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横山ホットブラザーズ師匠のこと

去る4月22日、横山マコト師匠がお亡くなりになりました。

横山ホットブラザーズ師匠と演芸作家としてご一緒できたのはほんのわずかな時間でしたが、それが私の出発点であり、かけがえのない宝物でもあるのです。
今回はマコト師匠と2020年に先に逝かれたアキラ師匠との思い出を記しておきたいと思います。


まずは私の演芸作家としての経歴をご紹介いたします。

「1998年 大阪シナリオ学校 演芸喜劇台本科卒業」

「現在に至る」

少な!!

というお約束で始まりましたnote、
今回は「横山ホットブラザーズ師匠のこと」というお話です。

1998年、大阪シナリオ学校を卒業した私がどのようにプロとしての一歩を踏み出したのかというと、それは、2000年NHK大阪放送局が主催する『BK演芸台本研究会』に参加させていただいたことが大きなキッカケとなりました。
『BK演芸台本研究会』はNHKラジオ番組『上方演芸会』の台本を書く作家を育成するための研究会で、プロの漫才作家の先生方、劇団の演出家の方、NHKの番組ディレクターさん等がアドバイスをくださり、作家はそれを元に第2稿、第3稿と練り直しながら最終的に放送用の台本に仕上げていくというもの。

そりゃ新人作家としては目の色変わりますよ。

自分の書いたネタがプロの漫才師さんに演じられ、しかも全国放送のラジオにかかるのです。

まさにドリーム。

ただ、仕上げたからといってそれが演者さんに演じられるわけではないのであります。
研究会では1組の演者さんに対して数人の作家が同時に台本を書き、最終的にそのうちの1本が採用になるというコンペ形式なのであります。

ドリーム、いったん横へ置く。

だって。
作家陣は私のような新人の他に、プロとして活躍している人もうじゃらうじゃらいるのです。採用されるということは、その人たちを振り落として……というたら言葉悪いから、出し抜いて……と、これもようない、足を引っ張って……て、どれもあかんな!!
とにかく、いちばん良い台本として選ばれないかんのです。

各作家がどの演者さんに書くのかは、研究会の事務局からあらかじめ割り振られたと記憶しています。

さて私が研究会に参加して初めて台本を書かせていただいた演者さんはどなただったかと言いますと、
それが
横山ホットブラザーズ師匠だったのです。

ワ・ワー♪
ワ・ワー♪
とかくこの世は朗らかに♪

いうてる場合やないねん。

これは想定外でした。
というのはシナリオ学校在学中、課題として書いたのはコンビのしゃべくり漫才台本だけ。音曲漫才、しかもトリオ漫才なんて全くの未経験なんすから。でもって絶望的に応用力ナシ。

ツーーー。

↑脇からが流れ出る音。
    汗

かと言って
音曲漫才って書いたことないんでぇ
しかもトリオ漫才とかってぇ、無理ですぅ
とか言うてられへん。どんな演者さんのネタでも書けへんかったらプロになんかなられへんのやで!!

ゆうて自分を鼓舞。

しかし。

どない書いたら良いのやら。

まずはホット師匠の漫才を研究せないかん。

当時ユーチューブなどない時代、ネタの研究といえばワッハ上方の映像ライブラリーだったよね、同期のみんな!!(懐)

とにかくワッハ上方の映像ライブラリーでホット師匠の舞台をみまくってセリフを書き起こしまくる。

アキラ師匠にマコト師匠がツッコむ、これはわかる。
2人の漫才ならこれで成立。
今まで書いた台本は全てこのパターンだった。
ホット師匠の場合はここにセツオ師匠の役割が加わるのです!!
さらに「歌を入れなあかん」という最大のミッションが!!

むずい。

むずすぎる。


今回、ホット師匠には私の他に2人の作家が書く。

1人は私と同じく、当回から参加した新人作家。

だがもう1人は、すでにプロとして活躍しているバリバリの先生。
ホット師匠の台本もたくさん書いておられ、ホット師匠を知り尽くしている方である。

この3人の中で選ばれるのは1人。

選ばれる気がしねぇ。

そんな弱気モードの私に、ある天の声が聞こえたのです。

「私が台本みたげますわ」

仰ぎ見るとそれは桂文紅師匠でございました。

当時、シナリオ学校の講師としてこられていた文紅師匠。
落語台本を書いてみたいという生徒(私を入れて3人)に別枠で文紅塾という講座を開催してくださっていたのでした。

その受講日に今回の研究会参加のご報告をしたところ、師匠はこう仰ったのです。

「これは何としても取りにいかなあかんで」
と。

つまり、プロになるためには

「絶対コンペに勝て」

ということです。

「こういうのは一発目が大事やねん。初回でイマイチのん出したらあとあと響くさかいな」

か〜ら〜の〜〜〜〜〜

「私が台本みたげますわ」
と。

「第1稿が書けたら提出する前に送っておいで」

すごい 黒幕  がつきました。
  バックアップ

そこで書きあげた第1稿がこちら。
文紅師匠の添削付きのをご紹介いたします。
チョー秘密文書よ、奥さん!!


幻の第0稿


マコト「最近、音セラピーいうのが流行ってるな」
アキラ「自然の音で心を和ませるというやつや」

と書いていたのですが、文紅師匠の添削では「セラピーとは何か」をアキラ師匠が問い返すという1行が入っています。

台本を書くときにやりがちなミスとして、書き手はその言葉を知っているのでつい受け手の演者が先回りしてその言葉を説明するようなセリフを書く、というのがあります。

これをやると聞き手(お客さん)の耳に言葉が残らず、流れていってしまうのです。受け手であるアキラ師匠が「音セラピー」を初めて聞くというテイをとることにより、お客さんと歩幅を合わせながら、より丁寧に言葉を届けることができるのです。

すごく細かいことなんだけど、大切な基本のキ。

もう一点、文紅師匠の添削では、

アキラ「水洗便所こわれとんねん」
マコト「どこが自然の音や!」
の後に、
アキラ「おかげで、お通じがようてね」

の一言が足されているのです。
この一言でグッと漫才らしくなり、アキラ師匠のボケのおかしさがより滲み出すという効果につながっているのですよアンダースタン?

かくして全編、文紅師匠からこまやかなアドバイスをいただきまして、

「最後が少し淋しい 出来たら台所楽器を使いたいと思います」



さらに別添えのアイデアまでいただく。


発信 カツラブンコウ 


そうか。
冒頭を読んで思い出した。
文紅師匠、この翌日、うちの事務所まで来てくださったのだ。
ファックスの日付けを頼りに日記を紐解くと、

『2000.8.9 今日、文紅師匠が本町に寄ってくださった。ほんま難しい、音楽ショウは』

と書いてある。


そして師のアドバイスを反映させた第1稿を研究会に提出。

「おかげで、お通じがようてね」
が効いている。
まじすごい。

第2稿、第3稿と練り上げる。

そしーて!!
日記には
『2000.9.7   ホットさん台本決まった!!』とある。

そうです。
この日ついにこの『音セラピーで、絶好調!?』が
放送用の台本として採用になった模様であります!!

ワ・ワー♪
ワ・ワー♪
とかくこの世は朗らかに♪

うわ〜ん、やっとこのテーマソングを朗らかに歌えるよ!!
夢に見た放送台本、決まりました。

でも、競合の2人の作家さんには申し訳ないことしました。

実は私にはあの時、
文紅師匠という強力な 黒幕 バックアップが付いていたのです。

ごめんねごめんね!!

そういう ズル 裏技により私はNHKラジオ『上方演芸会』にてメディアデビューを果たすことになったのでありました。

それもこれも桂文紅師匠のおかげです。
文紅師匠、本当にありがとうございました!!

というわけで以上、
『上方演芸会デビューまでの苦心談』というお話でした。


「いーや、僕らわい!!!!!」

はっ、師匠方!!

すみません、ついウッカリ。

師匠方のことを記すためのこの度の記事なのでした。

追悼記事、しっかり書く。

上の台本が採用になり、いよいよ直接打ち合わせをした時のことが、日記にはこう書いてあります。

『2000.9.15   横山三兄弟と打ち合わせ』

こら!三兄弟て!

さらに

『このネタおもしろなるで〜ありがとう〜!ってアキラがゆうた』

こら!アキラて!


でも、アキラ師匠はほんと優しかった。
駆け出しの作家のネタに

誰が「ありがとう〜!」なんて言うてくれる?(泣)

マコト師匠とセツオ師匠は無口な印象だったけど、
読み合わせの中で「こうした方がええ」「ああしたらええ」と、どんどんアイデアを入れながら作品をよくしようとしてくださった。

そんな初打ち合わせの後、本番当日。
収録は地方ではなく旧のBK局舎内のスタジオだった。
日記にはこう書いてある。

『2000.9.22  上方演芸会収録。アキラ師匠が「頑張ってくるわ」と言って舞台に出ていかれた。漫才後にインタビューあり。司会は井上善夫アナウンサー。井上さん「今回の新ネタはいかがでしたか?」アキラ師「台本がきめこまやかでやりやすかったね」と言った後、客席でみていた私に「えっちゃーん、どうだった〜〜〜?」と舞台から聞いてこられた(汗)」

なんと言って答えたのかは覚えていない。
多分
「よかったですぅ〜」
ぐらいしか言えんかったと思う。
でも、嬉しかった。
あの時のフワフワした気持ちは今も覚えている。
アキラ師匠に「えっちゃーん」と呼ばれたのもめちゃくちゃ嬉しかった。

時は過ぎて2014年10月の『上方演芸会』収録日。
私は他の演者さんの担当だったのだが、ホット師匠もご出演で、
本当に久しぶりにお会いしたのだった。

「あの時のあのネタを書かせていただいたものです」
と名乗ったところ、アキラ師匠は
「あ!!元気にしてる?頑張ってるんやな〜〜〜」
と満面の笑みで応えてくださった。
残念ながらその時は「えっちゃん」とは呼んでは下さらなかったけど、変わらない人懐っこい笑顔が嬉しかった。

続いてマコト師匠にご挨拶。

するとマコト師匠はなんと

「あの時のネタ、覚えてるよ」

と仰って、胸ポケットから小さい縦長の手帳を取り出されたのです。

「僕、全部書いてるねんで」

中には几帳面な字でぎっしりと
日付け、場所、演目、番組名等が書き込まれているようでした。
ページをペラペラとめくって
「あ、これこれ。この時のんやんな?」
とマコト師匠が指をさされたページには
「2000年9月22日、上方演芸会スタジオ収録。『音セラピーで絶好調!?』」
と書かれてあり、さらには
「作:石山悦子」
と添えられていたのでありました。

日付や場所まではわかるとして、誰が作者名まで書いてくれる?(泣)

もちろん他の作品に関しても同じく全てを記録されているようでした。
この手帳を拝見したことで
マコト師匠の舞台への思いが伝わってきたのと同時に
何事にも気持ちを込めて臨むことの大切さを
改めて学んだのでありました。

セツオ師匠にはご挨拶できなかったのですが、
お二人にまたどこかでご一緒させていただけますようにと述べて失礼しました。


それがアキラ師匠、マコト師匠にお目にかかれた最後になりました。


この日は、アキラ師匠は膝にベルトを巻いておられました。
「ヒザが弱って、ノコギリを挟む力がのうなってしもたんや」と
アキラ師匠。 

リハ。当日のSNSへの写真掲載も快く了解してくださいました



写真ヘタか
写真ヘタなんか



やればできるやないか


2020年にはアキラ師匠が、2022年4月にはマコト師匠が旅立たれました。

もうあの明るく底抜けに楽しい音曲漫才が見れないと思うと、なんとも言えない寂しさが募ります。

お会いできた期間は短かったですが、師匠方とご一緒させていただいた時間は私の宝物です。

アキラ師匠
マコト師匠
ありがとうございました。

最後にあのテーマソングをご一緒に。

 ワ・ワー♪
 ワ・ワー♪
 とかくこの世は朗らかに♪
 歌って笑ってホットブラザーズ♪


(了)




















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