見出し画像

ヴィヨンの妻にフジテレビ騒動を思う

今更、ヴィヨンの妻を書くなんてと思いながら、フジテレビ騒動の報道も減って少し落ち着いたかなとも思いつつ、この騒動の後味の悪さをずるずるとひきずっていたら、ヴィヨンの妻が気になってしまった。
それであればと、気になったこと、思いついたことを書き記しておこうかと思う。

ヴィヨンの妻はどんな話だっけ、というとあらすじや舞台設定はシンプルで、大谷という詩人の奥様であるさっちゃんの独白調の小説。太宰は女性の独白調の小説がオハコの一つで、他にも代表作として「女生徒」「斜陽」などがある。
この詩人の大谷ってのが悪いやつで、戦後まもない1947年にして夜な夜な飲み歩き、不倫は当たり前、常連の店から金を盗んでしまい、盗んだ金を返す代わりにさっちゃんが店で働くことになるが、店でさっちゃんは犯されるという内容。
あらすじだけ書くと酷いな。
大谷は学のある勘当華族という身分で、作者である太宰治と近い身分に設定している。太宰にとってこういう男は描きやすいのだろう。
太宰も家族をほっぽり出して飲み歩いて不倫もしていたようだから尚更だが、さすがに盗みまではやらなかっただろう。いや、飲み屋のツケの踏み倒しくらいはしていたのかも。

しかし、重要なのは細部で、名言とも呼べる登場人物のセリフは多い。
「女には、幸福も不幸も無いものです」
「男には、不幸だけがあるんです。いつも恐怖と、戦ってばかりいるのです」
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
こういう、およそ真実とも事実とも言い難いのだけど、妙に説得力のあるセリフがあるからこそ、ヴィヨンの妻はやはり名作なのだろうと思う。
夫婦なのに妙によそよそしくて水臭い夫婦の会話の生々しさも、この小説の魅力かもしれない。

このヴィヨンの妻とフジテレビ騒動は、レイプという背景がある点については似ているが、その扱われ方は極端に違う。この二つが同じ国の、100年も違わない時代の小説と事件なのかと思うほどだ。
時代的なものを言えば、日本は戦後の満州・朝鮮引揚時に多数の日本人女性が暴行された。その後の米進駐軍の暴行も酷かったと聞く。
ヴィヨンの妻が発表された1947年であればまだそのような時代を引きずっていただろうから、日本人の知り合い同士であれば少しは我慢しとけという時代的な空気があったのかもしれない。
翻って現代では、たった一人…なんて言い方をしたら怒られるだろうけど、一人の被害者だけで大企業であり大権力でもあるフジテレビが吹き飛ぼうとしているのだから、時代は変わるもんだとしか言いようがない。
しかし、レイプに関する扱われ方のこの振れ幅の大きさは、これがそのままレイプという犯罪についての、時代を越えた普遍的な関心の低さそのものであるようにも思える。
考えてみれば、現代だって埼玉県川口市で無名の日本人女性が外国人にレイプをされたら、果たして行政はまともに犯罪として扱うか、まともに報道がされるだろうかという矛盾を抱えている。
今回のフジテレビ騒動でも、果たして本気で被害者の人格や女性の人権に向き合えている人はいるのだろうか、便乗して騒いでいるだけではないか、という疑問はずっと残っている。

ヴィヨンの妻とフジテレビ騒動、このあまりにも違う小説と事件から、何か共通点を発見して人間の普遍性は導き出せないだろうかと思えた。
時代や価値観も、犯罪への意識も、幸福の定義も、あまりにも違うけど、時間的な差異は80年弱。世代にすれば三世代程度の違いしかない。
現代の価値観の移り変わりが早やすぎるとはいえ、我々だって祖父祖母の価値観をどこかで引きずっているはずだ。当時の記憶はなくても、受け継いでいるものはあるはず。

と思って、ヴィヨンの妻を読み直してみたが、これが難しい。
例えば、大谷の勘当華族という身分は、現在のというか00年代から視聴率が落ち始めたフジテレビ、ついでに言えば不倫がお盛んという点も重なるところはあるだろうけど、全体的に上品な振る舞いの大谷と、現代に伝えられているマスコミの不躾で素人に尊大な所業はあまり重ならない。
大谷とさっちゃんの、甘ったれた男と強かな女の夫婦像も、現代となってはむしろ希少な部類なのかもしれない。現代では甘ったれた男では、恋愛市場に敗れてしまって結婚すらおぼつかないし、不倫をすれば慰謝料をむしり取られるのが落ちだ。
知り合いとはいえ金を盗まれているのに、警察に届けるのは待ってというのを受け入れるのも現代ではコンプライアンス的にどうなのという話だし、盗んだ金の代わりにさっちゃんが働くというのも、現代では人身売買にあたると言われればそれまでだ。

そもそも、ヴィヨンの妻という小説は、罪に対する赦しが大きなテーマとしてある。
さっちゃんは大谷も通う酒場で働き始めて、酒場に来る客は皆、後ろ暗いことがある犯罪者だと気づき始める。当時は時代的に犯罪に全く抵触せずに生きることは難しかったのだろうけど、それでも罪を抱えて生きるのは辛い。
そして、さっちゃんも酔客に犯されて、夫である大谷に対する罪を負う。男尊女卑の世界で女が男に犯されたら、女は傷を負った後にも不倫や不貞という罪も負う女性にとって不条理な世界である。
赦しは、さっちゃんの最後のセリフに集約されている。
「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」
さっちゃんは、作中では基本的に無思想、下手すると無思考なのではと思われるほどのほほんとしているから、最後のこの言葉が光り輝く。
このセリフの直前に夫である大谷が喋った、酒場から金を盗んだ際の見え透いた嘘の言い訳などさっちゃんはお見通しで、それも含めて罪を赦そうという無限の慈悲のようにも解釈できるし、当時の女性はどんなにダメな夫だからといって別れてしまえば生活が苦しくなるのは女性だから、さっちゃんは自分の不貞も隠してどうにか妥協点を見つけて狡猾に生きているとも取れる。
いずれにせよ、レイプ被害を夫にも誰にも訴えるでもなく、自分の中だけに押し留めて乗り越えようとする姿は、前時代的な悪習と言われればそれまでだが、私が前の記事で書いたリンドバーグ的な女の強さに通づるものがあるし、さっちゃんが見た誰もが持っている後ろ暗さとは、自分の中に押し留めた罪や悲しさなのかもしれない。

ともあれ、生きていさえすればいいというのは、その言葉を受け取った側は罪に対する大きな赦しになるのは間違いない。しかしこれは、およそフジテレビ騒動が起きた現代とは相反する価値観であるように思える。
今回の騒動の加害者側とされる中居正広もフジテレビも、かろうじて生かされているのは、ただただ攻撃する側の人間が犯罪者にならないためであって、この箍が外れてしまえば、あっという間に彼らは抹殺されているだろう。

現代の特に21世紀に入ってからの日本では、そもそも罪を犯すこと自体が難しくなった。
大抵の人は明らかな犯罪を犯さずとも生存できるくらいには豊かになったし、犯罪と言わずとも他人を傷つけるような言動はハラスメントとして言語化されて分析され、それを防ぐ手段が社会全体でも組織でも何重にも張り巡らされるようになった。
多くの人は傷つけられる機会が圧倒的に少なくなったし、何か罪を犯して後ろ暗い思いを抱えて暮らす必要は無くなった。

これは純粋に素晴らしいことだと思うし、それだけ日本は進歩して発展したのだなと思う。
一方で、今回のフジテレビ騒動を見ていてもわかる事だが、赦し合おうという概念や価値観を失ったことも事実なのだろう。
多くの人は罪を犯さなくて良くなり、傷つく人も圧倒的に少なくなった代わりに、罪を犯す人、誰かを傷つける人に対して、極端に厳しくなったのは間違いない。
これは言い換えれば、他人を傷つけるコストが高くなったから、自分が傷つけられるリスクが低くなったとも言える。

私たちは皆罪人(つみびと)という思想のキリスト教が日本に根付かなかったように、日本には赦しが必要な罪人と、それが不要な一般人には明確な境界があるという考え方が古くからあり、その民族的思想もこの流れを助長したのかもしれない。

実は私も、以下のYouTubeの動画で現代の価値観にはそぐわないコメントを残したら、長文の正論パンチを何発か頂いた。
下記のリンクはコメントについているはずなのだが、どうも動画先頭で止まってしまうようなので、@ikirasi0203というアカウント名のコメントを探してみてほしい。

このコメントを書いた当時の私の精神状態は、あまり良くはなかった。
返信の正論パンチは、おそらく現代の価値観そのものであるし、多くの現代人は私のコメントには嫌悪感を示し、返信の正論パンチのコメントに同調するのだろうというのは私にだってわかる。
しかし、この価値観はヴィヨンの妻さっちゃんの決め台詞「私たちは、生きていさえすればいいのよ」の思想とは全く相反するものだ。
現代では生きているだけではダメで、正しい生き方をしていないと糾弾され、しまいには排除される世の中なのだ。

だから、現代はくそったれでヴィヨンの妻の世界は素晴らしいなんて主張するつもりはない。
先にも書いた通り、おそらくヴィヨンの妻の時代より現代の方がはるかに素晴らしいのだろう。
私のような者は、本音の本音は隠して生きなければならないし、それが時代と言われればそれまでなのだろうと思う。

今回のフジテレビ騒動では世間の非難を浴びる者、職を失う者がすでに出ているし、これからもっと出るのだろうが、この素晴らしい世界を守るための犠牲として残りの人生を生きるのだろう。
このような書き方をすると、どうにも加害者擁護の様でもあるが、どんな社会でも傷つく人がいて声を押し殺して生きなければならない人がいるとすれば、因果応報という言葉がこの社会の正当性を担保するはずだ。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集