嫌悪も感動のひとつ: 一般人にとっての文芸批評
にわかに起こった「村上春樹」論について思ったことを少し。
たいていの一般的な読者は「文壇」の諸事情なんか知りませんし、ましてや文芸批評、文芸ジャーナリズムなんてのは(いうと失礼かもしれませんが)ずいぶん狭い社会のことで、本屋に行って本を買って読むだけの、多くの一般市民にとっては「そんなもんあるんだ? ふーん」程度の存在なんですよね。
広く一般に知られるものではない、という意味では「専門分野」というべきかもしれません。
であれば、一般人がほっとんど知らないとしても、致し方のないところと思います。
先日、ペケことエックスでバズったご意見、
「自分の周囲には村上春樹さんのファンが多いので、その作品が苦手なわたしは、苦手であるとはなかなか言い出せないものを感じていた。最近はその風潮も変わってきたように思う」
について、またそのご意見から派生していった論調について少し取り上げました。
このご意見はあくまで「自分の周囲では」という話でしかないんですけども、これは伝聞の恐ろしいところで、そのニュアンスはサクッと無視されて、あたかも以前は「世間全体が」「親・村上春樹」だったといっているかのように解釈され、反発を喰らっているのを見て、私個人はお気の毒に思っております。
「そんなこと言ってねえだろ」
と言いたくなるような、曲解、誤解を前提にした非難て、的外れでしかないですからねえ。
ともあれ、そんな誤解を前提にしてはいるものの、「文壇」なんてところの事情なんか全然知らない一般人としては「へー。そうなんですか」と興味深いお話を聞くことができました。
村上春樹さんがそこまで激しい非難(批判ではない)に晒されていたとは、わたしは存じませんでした。
(正直、あんまり純文学には興味ないほうですし💧)
以下に続くお話は興味深くもあり、(村上春樹さんが)お気の毒でもあります。
一般人にとっては初耳の、あるいは興味深いお話が続きますので、よろしければスレッドを開いて全文ご覧いただければと思います。
今回、ペケことエックス上で村上春樹作品に言及していた人の多くは(というかほとんどは)「ノルウェイの森」について語っていたんですね。
その作家の作品は読んでないけどこれなら読んだことある、ということだったんじゃないでしょうか。
音楽におけるヒット曲みたいなもので、多くの人が知っている曲が、けれどもその作曲なり歌唱なりをしている人の特徴と深く関係しているとは限らない。
その音楽家の魅力、妙味、特色を見るなら、そのヒット曲を入り口にしてもっと他の多くの曲に触れないとわからない。――という現象。
「ノルウェイの森」は、そのヒット曲に該当する作品なのでは、と思いました。
多くの人が知っているのはそのヒット曲だけど、コアなファンからすると、その魅力は「そこじゃない」。
ゆえに、下手にファンの方に「あのヒット曲いいですよね!」などというと、かえって苦々しい顔をされてしまい、「あれ?💧」となる。
ノルウェイの森は、作者本人が「例外」だと語るくらいですから、本来は、その作家の「代表作」ではないのですが。
でも、多くの人が知っているということで、「代表作」に「みなされる」。
これは気の毒だと思ったわけです。
さらにまた。
村上春樹さんがそこまで(思わず日本脱出するほど)苛烈な非難を浴びせられてきたというのは本当に知らなかったので。
それはまた気の毒なことだと思った次第です。
本当は。
それがたとえ嫌悪という感情であっても、そこまで多くの人を動かしたということは、一種の「感動を与えた」んですよね。
それが嫌悪であるか感動であるかは別。
ただ、それほど多くの人の心を動かしたという意味では、それもまた、「感動」させたということじゃないでしょうか。
ポジティブなことなら感動したと言われるけど、激しい嫌悪で人の心を揺さぶるのも、「感動を与えた」んだと思います。
人は、本質的には同じものでも、自分にとってのポジか、ネガかで評価を変えます。
そのポジネガ判断はある意味では非常に身勝手なものであって、本質で見るならば、そこに是非はない。
そういう見方も可能だと思います。
どうということのない作品なら、「ふーん」で終わるはず。
それが嫌悪であっても、無視できない、強く心が揺さぶられたのなら、そこには何かしら「感動」があったということ。
そう考えるなら、やはり、村上春樹作品には、人の心のドアを叩き、揺さぶる力がある。そう言えるんじゃないでしょうか。
――とはいえ。
あまりにも非道な非難を喰らうのは、やはりお気の毒としか言いようがありません。
激しく嫌悪されるなら、激しく感動した人も大勢いるはず。
自分の内側にある嫌悪感を強く引き出されたというのなら、その嫌悪の「原因」は、自分の胸の中にあるのじゃないでしょうか。
べつに引っかかるものがない人間は、そのまま通り過ぎていくのですから。
感動にも、じつはポジの姿とネガの姿がある。
感動、という「本質」は変わらないのではないか。
そのように思います。
筆で身を立てることを遠い目標にして蝸牛🐌よりもゆっくりですが、当社比で頑張っております☺️