験シーズンになると、何割かの6年生が一か月間くらい欠席する。受験ツアーのためだ。
小学校よりも中学受験の方が大切なのである。当たり前だろう。
そして、その末に「勝ち組」として霞が関の住人になった者たちには、学校、教師に対する諦念が、その子供にどれだけ悪影響を与えるのかを想像できないだろう。
解決策 その2
それならいっそ、通知表の所見を一切なくしてしまえばいいのではないか。その文章にそれほど期待をされていないのだから。
そう、これが二つ目の解決策である。前期通知表の所見欄は廃止したが、後期には残したままにして、過去の通知表のよさも大切にしたいというどっちつかずの方針が、逆に「所見」を形骸化させるのであるから。
解決策 その3
いや、「所見」の教育的価値を大切にしたい。子供・保護者の信頼度や期待値を下げることは間違っている。子供を被害者にしてはいけない。そう考えるなら、コピペをせずに、時間を生み出さなくてはならない。これが、三つ目の解決策だ。教員数を増やさずに、手厚い「所見」にするための時間を確保するなら、これしかない。
①指導要録の大幅見直し
そもそも、学校、教師が「成績事務」に対して中途半端な心情を抱く根本的な理由は、「指導要録」にあるに違いない。
あらゆる教師の業務の中で、これほど「無駄」なものはない。
指導要録とは、学校教育法施行規則によれば、子供の「学習及び健康の状況を記録した書類の原本」である。「学籍に関する記録」と「指導に関する記録」に分かれているのだが、「指導に関する記録」には、通信表に記入する内容に類似したものを記入する。毎年、年度末に書かれ、公簿として一定期間学校に保存される。
しかし、保存してあっても、見る者は、ほぼ皆無である。現場教師にとっては、役に立たないからだ。
つまり、典型的な「お役所仕事」なのだ。
だから、教師になった初めての年度の終わり頃、誰もがこう感じる。「成績の仕事は、いい加減でいいみたいだ。」と。以前などは、膨大な時間を費やし、不眠不休で書き上げた。しかし、誰の役にも立たない仕事だった。
現在、いくつかの点で改善が行われたが、まだ不十分である。
教師の心を蝕み、働き方改革を阻害する牙城のような存在である。
②教育内容を削減する。
教育内容を削減することで、授業時間数を減らすことができる。
今回の指導要領の改定では、資質・能力の育成へと舵を切った。
百科事典的な知識は役に立たない。キーを叩けば、「知識」は得られる。必要なのは、そうした「死んだ知識」ではなく、未来を切り開く「生きた知識」であるというわけだ。
そう考えるならば、教科書はもっと薄くできるはずである。
ちなみに、キャシー・ハーシュ=パセック, ロバータミシュニック・ゴリンコフは、『科学が教える、子育て成功への道』(今井むつみ, 市川力 訳,扶桑社2017)の中で、学習科学の立場から、21世紀においてどの子供も「『超』一流」になり、「成功」するために必要な力として、次の六つのCの力を挙げている。
開かれた考え方・開かれた学校、教師に
さて、この①と②の方策について、異論や反論もあるだろう。結構なことである。
そもそも、「所見コピペ」の何が悪いのかという方もいらっしゃるかもしれない。
そう、どこが問題なのか。
考えたい。考えていただきたい。
私が、この「学校の『神話』」シリーズで訴え続けてきたのは、学校、教師が考えなくなることへの危機感である。
学校現場では、様々なことがオートマチックになりがちだ。前例踏襲や横並びがよしとされる雰囲気の中で、次第に考えることを放棄するようになるのかもしれない。
“Don’t think and don’t feel”である。
その結果、今回取り上げた「所見コピペ」のように、一方で一人一人の子供を大切にした授業をしようと心掛けておきながら、もう一方で子供を「無名」の存在として扱っていることに矛盾を感じなくなってしまう。
ちょうど、強面で時に子供を恫喝するような指導をしておいて、「子供の自治的活動を進めるべきだ」と主張する教師のごとく。
これを防ぐには、一度立ち止まって、考えてみることだ。
そのためには、自他に向かって開かれていること、つまり、自分のしていること、信じていることを外に向かって開くことが必要だ。
そして、自分の考えの根拠と論拠は何だったのかを見つめ直したい。
学校、教師が開かれた状態になって外からの声を聞くことで自己を相対化すること、それが、学校の「神話」を解体する第一歩だと考える。