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伊勢物語 第十一段
昔、男が東国へ行った時に、友人たちに、途上で言い寄越した歌
わするなよ ほどは雲ゐになりぬとも そらゆく月のめぐりあふまで
(わすれるなよ 身は天上の人となったとしても 空を行く月のように巡って再会するまで)
「ほどは雲居になりぬとも」はどういう意味だろう。
雲居には宮中の意味もあるので、殿上人になったともとれるし、文字通り天上の人となったということで亡くなったという意味もあるだろう。
雲のように地上からはるかに離れたとも取れる。
漠然としたこの歌は、拾遺抄・拾遺集には橘忠幹(たちばなのただもと)の歌として取られている。
橘忠幹が贈った相手は女で、
「たちはなのたたもとか人のむすめにしのびて物いひはべりけるころ、遠きところにまかり侍るとて、この女のもとにいひつかはしける」とある。
彼は駿河守になったことがある。
「駿河に行っても私はまた再び月のように戻ってきますから。」
これはこれで哀しい。たぶん戻ってきても逢えない予感がする。
伊勢物語では、身を用無き者として東国に下るという第九段のイメージがあるところへ、男が「ともだちども」に言い寄越したとあるので、男同士だから、身分が違ってしまって遠く離れても忘れないでくれ、というところだろうか。
離れると違う時間が流れる。
一人でいると自分の外側をどんどん時間が流れていくような気持ちがして戻ってきても浦島太郎のように、周りがすっかり変わってしまっている。
空行く月がめぐる時間だけ離れていってしまうのだろう。
忘れるなと言われても、たとえ覚えていたとしても、昔とは違ってしまうに違いないのに
忘れるなと言ってしまう、主人公の孤独。