あの夜、彼女にいったい何があったのか
あの日を境に、彼女の僕に対する態度は変わった。
冷たくなった、というわけではなく。それほどにわかりやすい変化でもなく。雰囲気といえばいいのだろうか、ちょっとした目線やしぐさ、言葉が前の彼女とは違う。
それもきっと、本人は気付いていないのだろうけれど。
「おはよう」
いつもより少し遅い朝。寝ぐせのままの彼女がベッドから這い出るように出てきた。
「ん… おはよう」
昨夜遅くに帰ってきた彼女。銀座で飲んでいたと言う。相手は、と聞こうとしてやめた。
「あのさ、ちょっといい?」
「なに?」
「聞きたいことがあってさ」
「ん?」
「早川さんのことなんだけど」
「ああ、早川さんね。どうしたの?」
「うん、どんな人なのかなって思って」
ヤキモチなのだろう。自分の感情のカテゴリーくらいは自分でわかっているつもりだ。握りつぶしてしまえばいい、そうすれば何も変わらない、それでいい、そう思っていた。
だが昨夜酔って帰ってきた彼女の顔を見て、自分の中にある感情の色がじわじわと変わっていくのを僕は感じた。
そして思った。このままではよくない、と。この感情がヤキモチのうちにハッキリさせておいた方がいい、お互いのために、それが不信感に変わってしまう前に、気持ちを素直に伝えておいた方がいい、と。
「早川さんね、雑誌の人って話はしたよね?」
「うん、聞いた。月刊誌を出してるんだったよね」
「そう。その雑誌に掲載されるって話もしたよね?」
「うん、それも聞いた」
「じゃあ、何が聞きたいのよ」
「いや、何って。その… あの日は、早川さんと二人で会ったんだよね? 」
あの日とは、そう、1月19日の夜のことだ。その次の日から、彼女は変わった。
「うん、そうだよ。『世界の山ちゃん』で二人で飲んで。それだけだよ」
「それは聞いてるんだけど。それだけ?」
「写真撮ったりはしたけど。あと、月刊誌の今後の打ち合わせもしたな」
「その雑誌の仕事、今後も続くってこと?」
「たぶん。次はゲスト呼ぼうとか、そういう話もしてたから。シリーズ化するかもね」
彼女の仕事を邪魔したくはない、ずっと探し求めていた彼女のチャンスが見つかったんだ、むしろ応援したい。応援する僕でありたい、そう思っていたのだけれど。そうなれない自分にもイラつきを感じ始めている。
「あの、その『世界の山ちゃん』でさ。何を食べたの?」
「何って… いろいろよ」
「ひょっとしたら、あんかけスパ、食べた?」
【あんかけスパ】
トマトベースのスパイシーなソースを極太麺にぶっかけた東海地方秘蔵のソウルフード。東海地方以外には全くウケないのはDNAによる影響が大きく現在世界進出のためのゲノム解析が進められている。
彼女に以前聞いたことがある。
初体験は彼女が18歳のころだったという。当時付き合っていた人と、小牧インターの近くで。
” 初めてだったけど、私は最初から美味しかったわ ”
それからは月に何回か、デートのたびに。
” 最初は小さいのを口に入れたんだけど。だんだんと、大きいのもいいなって思うようになって ”
彼女が名古屋から出る日までそんな生活が続いたのだが、東京ではいい巡り合わせがなかったらしい。
” 私、太いのが好きなの。細いのじゃ、満足できない ”
たまに思い出すのだろう。そうした彼女の言葉も本気ではないと思っていたのだが。
もし彼女が。あの夜、あんかけスパを食べてしまっていたのなら。あの甘美で官能的な味を、あの極太のパスタをもう一度味わってしまっていたのなら…
「答えてよ。あの夜、あんかけスパ、食べた? 」
「覚えてないわよ、何食べたかなんて」
「いや、覚えてるはずだ。もしあんかけスパを食べたのなら、君はきっと覚えている」
「それを聞いてどうするのよ。それがどうしたっていうのよ」
僕もあんかけスパが好きだ。あんかけスパには魔力と言っていいほどの魅力がある。彼女を夢中にさせてしまうほどの。彼女が自分を抑えられなくなってしまうほどの。
「もう一度聞くよ。あの夜、早川さんと二人で、あんかけスパを食べた?」
「あの夜… 私と早川さんは… 」
時に現実は残酷だ。知らないなら知らない方がいいことは世の中にたくさんある。お互いの全てを知り合うことで幸せになれるとは限らない。見なければ、見えなければいいことも世の中にはたくさんある。だが・・・
「あの夜… 私と早川さんは… あんかけスパを食べました…」
「そうか」
「違うの!私最初からそんなつもりじゃ… 」
「もういい。わかった 」
「ううん、聞いて! 早川さんが無理やり私の口に!」
「もういい! わかったから!」
「わ、私… どうしたら… 」
それでも知りたいと思った。
現実を知れば、お互いに傷つくだろう。それでも真実を知りたいと思った。
このまま心に棘を抱えながら生きていきたくはなかったから。これからも彼女と一緒に、ずっと一緒に生きていきたかったから。
覚悟はできていた。結論も決まっていたから。
僕は彼女と離れない。どんなことがあろうとも。
「おいしかったか?」
「え?」
「久しぶりのあんかけスパ、おいしかったか?」
「う、うん… 」
「わかった。早川さんとの仕事は続けて」
「 … いいの?」
「うん、いいよ。そのかわり、今度は僕も一緒に。あんかけスパ食べに行こう」
「そうじゃなくて。いいの? こんな私で… 」
「うん。いいよ。僕は君がいい」
「私… あの日からずっと気になってて。私だけあんかけスパ食べちゃったって、早川さんとあんかけスパ食べちゃったって、いつか言わなきゃってずっと思ってて。ごめんね、本当にごめん。私…」
「知ってたよ。きっとそうなんだろうなって、わかってたよ。だから聞いたんだ」
つらかったのは僕だけじゃない。僕よりもっとつらかったのは彼女の方だ。
罪の意識につぶされそうになって、それでも頑張っていたのは彼女の方だ。
僕にはそれがわかっていたから。だから聞いたんだ。
「ごめん… 」
「大丈夫 」
「ごめん。ごめんね…」
「もういいから」
「ホントはね、それほどおいしくなかったんだ。やっぱり名古屋のあんかけスパが私は好き」
「そっか。じゃあ、いつか名古屋に行こう」
「うん。私、あなたと一緒にあんかけスパが食べたい」
「僕もだよ。さあ、涙をふいて。あんかけスパのことは置いておいて。今日はさ、午後から鰻食べに行こうよ。おいしいお店があるんだ」
「そうなの? ありがとう。私、鰻も好き 」
「それも知ってたよ 笑」
真実を知ることで変わってしまう関係もある。でも真実を知ることでより強くなる絆もある。
僕たちの場合はどっちなのだろう。その答えがわかるのは、もう少し先のことなのかもしれない。
だからとりあえず今は、二人一緒に過ごせる今日という一日を大切にしよう。その先のことは、その先で考えればいいさ。
さあ、出かけよう。
今日はうまい鰻食って、昼から呑んで、いつもみたいに二人で笑い合おうよ。
-- 『ごめんね』高橋真梨子 --
好きだったの それなのに 貴方を傷つけた
ごめんねの言葉 涙で言えないけど 少しここに居て
悪ふざけで 他の人 身を任せた夜に
一晩中待ち続けた 貴方の姿 目に浮かぶ
消えない過ちの 言い訳する前に
貴方に もっと尽くせたはずね
連れて行って 別れのない国へ
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