渚の院・前半(『伊勢物語』第82段)
昔、惟喬親王と申し上げる親王がいらっしゃった。(この京都から見て)山崎の向こう、水無瀬というところに離宮があった。年ごとの桜の花盛りにはその御殿へなあ、いらっしゃったのだった。
その時、右馬頭(右馬寮の長官)であった人を、いつも連れていらっしゃった。時が過ぎて久しくなったので、その人の名を忘れてしまった。
狩りは熱心にもしないで、酒ばかり飲み、飲みながら和歌を作っていた。
今、狩りをする交野の渚の家、その院(渚の院は文徳天皇の離宮)の桜、特に趣深い。その木の下に(馬から)降りて座って、枝を折って、挿頭(かざし)にして、上中下(の身分の者が)皆、歌を詠んだ。馬の頭であった人が詠んだ。
世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
(世の中に全く桜がなかったならば春の人々の心はのどかだっただろうに)
となあ、詠んだのだった。また、ほかの人の歌、
ちればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき
(散るからこそ非常に桜はすばらしいのだ。つらい世の中にどうして長くいる必要があろうか、いやそんな必要はない)
と言って、その木の下からは立って帰ると、日暮れになった。
お供である人が、酒を従者に持たせて、野を通ってやってきた。「この酒を飲もう」と言って良いところを探し求めて行くと、天野川というところに着いた。
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枚方に住んでいたころ、よく自転車で淀川の堤防の上を走った。
2階建ての屋根が隠れるぐらいの高さの堤防の上は、見晴らしがよく、左手に安威山など北摂の山々、前方から右手に生駒の山々が、屏風を立てたように並び、その間を淀川が広々と流れていた。
夕暮れなどには、薄暗くなった川面にさざ波がきらめき、夕映えに山の陰影が深く、道に伸びる影法師を追いかけながら家路を急いだものだった。
ここを馬で駆けたら気持ちがいいだろうなあ、と思い、バイク(といっても原付)を買った。
しかし、現実の枚方は国道旧1号線などトラックが多く、天野川に架かる、かささぎ橋は渋滞して結構大変だった。その上、自転車で走っていた淀川の堤防も点野(しめの)~太間(たいま)、木屋(こや)~枚方大橋間で車・2輪は進入禁止。
おまけに、私の腕では景色を楽しむ余裕などなかった。(右折できないんだもの・・・)現実はキビシイ。
ところで、この話を読んでいて、ずっと不思議だったことが2つある。
まず1つめは、水無瀬離宮と渚の院とは淀川をはさんでいること。
2つめは渚の院から天の川に行くには、南に一山越える必要があること。
1つ目の謎は、同僚の地理の先生に一笑に付されてしまった。「そんなん内田さん、渡し舟や橋があったんでしょう」確かに水無瀬・樟葉(くずは)は奈良時代から山陽道の渡河地点でした。おそまつ。
ただし、水無瀬から対岸の樟葉に渡ったとしても、樟葉から渚の院跡までは、かなり距離がある。京阪電車樟葉駅から南へ船橋川・穂谷川を越え、牧野駅(片埜神社がある)を過ぎ、黄金野・渚・・・。船旅だったらすぐだし、景色も最高。水無瀬も交野も一緒なのは船でここを訪れた都びとの感覚かも。
2つめの謎は、当時の淀川の汀線がわからないので、本当はなんともいえない。しかし、磯島は島だっただろうし、天野川から渚の院の方角を見ると、低い緑の山並みに阻まれている感じがした。この山並みの中には、百済神社や百済寺跡(平安中期に焼亡)があるので、そちらを通るのも一興かもしれないが、夕暮れのそぞろ歩きに山に分け入ったのか?普通は夕映えの残る淀川沿いを歩くでしょうねえ・・・。
いつも、渚の院跡に行くのには、京阪電車に乗って御殿山駅で降りた。駅から東に坂を登ると左手にもうすぐ崩れそうな御殿山という山がある。公園と神社があって眺望はきくが、宅地化の波にさらされている。
渚の院跡は、御殿山の西の崖を右にみて横を通り、そこから北東にしばらく行ったところ、幼稚園と自動車屋さんの蔭にあった。碑が建立されている。
以前、御殿山あたりの古い家は、窓のない土壁の長屋門で、素朴で懐かしい独特の風情があった。行くたびにそういうのどかな感じが失われて、あの小川のせせらぎみたいな溝や農家のようなお家はどこへ行ってしまったのか、きつねにつままれたような気がした。
春の午後の夢であったか?・・・・・・