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まだ読んでない物語

「19時に桟橋の前で」そう約束したのはまだ日差しの強い暑い夏の日だった。あっと言う間に季節は廻りもう11月だ。


「こんばんは」

桟橋の前をウロウロしていると後ろから声をかけられた。振り向くと彼女がいた。

「こんばんは。久しぶりだね」

「ねぇ、あれだよね? 私たちがこれから乗る船。ちょっと驚いちゃった。ギンギラギンで」

「でしょ? 全然さりげなくないギンギラギンだよね。でも中に入ると落ち着てるから」

「ホントに? なんかパーティーピーポー的な感じになってるんじゃないの? 大丈夫? 」

「大丈夫! ちゃんと大人の空間になってるから」

マスクで表情は見えないけれど、目と声が笑ってる彼女に安心した。


僕がマリンルージュに乗るのはこれが二度目になる。一度目は悲惨だった。船酔いする自分の体質をすっかり忘れていて船上でグッタリ。ひどい思い出だ。それからいつかリベンジを、と思ってはいたのだけれど。

この船は相手を選ぶ。

おっさんと二人で乗るのはちょっと… おっさんと数人で乗るのはもっと… 集団でワイワイやるのなんて、ゼッタイ… 

とはいえ、女性を誘えば警戒される。これまでも何人かの女性にそれとなく話してみたのだが反応は思わしくなく、半ばあきらめかけていたのだが彼女は違った。「あら、素敵。よさそうじゃない。行きましょ」とあっさり了承してくれたのだ。


予約をしたのが早かったからだろう、船に乗り込むと景色がよく見える窓側の席に案内された。船内は窓から見える海と横浜の夜景以外は普通のレストランだ。

クルーズは21時半までの2時間で、それに合わせてフレンチのコースが出される。

「今日はシャンパンでも飲もうか」

「そうね。いただこうかしら」

アルコールをほとんど飲まない彼女にお酒を勧めることはないのだが、今日だけは。

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船室内の照明が暗いが、ムードというよりは外が見えやすいようにするためなのだろう。だが、その分料理の見栄えは少し落ちてしまう。前菜の色がよく見えない。

「これ、なんだろ?」

「何? トマト? 少しすっぱいね」

「もう二人とも食べちゃったから、この正体、一生わからないままだね」

声を出して笑う彼女。お互いかっこつけずにいられる安心感が僕は好きだ。


窓からは赤レンガ倉庫が見えてきた。

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「そういえば、あの本。読んだよ」

「どうだった?」

前回会った時に彼女の前である本を注文した。彼女の好きな作家だというその人の本を読むのは僕は初めてだった。

「いやー、よかった。あとびっくりしたよ。展開もびっくり。あと謎が謎のままで終わるのもびっくり」

「そう。 私も読みながらどこで答え合わせするんだろうと思ってたら。最後まで何もなし。でもそこがまたいいのよね」

「うん。絶対説明したくなるはずなんだけど、それをあえて削って読者にまかせてる。僕もたまに文章を書くけど、そんなこと怖くてできない」

「わかる」

「あとさ、けっこうなエロかったりグロかったりする場面があるんだけど、それが汚くならないんだよね」

「言葉の選び方、つむぎ方で、与える印象って変わるよね」

「たしかに。そういうことなんだろうね」

そう。

そうだね。

言葉の選び方、つむぎ方。それは僕が感じている君の魅力でもあるよ。



ウェイターさんがやってきて「コースの途中ですが、今日はハンマーヘッドから花火が上がります。デッキでご覧になってはいかがでしょうか」と。これは予想外のギフトだ。

僕たちはデッキに出た。

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「ハンマーヘッドってどこ?っていうか何? シャーク? 鮫?」

「知らないの? 」

「前に来た時にはそんなのなかったから」

「そうよね。開業したの2年前くらいだから」

「お!!! あがった! たーまやー! あれ、みんな掛け声あげないね」

「そんなの今どき誰も言わないわよ!」

「かーぎやー!」

たった5分だったけれど、はしゃぎながら数年ぶりに見る花火はとてもきれいだった。


船室に戻ると魚の料理からコースの続きが始まる。

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お皿にもちゃんと『Marine Rouge』の文字が。


「ところで。彼氏できた?」

「ううん。ちょっと良さそうな人はいるんだけどね。どうも発展してなくて」

「そっか。絶対モテるはずなんだけどな。まあ、でもさ。彼氏なんて無理に作る必要ないからね。いつか出会いはあるし、好きになる人が現れるよ」

「そうね」

「うん。君は君のままでいい。このままで十分魅力的だから。変わる必要なんてないよ。あとは時間がちゃんと、自分が行くべき場所に運んで行ってくれるから」



よく ”人は多面体だ ” と言われる。人にはいろんな面があって見る角度で全然違って見えるものだと。僕もそう思う。同時に僕は ” 人は一冊の本 " だとも思ってる。どのページを読むかでその人の印象は全然違ってくる。

生れてた時には0ページ。(プロローグは既に親が書いてるんだけどね)
それから1日に1ページ、毎日ページが増えていく。10歳で3,650ページ、二十歳で7,300ページの物語、僕の本なんてもうすぐ2万ページに到達しようとしている。かなりの長編だね。

本の中にはいろんな出会いや別れ、笑いも涙も描かれていて。
これはきっとあとで回収されるんだろうなっていう伏線っぽいことも書いてあったり、パッと見は無駄に思えるような描写があったり。
とても文字が少ないページもあれば、自分以外の人しか登場しないページもある。

でもずっと物語の主人公は自分自身。

過去から今までずっとつながっている物語で、そして今日もまた新しい1ページが増える自分の物語。

あと100ページくらい進むと展開があって何かが起きるのかも、それともあと200ページくらいかな。それは自分でもわからないと思うけど。

でもね、何かが起きるまでのページにも無駄な文字なんてなくてさ。
読めばそこにはたくさんの美しい言葉が並んでいるんだと思うよ。この物語に必要な言葉がね。


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メインの肉料理の後。デザートが出てきた。

このクルーズももうすぐ終わる。

「今日はありがとう。この後どうする? シーガーディアンに行ってみたいんだけど」

「んー、ごめん。明日も仕事なの。今日はここで」

大黒ふ頭は無理なのはわかっていたがシーガーディアンは狙ってた。だけどしょうがない。

彼女のこういうハッキリしたところも僕は好きだ。無理ならごまかさずにちゃんと断ってくれる、それがわかってるから誘いやすい。

「そっか。今度会えるのはもう来年かな?」

「そうね。年末までスケジュールはもうビッシリだから」

「じゃあ、よいお年を、だね」

「早いわね!でも、そうね。よいお年を」

「今日はとても楽しかった。ありがとう」

「こちらこそ。また来年ね」



また来年。

それまでには100ページくらい増えてるかな。

その時には旨い牡蠣でも食べながらさ、まだ読んでない物語を。




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