将来の夢ってあった?
□□□(クチロロ)を聞いてて「未来はまだ僕のものだと思ってたそんなときのこと」って歌詞が出てきてふとしたんですよ。そういえば"私の"未来予想図ってとっくに持ってないなあとか、そも私って特に夢持たずにここまで来てない?とか認識を新たにするわけです。サンキューいとうせいこうフォーエバーいとうせいこう
思えば自分の未来なんてとっくの昔に考えなくなっていたというか、捨てたとかそういうのじゃなくて雲散霧消とか変容とか溶解とかそういう表現が当てはまると思うんですよね。
夢ってあった?
そもそも子どもの頃の将来の夢ですら、思い返しても本気でだったのは幼稚園の頃に新幹線の運転手になりたいなあとか書いてたくらいで、その後も好きなことはあれど夢ってほどでもないよなとか、趣味としては全力だけど職業にするほどではないよなあみたいなのが多かった訳なんですよ。将来の目標とか夢を書いてみようとかいう小学校の課題もウケ狙いみたいなのばかりで、例えば落語家になって笑点出てやるとか書いて、クラスメイトや先生の受けはよかったんだけど、いざ落語家が学校に来てみんなの前でパフォーマンスするとかになったときに「あっ、そこまで興味ないな」ってなっちゃったりしたんですよ。見る分にはいいけど壇上には上がれないなって。
そんなこんなで入った中学ではそこそこ頭が良い(バカ中比)ランクに属していた為か気づけば教師になる夢をとりあえず持ち、高校を出ても特にやることもないので教員免許欲しさに大学へ進学し、このころになると自分のためというより親の心理的安全性のためなんとか就職しないとと教員採用試験を受けて無事に落ち、一方免許持ちの新卒なら学習塾は引く手あまたなのでとりあえず就職して、みたいな軌跡を辿ってきました。
学生時代は一応演劇界に身を置いていたので、就職後しばらくは脚本を書いたりオーディションを受けたり、ときに昔の友人と酒を酌み交わしながらまた劇団をやろうぜなんて話をしていました。思えばあれは夢だったのかもしれません。一瞬の舞台のために丹念に稽古をし、議論をし、すれ違い、認め合い、情熱の思うまま先に進んでいた瞬間は尊いものです。
親孝行は目標だったかも
そういっている間に子どもができたわけですよ。親にしたら初孫だったのでそれはたいそう喜んでいて、その時に「ああ親孝行できたな」って確信めいた実感があったんですよね。思えば20代前半までの私は、女手一つで大学まで通わせてくれた母親を常に安心させたいと思っていたので、それが叶った実感があったあの時こそ"私の"未来予想図が完全に変容したのかもしれません。思えばその時を境に思考回路は夢から覚めてしまったように感じますし、「子どもとしての私の夢」の終着点は単純にそこだったのかもしれません。片親の辛さが終わったこと、その福音となったような気がします。
その後、子育てのために主夫になり、悪戦苦闘の乳児期を終え、怒涛のコロナ禍もTwitterを消して乗り越え、雑に起業し今に至るわけですが、こうなると私の自分史はやはり子どもが生まれた時点で終了しており、特に夢も目標も持たない私の今は家族史の時間となって、その推進力に身を委ねているのだなあと思います。
つまり、夢や生きがいは無くても、つらいことや哀しいことさえなければ人はとりあえず生きていけるということでしょう。ともすればつらさやかなしさを紛らわせるのが夢というモルヒネであり、満たされているなら夢や目標は必要ないのかもしれません。
夢や目標があったころと、特にない今日この頃
思い返すと、私が夢や目標を持っていたころは人生でも辛いことが続いたことだったように思います。親の不倫、喧嘩、離婚、度重なる引っ越し、極貧、月の食費が3000円。そんな中の生きる希望の片道切符こそ、教員免許であり、演劇界だったのかもしれません。
翻って、自身の事業のことを考えると、開業から3年目となったものの新規のノウハウの取得とか研究や研鑽って本当にむつかしいなと感じるわけです。普通はKPIを設定したりやマイルストーンを気にしたり、法人であれば貸し借りなんかがあるわけじゃないですか。いうて設立目的が「子育てをもっと楽にするため」の零細個人事業主なので、正直忙しくなりたくないわけなんですよ。私の事業は夢と目標を持たない、日銭を稼ぐための舞台装置なわけです。こうなると昇給は値上げか新規獲得でしか成り立たず、まあそれでいいかとも思ってるわけですが、間違いなくこの事業じゃ億万長者にはなれないなあとか思うわけです。
一方で大手、中堅、ベンチャーなど昇給がバリバリなところはとってもイノベーティブなわけですよ。5年間某ITにも居りましたが、基本的に2か月サイクルで何かが変わり続ける文化圏はすさまじいなと思います。バリバリボーナス取ってきてどんどん拡大してというのが目標なので当たり前ですが、先に少しふれたとおり目標のデカさとしんどさは正比例しますので、就活や転職する皆様にはメンタルと事業規模はトレードオフであることを肝に銘じていただければと思います。
目標と可処分時間、人生のロスタイム
で、我々ゆとり世代も無事アラフォーになりました。ガンダムSEED20周年!とか言ってるなかで確実に寿命は近づいているわけで、今更"私の"未来予想図なんか描いてもせんなきことよなと思うところもあります。私の母親ですらまだ還暦を迎えておらずフルタイム労働をしている中で何を言うのだお前はと言われそうですが、いうて間違いなく人生は折り返していくわけです。
もっとも、34,5ともなるなら平均点以下や偏差値42くらいの人生であれば折り返すことが確実なわけじゃないですか。そうして残りの人生の可処分時間を考えた時、新作のゲームが何本できるとか、あと何回ベイスターズの優勝が見られるのかとか、積んでいるプラモデルは全て作り終えるのだろうかとか、余った人生のスペースに何を入れるのかという話になってきます。
ただ、歩みを止めて思うのは、そのスペースに何が入ろうが、もうそれも込みで私の人生なのだから良いのではないかということです。受け売りだらけであっても、その継ぎはぎだらけのパッチワークライフこそが人生だと思うわけです。これは自分もそうであり、相手もそうであるということです。世の中にタイパとかコスパとか効率を意識する言葉が躍る一方で、人生がいつ終わるのかわからない状況で効率も何もあったもんじゃないと思うんですよ。今日の夜寝ている間に心臓発作で死ぬかもしれないんだから、今日できそうなことをやったほうがスッキリ寝られるんだと思うんです。毎晩子どもにおやすみなさいとまた明日ねって言いたいじゃないですか。
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