「もしも」はない

 僕の尊敬している人に言われた言葉。人生に「もしも」は存在しないということ。すなわちこの瞬間に確定している今という絶対の連続が人生だということ。僕はこの言葉をかけられた時に、何かこう右顎めがけて強烈なアッパーをもらったような激痛を感じた。

 絵が好きだ、もしも絵画教室に通っていたら美大へ進む人生があったかもしれない。もしもあの時渋谷幕張に進学していれば東大に合格したかもしれない。もしも三菱商事の最終面接で成し遂げたいことをもっとニッチなことにしていたら内定していたかもしれない。そんなありもしない「もしも」が、本当にありもしないことだということを、再度顔面に叩きつけられて、僕は何だか立っているのがやっとの気分だった。以来、「もしも」という言葉に対して少し敏感になった気がする。

 要は収まるところに収まるということ、そこに大逆転だとか大失敗だとかいうことはほとんど起きえないこと。実際僕は塾講師として気が滅入るような悲惨な受験をいくつも見てきたし指導してきたけれど、大逆転というのは本当にない。ストーリーテリングが上手いだけで万人にとって理解し実行できる理由がそこには大抵存在しない。

 合判偏差値50で開成にいきたいっていう家庭はまぁそんなに多くはないけど居るには居る。そういうご家庭のプライドをどのように傷つけず、志望校を低きに持っていくかが進路指導力の見せ所である。しかし世の中には一歩も引かないバーサーカーみたいな親御さんもいらして、そういう子たちはあっけなく惨敗していく。

 でね、グロいのがそういう子たちに限って「本当に開成に行きたいの?」って聞くと、なんともはっきりとしない返事を返してきたりするのである。親にやらされてる中学受験、さらにそれがバグ親によってやらされてるものとなると、目も当てられない。全敗公立中進学コースが確定する(訳のわからない私立進学もある)

 さて少し話は変わるが、最近小中の頃の知り合いと再会して飲むみたいな機会が増えた。多分僕らの夏は終わるから、交尾相手を必死に探してミンミン鳴いてるセミみたいに、惹かれあっているんだろうと思う。で、中には本当に10年ぶり!みたいな、随分会うことのなかった友達づての知り合いみたいな人間もいるわけで、僕はそこである女の子に再会した。

 彼女についての記憶、それはメガネをかけた芋っぽい女の子で、給食の配膳時間にいつも漢字練習帳みたいなのを読んでいたということだけ。正直昼休みドッヂボールサッカー全振り小僧だった僕とはかなり縁遠い存在だった。

 それがなんと、ギャルになって化けて出てきたのである。開口一番「え?誰」って普通に言ってしまった。それで「〇〇だよ」とか言われて、さもその続きに「え仲よかったじゃん」という嘘でも言いたげな表情を見て、僕は咄嗟に「変わったね〜」と遮ってしまった。ガチ誰。

「いや〜高等遊民くんはなんて言うか目立ちたがりだったよね」

 酔った調子でそんなことを言ってきた彼女に「君はずいぶん芋っぽかったけどね」と言い返してやろうかと内心では憤っていたけれど、僕が目立ちたがりだったのは事実だったし、セッティングしてくれた仲介者や他のメンバーに悪いと思ったのでカウンターパンチを喰らわすのはよしといた。何せ僕は目立ちたがりが祟って平々凡々のくせに生徒会長をやったりするようなガキだったので、本当にそれは事実なんだけども。

 それで僕はさりげなく、彼女の経歴を聞いてみた。僕が彼女だったら多分耐えられないような小学校生活を送って中学受験をした先に一体なにがあったのか知りたかった。

「〇〇中に進学して高校まで行って、大学受験で医学部受けたけど落ちて、一浪で結局いま中央の通信」

 どこの中学校って言った?塾の先生してたけど聞き覚えのない名前。それで医学部行こうとして中央の通信?どういうこと?

「いやー本当だったら私いま病院研修とかしているはずなんだけどね笑笑」

 苦しすぎる。僕は一体なにを聞かされているんだろうと思った。そんな「もしも」は胸の内に秘めておけよと、そう思った。

「でも高等遊民くんは高校受験で早稲田なんでしょ〜いいなぁー私も高校受験でラッキーパンチ狙えばよかったかなぁ」

 彼女の中の僕は10年も昔のガキンチョの僕で止まっているのだから、僕の合格がそういう認識になるのも別に間違ってやいない。それに僕自身もラッキーパンチ評自体は正直その通りだと思っているから、別に何かツッコミを入れることはなかった。

「そんな言い方はないだろう」

 何か思ったのは寧ろ友人の方だったみたいで、僕のためなんかにちょっとキレてくれた。

「高等遊民は賢かったし、努力で合格したんだぞ」

 これはこれで記憶が美化されているけど、悪い気はしない。大した才能もない僕は血反吐を吐くような気持ちで努力した末にギリギリ合格したので、ラッキーパンチといえばラッキーパンチだし、そのパンチを当てるための準備も一応、してはいたから。

「でも高校受験組って正直、中学受験の残り物っていうかー、本当に賢い子はみんな中学受験をするじゃん?」

 彼女は悪びれる様子もなく持論を展開する。ごめんなさいだけど僕は小学生の時の頭の良さみたいなものを横並びで適当に測る方法なんてないと思っているから、真偽は確かめようもないし、僕が先生として見てきた子どもたちの大多数もまた凡人だった。御三家に合格するような才能ある子どもがいることは紛れもない事実だが、同じ舞台で戦っただけで人はかくも天狗になれるのかと少々呆れた。

「だから高校受験の偏差値とから全く当てにならないし、中受換算してほしいわ」

 僕は多分彼女のコンプレックスを刺激してしまったんだと思う。意図はないが動機はあった僕としても何ともバツの悪い状況だ。

「でも私、〇〇ちゃんの中学校聞いたことない〜」

 明らかな地雷を踏み抜いた女友達の一言で、彼女の顔は少し曇る。僕は塹壕の中で必死に肢体を隠す最前線の歩兵のような面持ちだった。

「まぁ、私中学受験失敗してるしね。御三家志望だったけどダメで、体調不良で受験スケジュールが崩れまくって結局滑り止めに進学することになっちゃったの。公立だけは嫌だったから」

 先ほどまで見せていた余裕が縮こまったのを感じた。今日の飲み会は同小のメンバーで彼女以外は全員公立中進学組だったから、受験組のプライドでもあったのだろう。でも鼻を明かされるというか、図星をつかれて彼女は狼狽えたのだ。目の前に座っている僕らの方が、学歴という物差しにおいては結果逆転してしまったことが受け入れられないのかもしれない。偶然その日は彼女以外みんな早慶組だったのが、彼女の自己顕示欲のやり場をなくす最悪の舞台設定だった。

「私文は〜」

もうなにを言ってたかよく覚えていない。その場に居合わせた唯一の内部進学者である、慶應女子出身の女の子と話題になったのだが、僕ら内部組は大学受験と縁がないから「私立文系」という括りの存在を薄っすら知っていても用いる機会がない。だから「私文」という言葉を口にすることもない。僕は、この言葉を軽々と使うかどうかに、外部の人間とまず一番最初に差を感じていた。それは彼女も同じだったみたいだ。そもそも東京の高校受験ってトップが私立校なので「私」という言葉に自分を卑下するようなニュアンスが含まれるということが、正直あんまり理解できないのだ。私立が劣等感のレッテルになるような価値観を持ち合わせていない。

 最後の方には彼女はスマホをいじり出してしまった。この空気感は、小学校の教室にも薄っすら漂っていたような気がして、妙な懐かしさを覚えた。
 僕の抑えきれない好奇心の餌食になってしまった彼女を憐れんだ。そして想像する。彼女の家庭もまた実力不相応の御三家熱望系家庭だったのかもしれないと。僕らが何とか親御さんのプライドを保とうと考えに考えて下方修正の努力をしたあのご家庭なんじゃないかと。そして、そんな当人には傷跡と高慢さ以外になにが残ったのか。「もしも体調不良ではなければ」「もしも御三家に進学していれば」そんなもしもは絶対に存在し得ない。

 僕らに「もしも」は存在しない。それを空想するのは個人の自由だから好きにしてくれって感じだけれど、それを表出するのは一瞬待ったをかけた方がいいと思う。僕は正直、人のもしも話を聞くのが嫌いじゃない。オチがわかるし、その人の挫折も知れるし。でも世の中「もしも」に全然優しくない。そのことに気がつかせてくれたからこそ、あの言葉は偉大なのだ。「もしも」で仕事はできない。「もしも」で飯は食えない。「もしも」は実現しない。そして「もしも」に縋りだすといつしか自分の今を生きることができなくなってしまう日が来る。ありのままの自分を受け入れること、「もしも」なんてないということは僕たちが肝に銘じておかねばならぬ不動の原理なのだ。

卓上が彼女抜きで盛り上がるこの光景を見て、「もしも」彼女がお医者さんの卵になっていたら、今頃もっと笑えていたのかなと、僕は残酷な妄想をした。


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