足利直冬紀行①~鎌倉市東勝寺跡、足利市鑁阿寺編~
神様に見捨てられたひと
神奈川県鎌倉市
東勝寺跡
2024年3月9日土曜日6時33分、東京駅発久里浜行きの横須賀線は、予定通りに地下の東京駅を出発した。
私は横須賀線グリーン車の二階席から車窓をぼんやり眺めていた。
横須賀線は新橋駅手前で地下を出て地上に出た。
日差しが明るい。
横須賀線は西大井駅、武蔵小杉駅にに停まり、横浜駅を過ぎて大船駅も過ぎると、間もなく鎌倉駅だ。
7時30分、鎌倉駅着。
鎌倉周辺の行きたい場所は複数あるが、駅を降りてすぐに散策を始めてしまうと、途中で足止めをくらうのはわかっていた。
訪問予定の寺院は、いずれも開門が9時なのだ。
これから急いで歩き回っても、寺院前の山門で待ちぼうけになるのが見えている。
駅前のマクドナルドでソーセージマフィンセットを頼んで、席でマフィンを頬張る。
隣の席に座っている二人組の中年男性はランニングの話題に花を咲かせている。
この辺りの住民なのだろう。鎌倉在住者は皆、裕福な人間だ。現代において、裕福で余裕のある人間はおおよそ自分の身体を鍛えることに落ち着くようだ。彼らの格好は一般的なトレーニングウェア姿だが、きっと私など及びもつかないほどの社会的地位があるのだろう。
7時50分を過ぎて、そろそろ出立しても良いかと思い、店内でトイレを済ませてマクドナルドを出る。
若宮大路を越えて小町大路を北上する。小町大路は住宅街だ。住居はいずれも庭は広くないものの、凝った建物になっていて結構な額の住居なのだろうと推測できる。
私には一生かけても手に入れられない住居ばかりだ。
私は、誰からも受け入れられなかった。
学校ではいじめられ、数々の恋愛は全て失恋で終わり、学業も失敗に終わった。
唯一、この世で私を受け入れてくれた女性は、自ら首を吊ってこの世を去った。その時、私の魂も完全に殺された。
私に生きる価値などないのは、小さい頃からわかっていた。その通り、他人からも受け入れてはもらえない人生だった。
それでも、妻を亡くした後、狂うこともできず祈るように仕事を続けた。祈るのは、妻の死後の安寧?自身の幸福?それらを手に入れても、ただ虚しいように思われた。
虚しいのはわかっていても、祈る代わりに仕事としてプログラムを書いた。
これは、およそ他人には出来ない成果を残した自信と自覚はある。
私の考案した変化球のような中断再会の仕組みは、日本で最も契約者の多い生保システムで採用された。
私が作ったシステムのフレームワークは、何十台ものサーバで稼働して何千万人ものユーザが使うものになった。
しかし、それでも私の価値は上がらなかった。価値があるのは、その仕事をとってきた人、会社の売上に貢献した人、それだけだった。
結局、私がやったことは、職場に困難な仕事を持ち込んで、職場を混乱させて、従業員を精神的に追いつめただけだった。
何人もの部下が、精神的な不調を訴えて会社を去っていった。
私には何の価値もなかった。私の祈りは誰にも届かなかった。これは私の主観的な悲劇的な偏見ではなく、客観的な視点でもそのように審判が下された。
私は何も残せず、何も作れずこの世を去るのだろう。
ただ、私だけが苦しみながら。
敗残
今の私は、ただそれを受け入れて生きている。
今、現代の日本で、私のように生きている人は、私以外にも少なからずいるのだろう。どんなに辛くても、自分だけがこの世の不幸の全てを背負っているなんて、思ってはいけない。
そのような人たちは、私と同じように名前もない、誰の目にも止まらない、特に取り上げる価値もない人たちだ。
そういう人たちが発する言葉や叫びは、人の心には響かない。誰も聞いてはくれない。
では、歴史上の人物に、敗残、という成果を残して名前を刻んだ人物はいなかったか。
足利直冬
この人は、それに値するのではないか。
足利直冬は、鎌倉幕府を滅ぼし天下を取って室町幕府を開いた足利尊氏の庶子であるが、終始、父の尊氏からは憎悪の感情のみを向けられ、不遇なままにこの世を去った人物である。
それでも、一時期は朝廷の大将として軍を率い、没落後も妻を娶って子孫を残したのだから、私よりははるかに幸福な人生を送ったのには違いないが、全てを求めてはいけない。
彼の軌跡を追いたい。そう、思った。
これから、足利直冬の軌跡を追ってみる。
今、向かっている東勝寺跡は、足利尊氏と新田義貞に滅ぼされた北条一派が自害した場所として歴史に名を残しているが、足利直冬が幼少期から成人まで過ごした場所でもある。
足利直冬紀行の最初の訪問地として、その場所を訪れてみたい。
小野大路を東にそれると、東勝橋という橋があった。
東勝橋を越えて、少し道を登ると東勝寺跡はすぐにあった。
鎌倉幕府滅亡時は、ここで北条家の一派870余人が自害したというが、東勝寺跡の広さをみるに800人超の人間が自害するには、狭過ぎる場所である。何日にも分けて自害したにしても、自害した遺体を片付ける人がいる。おそらく、本堂はもちろん東勝寺の敷地内でも場所が足りず、東勝寺に至る道にまで遺体が散乱している、地獄のような状況であっただろう。
まだ幼い足利直冬はおそらくその凄惨な現場を目撃し、事が落ち着いたら、他の僧たちと一緒に遺体を片付ける作業に従事したと思われる。
東勝寺は鎌倉幕府滅亡直後に焼失したが、すぐに再建されたようだ。流石に、大量の人間が自害した堂宇を清掃しただけで使うわけにもいかなかっただろうから、焼失は足利方がやったのではなく、東勝寺自ら行ったのではないか。
その後、東勝寺はすぐに再建された。足利直冬は鎌倉幕府滅亡後も十年以上の期間を東勝寺に身を置いていた。
さて、これで本日の足利直冬の伝承地の訪問は終わったわけだが、鎌倉まで訪れてこれで終わりというのも寂しいので、少し視野を広げて、鎌倉の足利氏ゆかりの地を訪ねようと思う。
足利公方旧邸跡
東勝寺跡を後にして、来た道を戻り、小町大路を北上して、道が西方向に進路を変えると金沢大路に変わる。
金沢大路に沿って西方向に歩く。
この道は、人が歩くためのものではなく、自動車を走らせるためのものであるから、歩行者にとっては狭い歩道を自動車には申し訳なさそうに遠慮して歩くしかない。
東勝寺跡から30分ほど歩いて、足利公方旧邸跡の石碑を見つけた。
その石碑は、民家の玄関先に設置されていた。
足利家は鎌倉幕府設立時より北条家の次に位置するくらいの有力御家人だったはずである。その足利家が、こんな鎌倉の街外れの山の谷間に邸宅を構えたのはなぜなのか。
今でこそ、金沢大路はその周りを住宅で囲まれているが、鎌倉時代の当時は寂しい山道だったに違いない。
鎌倉の中心地から離れた谷間に足利宅邸を構えたのは、鎌倉幕府開設当初から、足利家は隙があれば源将軍、北条執権に謀反をはたらいてでも天下を取るつもりだったのではないか。
ここに邸宅を構えていれば、いざとなれば鎌倉市街地を介さずに足利家の本家がある現在の足利市に向けて出立することができる。
実際、足利尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻して後醍醐天皇側についた際は、鎌倉に置いてきた妻子はまんまと逃げおおせて、新田義貞側についている。
足利尊氏の鎌倉幕府への謀反と室町幕府成立は、まるで気まぐれのように伝えられているが、足利家としては鎌倉幕府成立時から粛々と天下取りの下準備を進めていたように思えた。
浄妙寺
足利旧邸跡から金沢大路を少し東に戻ったところに浄妙寺はある。
ここも、足利直冬と直接の関係はないが、直冬の義父であり足利尊氏の弟である足利直義が最期を遂げたと伝承がある地であるから、訪ねておきたい。
浄妙寺の開門は午前9時であったが、私が訪れたのは8時50分。
金沢大路から浄妙寺を眺めると門は閉まったままなので、待ちぼうけを喰らうかと諦めていたが、浄妙寺に近づくと少し早いが門が開けられた。
参拝料百円を払って、浄妙寺に入る。
浄妙寺は、華やかさのない、厳かな寺であった。
庭園はきっちりと整備されているが華美なものはない。堂宇もシックで控えめ、これが武家文化、鎌倉文化なのだろう。
伝えられている直義の、実直な性格を表したような寺でもあるように思えた。
平安期の史跡を訪ねてきた私には新鮮に映る。
本堂の裏には、足利尊氏と直冬の父にあたる足利貞氏の墓がある。
仮にも幕府を開いた歴史上の大人物の父親としては、非常にこじんまりとした墓だった。日本においては、皇族以外の墓なんてものは、無名の小市民であろうが歴史上の偉人だろうが大差ないのだろうか。
墓地からさらに上に登ると、足利直義の墓もあった。
足利直義は足利直冬の伯父であり義父でもある。直義の最期は観応の擾乱で兄の足利尊氏に敗れて、鎌倉で亡くなったとされている。
一説ではこの浄妙寺で、尊氏により毒殺されて亡くなったらしい。
崖の岩肌をくり抜いたと思われる洞窟に直義の墓はできていた。怨霊となることを恐れられた人物を弔う墓の作り方なのだろうか。よくわからない。
浄妙寺としては、ここに直義の墓があることはあまり一般に知られたくないようで、Webで浄妙寺の情報を調べても、直義の墓があるとは言及されないものが多いようだ。
実際に訪れても、ガーデンテラスからさらに上へ行かないと直義の墓への案内はなかったから、うっかりしていたら見逃していたかもしれない。
報国寺
ここまできたら、報国寺も寄っておきたい。
報国寺は、足利家時が三代後の子孫が天下を取ることを願って切腹したのを弔うために建てられた寺院とされている。「逃げ上手の若君」でもそのように紹介されている。
普通に考えれば、そんな理由で自害をするのは常軌を逸している。
それほど、足利家の天下取りに対する執着は凄まじかったと言えるが、北条執権のもとで有力御家人として暮らすのは、そこまで辛かったのだろうか。
天下人ではないにせよ、有力御家人であるのだから、農民はもとより一般武士よりははるかに恵まれた生活を送れたであろうに、それでも自害をしなければならないほど強い執着と不満があったのだろう。
人間の欲求には際限がないと、あらためて怖くなる。
人一人死んで、寺を一つ建ててもらえることなど、中々あり得ない。
おそらく、足利家時よりははるかに世界に影響を与えたであろう安倍元首相だって、寺どころか暗殺現場の石碑一つ建ててはもらえない。
報国寺は私の他にも参拝客が数名いた。
私が山門を出ると、外国人観光客らしき団体がいた。
鎌倉観光のメインルートからは外れる場所だが、それなりに訪問客はいるようだ。
衣張山
衣張山の山頂からは、鎌倉市街地を眼下に富士山を眺められるようだ。
この記事の「栄え」写真のためにも、これは是非とも登っておきたい。
報告時から衣張山へ登る道もありそうだが、見つからなかったので、GoogleMap先生の道に従い、報国寺より少し東の登山口から登る。
登山口に入って早々に、倒木に道を塞がれていたが、それらを越えると普通の登山道であった。
しかし、昨日の雨で道はぬかるんでいて歩きづらい。途中から石段が組まれていたが、濡れていたので滑らないように気を使い、どうにか山頂に辿り着いた。
山頂には他の登山客もいた。
私は、靴こそトレッキングシューズを履いていたが、ウェストバッグ一つの登山者とは思えない格好であったので、他の登山者から見れば不届者のような人間に映っただろう。
衣張山の山頂は確かに良い眺めだった。
しかし、あと500mとは言わなくても、300m標高が高ければ文句のない絶景だったろうにと残念に思う。
この、「良いんだけどあともう少し」というのは、鎌倉幕府や北条執権政治そのものではなかっただろうか。
冷静に見れば十分なのだけれど、感情的に何か満ち足りないような気がする、そんな思いが人々の間に募ってしまった結果、突然の鎌倉幕府滅亡とその後のグダグダになった南北朝時代と室町幕府時代につながってしまったように思える。
そういう意味で衣張山は、鎌倉の全てを包含しているようにも思えた。
杉本寺
衣張山を北に金沢大路まで降りると、正面少し左に杉本寺の山門がある。
杉本寺は坂東三十三観音の一番に数えられる寺だ。
坂東三十三観音は花山法皇が中興の祖とする伝承もある。
花山法皇のゆかりの地を訪問する旅もしている私も訪れるべきだと思ったが、実際に花山法皇が坂東三十三観音を巡礼した可能性は極めて低く、全てを訪れるとその道のりは1,300kmにも及ぶので、とても三十三の全ての寺を巡る気にはなれない。
それでも、せっかく立ち寄ったのであるから杉本寺も参拝はしておきたい。
杉本寺は素人目にも浄妙寺や報国寺よりも古い寺だと分かるものであった。
堂宇の作りが古いし、敷地の使い方も古い。
わざと古さが目立つようにしているのかもしれない。
本堂の前には、巡礼着を着た団体がいた。いずれも私と同年代かそれより上の女性と思われた。
ガイドらしき人が「生きる喜び」について参加者に説いている。彼女らはこれから「生きる喜び」を感じつつ、坂東三十三観音の寺を巡るのだろう。
私も「生きる喜び」を追えるくらいの人生を過ごしたかったと思う。今の私には「生きる喜び」すらもったいない。
同じ時代に同じ寺を訪れても、人によってこれだけ感じ方が違うのだと愕然とさせられた。
鶴岡八幡宮
最後に鶴岡八幡宮を参拝して、鎌倉の観光を終わりにしたい。
鶴岡八幡宮は、これまで訪れた寺院より大きいのは当たり前だが、観光客の多さにも驚いた、というか呆れ返った。
参道には屋台が何軒か連なっている。
観光客の会話を聞くに、中国人観光客が多いようだが、これは日本の観光地においては今更何をか言わんやである。
鶴岡八幡宮を後にすると、私の花粉症の症状が我慢できなくなってきた。
くしゃみは止まらず、目の痒みも限界に達し、鼻水もどうにか啜って堪えている。
鎌倉駅に着くと周囲を見回したがドラッグストアは見当たらない。
地下道を通って西口に出ると、どうにか小さな薬局を見つけたので、飛び入って点眼薬と鼻炎の内服剤を買った。
薬局の店員の方には「大変そうですね」と声をかけられ、ポケットティッシュをおまけに付けてくれた。
栃木県足利市
10時38分、鎌倉駅で宇都宮行きの新宿湘南ラインの電車に乗った。
今日のうちに、鎌倉から足利氏の本拠地である栃木県足利市も訪ねようと思う。
鎌倉から足利までは、道のりで100km以上。鎌倉幕府末期というか、江戸時代までは移動手段が徒歩か馬しかなかったから、徒歩であれば5日、馬に乗っても2日はかかったであろう。
それを、現代ではわずか数時間で誰でも移動できるのであるからありがたい。
鎌倉駅で購入した鯵の押し寿司弁当の特上1,400円をグリーン車車内で広げて食べる。この押し寿司は、酢の酸味が強かった。
列車が武蔵小杉駅手前に差し掛かると、本来は最高速度に近い速さで通り抜けるところが徐行運転に切り替わった。なんでも前方を走る相鉄線の列車が遅れているらしい。さらに、恵比寿駅手前に入ると、今度は新宿駅近傍の踏切で事故があったために遅れるとのことだった。
この新宿湘南ラインという路線は、南は東海道本線に横須賀線、相鉄線、りんかい線。北は東北本線に高崎線、埼京線が山手貨物線に入り乱れる路線であるから、どれか一本でも遅れが発生すれば、他の全ての便も影響を受けて遅延が発生する。
もはや、定時運行を期待する方が馬鹿げているような路線だ。
であるから、本日のような天候の良い休日の昼間に、湘南新宿ラインで定時運行を期待するのは愚かなのかもしれないが、遅れると言われるとやはり腹が立つ。
私は小山駅で乗り換えるつもりであったが、乗り換え時間が2分しかなく、その便を逃すと1時間待ちであるから、余計に腹が立つ。
とはいえ、ここで私が何を言っても状況は変わらない。
せめて、快適なグリーン車の2階席で過ごす時間が長くなったことを喜ぶしかない。
13時10分、電車は9分遅れで小山駅に着いた。アナウンスでは7分遅れと言っていたが、それ以上に遅れていた。
私が乗りたかった両毛線の高崎行き列車は8分前に小山駅を出発しているから、次の列車は14時2分発だ。それまで、小山駅で時間を潰すしかない。
改札を出て、某コーヒーショップに入る。
以前訪れた備前高梁駅と同じ系列であるが、ここでも高梁と同じようにホットコーヒーを切らしていて10分以上待たされた。
店員は4人いてレジ待ちの行列ができているのにレジは一つしか開けないし、このコーヒーショップの店員は○○しかいないのかと思うが、たまたま私の巡り合わせが悪かっただけなのだろう。
両毛線の出発の時間が近づいたので、コーヒーショップを出て改札に入る。
小山駅の両毛線のホームは思ったより遠かった。先程乗っていた宇都宮行きの列車が時間通りに小山駅に着いたとしても、両毛線の乗り換えは無理だったかもしれない。
14時2分、高崎行きの両毛線は小山駅を出発した。
四両編成の列車は全てロングシートだった。席に座ると、正面のアジア系の女性が大声で母国語で独り言を言っていて不快だったが、彼女も栃木駅を過ぎる頃には静かに寝入った。
14時40分、足利駅に着いた。
足利学校
足利駅を出て、徒歩で10分もかからないと思われる足利学校に向かう。
道路に自動車はある程度走っているが、歩行者の姿はない。
鎌倉よりも北風が冷たく感じた。
足利学校も閑古鳥が鳴いているものかと思ったが、足利学校につくと、それなりに観光客がいた。
まずは、孔子廟に入る。
今となっては孔子と聞くと孔子学院が連想されて全く良いイメージは無いが、当時の孔子は学問の最先端だったのだろう。
孔子廟の中には、孔子像の横に小野篁像があった。
足利学校では、小野篁を創始者として奉っているようだ。この小野篁、一説には閻魔大王の補佐役をしていたとの伝承もある、奇特な人物でもある。
しかし、小野篁と上州の関連はないそうなので、実際に小野篁が足利学校を建てた可能性は低いらしい。
孔子廟を出ると、中央にある藁ぶき屋根の方丈と呼ばれる建物に向かった。
藁ぶき屋根の方丈は存在感がある。方丈の軒先では、観光客が何人かくつろいていた。方丈の中に入ると、展示物が並べられていた。
展示されている書物はほぼ漢文であったが、私には読めない。すごい価値のあるものなのだろうが、まったくわからなかった。
足利市は地元に学校を開設したりと、未来の予測眼は相当なものであったと思われる。
目的は足利氏が天下を取るためのもので間違いないのだろうが、そのために、ただ武力を蓄えたり、朝廷とのコネを作ったりするだけではなく、地元に教育機関を設けて一般人に教養をつけようとするのは、当時の常識からすれば奇想天外なものであっただろう。
やはり、足利氏というのは、尊氏の気まぐれなんてものではなく、何世代にもわたって着々と天下取りの準備を進めていたように思える。
鑁阿寺(足利旧邸跡)
足利学校と鑁阿寺の間は、観光客の通行が多いためか、観光客向けの店舗が何店舗かある。しかし、鎌倉の賑わいに比べて落ち着いていると言えば聞こえが良いが、比べてしまうと淋しい感じは拭えない。
鑁阿寺は周囲を掘りに囲まれ、通常の寺院にしては広い敷地であるのは特徴的だったが、それだけだった。敷地内には児童公園もあって、子供たちが遊んでいる。
旧邸跡は看板のみで、往時を思わせる建物やイラスト看板も無かった。
すっかり忘れそうになっていた足利直冬について少し触れると、おそらく直冬が上州の足利市周辺で暮らした可能性は低い。
足利氏の拠点であるこの鑁阿寺についても、直冬が滞在したどころか訪れた機会すらなかっただろう。
一方で、直冬の母親である越前の局と足利尊氏は一晩の関係であったというから、もしかするとその一晩は足利市であったのではないかとも思われる。
鎌倉では正室の赤橋登子の目が光っていただろうし、周囲は見知った人間ばかりで足利がトップというわけでもなかったから、勝手気ままには振舞えなかっただろう。
一方で、足利市周辺であれば、いわば里帰りのようなもので若い尊氏も自由に羽を伸ばせたのではないか。
案外、後年の尊氏の直冬に対する不可解で執拗な憎悪も、直冬のせいで足利市の実家に帰りづらくなったせいなのかもしれない。
鑁阿寺の西は雪輪町という、かつては色街であったらしい一角がある。
足利の色街が最も栄えたのは、おそらく足利が日光例幣使街道の宿場町となっていた江戸時代であっただろうと思われる。
京都から中山道経由で日光東照宮へ訪問する際、江戸をショートカットする道として日光例幣使街道があり、足利はその街道沿いの宿場町であった。
宿場町ができると色街もできるのは、当時としては普通であった。
この手の色街は一度できると、需給はなくならないし土地の利権も絡むから、20世紀までは栄枯盛衰を繰り返しながらも永く続いたケースが多い。
雪輪町の色街も、最盛期は江戸時代で、養蚕が盛んだった明治期も続き、それ以降も昭和の中頃までは色街として続いたと思われるが、足利尊氏の時代も、規模は小さくてもここに色街が存在していたのではないか。
そこでのワンナイトラブで生まれたのが直冬であった可能性も、少しはあるのではないか。
そのように無理やり直冬と結び付けて雪輪町を歩いてみるが、色街であったものを思わせる建物や店舗はほとんどなかった。
営業しているかどうかわからないスナックの看板を何件か見かけたが、あるのは健全と思われる居酒屋と飲食店が点在するばかりである。
かろうじて、すっかり色の煤けた「盛り場モデル地区」と書かれた看板と、精力増進を謳うまむし粉末の販売店が、過去にこのあたりには「そういう店」が多数あったであろう残滓を残していた。
渡良瀬橋歌碑と足利市駅
雪輪町を出てスーパーの横を抜け、JR両毛線の踏切を越えると、渡良瀬川の土手が見えた。土手の下にはわずかなスペースを利用した公園があり、土手に上がるための螺旋階段がある。
螺旋階段を登ると渡良瀬橋歌碑があった。
別に私は森高千里のファンでも何でもないが、こうして訪れた地方に聞いたことある歌の歌碑があるのはうれしい。俗な知識が空間を越えて共有されているようだ。
歌碑だけ見ていても仕方ないので、渡良瀬橋を渡ってみる。
しかし、渡良瀬橋の歩道は歌碑とは橋を挟んで反対側にあり、歩行者信号を何度もわたるのを面倒がってしまい、渡良瀬橋の下をくぐって歩道の柵を越えて歩道にたどり着いた。
渡れば何ということも無い橋である。渡良瀬橋は足利市の中心地を少し逸れた道にかかる橋であるが、おそらく東武線の足利市駅が高架化するまえは、足利市の南側に抜ける重要な橋であったのだろう。
東武線の足利市駅は線路が単線であるにもかかわらず高架化されている。
かつては、渡良瀬橋と並行して架けられている中橋が、渡良瀬川南岸の足利市駅の正面広場に通じていて、東武線の線路は渡良瀬川南岸の町を南北を分断していた。
しかし、これは昭和の時代でも不便と思われたのか、1980年には早々に足利市駅は高架化されて、中橋を渡ると東武線の線路の南側へもまっすぐ通り抜けられるようになり、足利市駅は少し東にズレた位置となった。
渡良瀬橋からその東武線足利市駅を目指して歩く。
途中に「足利スチームバスセンター」という、いかにもスーパー銭湯っぽい名前の風俗店がある。
おそらく足利市駅が高架化する前からあった店であるだろうから、東武線高架化前の足利市駅の駅前広場には面していたはずである。
駅前の華やかな広場に堂々と風俗店が軒を構えるのも、大変にけしからんことに違いないが、大らかな時代だったとも思える。
往時は、まだまだ足利市にも独立企業も多かっただろうから、東京からりょうもう号で足利まで帰ってきた地元の多くのビジネスマンたちが、ここで癒されたのかもしれない。
そんな風俗店であるから、閑古鳥が鳴いているものと思っていたら、駐車場は満杯、私が外観の写真を撮った直後に赤ら顔のおじさんが店から出てきた。
店の近くにはパトカーが止まっている。足利市内で警察が目を光らせるべき場所は、もはやここくらいなのだろう。
15時50分、東武線の足利市駅についた。
駅前には営業しているのかもわからないビジネスホテルがあるが、他に何もない。
帰りは東武線特急のりょうもう号で帰ろうと思うが、直近の便の一本後の16時37分足利市駅発のチケットを購入した。
特急の発車まで50分ちかく時間があるので、もう少し足利市内を歩くことにした。
足利市内のスーパーとコロッケ屋
足利市駅の周辺を見回しても、この中途半端な時間に営業していると思われる飲食店は見当たらない。
北口から少し離れたビルの屋上には「テレクラ」の文字の跡だけが残った看板があった。
仕方ないので、中橋を渡って足利市の中心地に戻ることにする。
「逃げ上手の若君」では、たびたび足利尊氏のうどん好きが取り上げられている。本当に尊氏がうどんを好んだかは知らないが、上州はうどんの産地である。今でもいくつかのうどんブランドがある。
せっかくなので土産にうどんを買って帰ろうと思ったが、足利市駅の周辺に観光客向けの土産物屋などない。
しかたないので、渡良瀬橋歌碑の北側、先ほど通り過ぎたフレッセイというスーパーマーケットを目指して、渡良瀬川を再度渡り足利市の中心街に戻ることにした。
そうしてたどり着いたフレッセイの駐車場は満杯であった。
足利市の中心街には潰れて廃墟になった店舗が多い中で、ここだけは客でにぎわっているようだった。
フレッセイの中でうどんコーナーを見つけると、讃岐うどんと稲庭うどんの間に挟まれて申し訳なさそうに地元ブランドのうどんが並べられていた。
その中から「館林うどん」と「上州うどん」の二品を選んだ。
また、日本酒コーナーで「赤城山」なる5合瓶の日本酒も購入した。
フレッセイを出て足利市駅に戻る途中、立派な石造りの足利商工会議所の建物の門横の窓口でコロッケを売っている店を見つけた。
本来は、守衛さんが入口に入ってくる人間を見張るためのスペースであっただろうが、今となっては屋台代わりにしか使い道が無いのだろう。
ここを徒歩で通る人間も少ないだろうから、この店も大した売上があるようには思えない。
そんなコロッケ屋でコロッケを購入する。150円。
5分待って揚げたてのコロッケが渡された。
コロッケを立ち食いするなんて、何十年ぶりだろう。旨かった。
東武特急りょうもう号
足利市駅に戻ると、意外と駅構内は乗客で賑わっていた。
私が乗ろうとしているりょうもう号の乗客が意外に多いのだろう。
16時~20時の時間帯は1時間に二本の浅草行き上りりょうもう号を走らせていて、過剰な本数のように思えたが、需要はそれなりにあるようだ。
ホームに出ると、ドア位置には10名程度の乗客が並んでいた。
この足利駅で50~60人はりょうもう号に乗車するようである。
16時37分、りょうもう34号は定刻通りに足利市駅を出発した。
このりょうもう号は古い東武200系電車を使っている。
この200系電車に乗るために、本来であれば16時5分足利市駅発のりょうもう号でも帰れたものを、わざわざ一本遅らせた。
特急りょうもう号専用の200系電車は、1990年に製造された車両だが、足回りはDRC1720系のものを流用して製造された。
私が乗った車両の車内にはられた車番は「モハ206-2」とある。
Wikipediaを調べると、「比較的」新しい1968年に製造された1720系(おそらく1762番の車両)の足回りを流用した車両であるようだ。
そんな200系の特急りょうもう号も、新しい500系リバティ車両による置き換えが進んでいる。公式の発表はないが、あと数年で200系も姿を消すはずである。
あらゆるものが古い200系特急りょうもう号であるが、乗ってみると全く古さを感じさせない、現在主流のVVVFインバーター制御の電車にはない低く重い音を立てて静かに長く加速する。線路の保線状態が良いからかもしれないが、車内に不快な振動は全く伝わってこない。
現代の電車車両にはない、重厚な乗り心地のように思えた。
乗車したりょうもう34号は、足利市駅を出ると、館林駅、羽生駅、加須駅、久喜駅とかつての準急Aと呼ばれる種別と同じようにこまめに駅に止まって、東武動物公園駅に停車した。
東武当物公園駅では6両編成のうち、ドアを二つしか開けないらしい。いまだに東武鉄道は沿線住民を信用していないのだろうか。
私は子供のころを東武線沿線で過ごした。
当時の東武線の沿線住民にとって、東武線の特急電車とは通過するを見送るだけの存在だった。
当時の東武線の優等列車は浅草駅を出ると、北千住駅すら止まらず遥か北へ向けて突っ走っていた。日光方面の特急の最初の停車駅は新栃木駅、伊勢崎方面の急行(当時は特急ではなく有料急行だった)の最初の停車駅は館林駅が普通だった。
東武鉄道は長く沿線住民を特急に乗せるつもりが無かったし、私も実際に乗る機会は無かった。
バブル景気真っ盛りの1990年、今では旧型のスペーシアがデビューして、東武線沿線でも華々しく宣伝がされたが、沿線住民にとってはそのスペーシアも、自分たちが乗る列車を待たせて通過するのだけの、ただただ傲慢で忌々しい車両に過ぎなかった。
JRとのシェア争いはとっくに決着がついていたから、停車駅を減らして速達性を宣伝する必要なんてないはずだった。おそらく、特急券を購入しないで乗車する不届き者に対処しきれなかったから、下りの特急は途中駅で乗客を拾うことをしなかったのだろう。さらに日光線は外国人観光客の利用が多かったから、田舎者で無作法な東武線沿線住民など乗せたくなかったのかもしれない。
有料特急を運行する大手私鉄で、ここまで沿線住民をないがしろにしてきた鉄道会社も、東武鉄道以外にはないのではないか。
小田急、近鉄、西武、名鉄、南海、京成。
私鉄で有料特急を走らせている会社はいくつもあるけど、例外なく全ての特急で、地元住民を全く乗せるつもりのない運行を長年続けていたのは東武鉄道くらいしか知らない。
1990年代後半になると車両は新しくなって駅改良も進み、一方で日光や鬼怒川温泉の観光地としての盛りは過ぎてしまい、さすがに東武鉄道も沿線住民を特急に乗せないのはまずいと気付いたのか、1997年に有料特急が全て北千住駅に止まるようになり、1999年になってやっと日光線特急は春日部駅、伊勢崎線特急は2003年から東武動物公園駅に止まるようになった。
それでも、今の時代になっても、春日部駅と東武当物公園駅では、特急の開けるドアを限定して、不正乗車を防ぐようにしている。
今となっては慣習的なものなのだろうけど、東武線沿線住民だった私には東武鉄道に信用されていないようで気分の悪いような悲しい気分になった。
りょうもう号は東武動物公園駅を出ると、速度を上げて関東平野で最も標高の低い平らな地域を駆け抜ける。本当かどうかわからないが、この200系電車の設計最高速度は160km/hであるらしい。
さすがにそんな速度は出さないが、それでも静かに加速して粛々と目的地を目指す。
北越谷駅を過ぎると高架複々線区間に入り、おそらく200系の営業最高速度である110km/hまで速度を上げて走り抜けた。
東京都に入り竹ノ塚駅を通過中に、りょうもう号の車内では北千住駅到着のアナウンスが始まった。
17時42分、定刻通りにりょうもう号は北千住駅に到着した。
下車して乗ってきたりょうもう号の車両を眺めると、花粉の季節だからかもしれないが、車両は酷く汚れていた。
果たしてこの車両は洗車されるのが先か、廃車になってしまうのが先かはわからないが、まだまだ走ってほしいと思えた。