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自殺未遂経験者かつ自殺遺族が読む「透明を満たす 著:渡邊渚」 ※2/6追記

2025年1月の日本でおそらく一番話題性のある人物が著者の本になるであろう「透明を満たす」(著:渡邊渚)を私がAmazonの事前予約をしてまで買ったのは、別にグラビアに興味があったからでもなく、例のスキャンダルについて新しい情報があるかもという下品な好奇心からでもなく、これは本書を読まないとわからないのだがかなり生死ギリギリまでメンタルヘルスを病んだ著者の経験を知りたいからでもなく、ただただ「何となく」というだけのものであった。
それでも無理やり理由をあげれば、事情があってクレカ番号を変えた直後で、新しいクレカ番号が有効になっているかを試すためにAmazonで何か買おうとしたら、ちょうど目に入っただけというものであった。

何となく買ってみただけで、これも何となくで実際に読んでみたら、かなり重い内容だった。
著者は元々、作家志望というわけでもなかったろうに、文章は大変上手いと思う。
それでも内容がとても重いので、メンタルヘルスについて身近な経験がないような、普通の人には読み切れないかもしれない。
読んで、それで終わり、としようと思ったが、やはり感想を書いといた方がいいかなと思った。ちなみに読んだ後の心の整理ができていないまま書くので、メチャクチャを書くかもしれない。
そして、この本の感想を書くには、自分も自殺未遂の経験者であることと、自殺遺族であることを明らかにしておかないと、この本に向き合ったように思えないので、このような記事のタイトルになってしまった。

さて、この本の何を書こうか。

グラビア?
うん、いかにも好感度の高そうなたぬき顔の女の子(といっても、もう27歳だけど)の写真があるよ。水着はないけど胸の谷間や太ももが露出した写真はあるよ。以上。
率直にいえば、性的なグラビア写真単体で見ると、あまり価値がないように思う。
この写真は、この本に書いた女性がどのような表情をして、どのような姿であるかという目で見て、初めて意味が出るものだと思った方が良い。
回りくどく書いたが、ストレートに書けば、こんなに酷い状態になっても、少なくとも外見だけはここまで元気そうに見えるまで回復するんだよ、と。
さらには、エッセイにはメンタルヘルス的にハードな描写があるので、読者が現実感を持てない部分を補う効果もあるだろう。

では、そのエッセイ部分はどうだろう。

本書は二章構成になっていて、一章は「これまで」と題され、著書の幼少期からの生い立ちと、フジテレビ入社後、事件後から直近の現在までの闘病生活の様子が書かれている。
二章は「今と、これから」となり、具体的な事象よりも心情面の描写がされている。
少し嫌味なわかりやすい表現をすれば、一章は取材記事、二章はコタツ記事である。
ここで何で嫌味を言いたくなったかというと、このエッセイ。作家でもない著者の処女作としては大変に文章が上手いからである。自分の娘ほどの歳の小娘が、こんないい文章を書きやがって、ムキー、という感想も少しだけだがある。そのくらい上手い。
そして、程よい配分で著者の本音が書かれている。
このバランス感覚が良い。
商業出版をするのだから、内容が破綻するほど心情の黒い部分を率直に書いてしまうわけにはいかないし、かといって綺麗事ばかり書いてもありきたりになって面白くなくなる。
この辺りは、著者自身もそうだけど編集者もかなり優秀だったんじゃないかな、と思ってしまう。

この本の感想でありがちな、「渚ちゃん大変だったねー」とか「渚ちゃんがんばってー」みたいな、モテない男が自分より二回りも下の小娘に鼻を伸ばすような心境には、私個人的にはならなかった。
この本を真面目に読めばわかるが、そんな気持ちにさせる本では決してない。
あと、「彼女は強い」という持ち上げ方も、間違ってはいないけど著者に向けての言葉としては適切ではないように思える。これは難しいし、この記事で書ききれそうにないので、ふれないでおく。

では、実際の中身を見ながら感想を書いてみたい。

まずは著者の幼少期から就職までの学業期間が語られる。
幼少期に何に関心を持って、小学校と中学校の環境とかを感想まじりに語っている。内容は普通だなと思うが、普通のことをこれだけ語れるんだから大したものだと思う。
著者は慶應女子高校から慶應大学に進学している超エリートなはずだが、あまり勉強を頑張ったとかは書いていない。書いていないだけで猛勉強はしたのだろうけど、普通にしていれば勉強ができてしまう秀才タイプなんだろうなと思われる。
そして、コロナ禍の特殊な情勢の中でフジテレビにアナウンサーとして就職して、仕事一筋の生活だったと語られる。
つまり、例の事件があるまでは、著者は勉強は優秀だったけどあとは感性も精神も環境も普通の女性であったと描いている。
そういう意味では、本書が実際にメンタルヘルスに悩んでいる多くの人にとって、救いの書になるかは怪しい。
メンタルヘルスを病む人は、大抵の場合は幼少期や成長期の環境、あるいは生まれ持った性質に何かしらの問題を抱えていることが多い。そのような人たちから見ると、本書に書かれている著者は共感を得にくいかもしれない。

就職後はアナウンサーという仕事を勤めて、例の事件が発生するのだが、著者は事件前にすでに多忙な仕事で体調を崩していたようで、アナウンサーという仕事の重圧に押しつぶされそうであった苦しい当時の心情を書いている。
これも、フジテレビが悪いというより、クソ真面目なエリートが就職して3〜5年目ってそんなもんだろと思う。

そして、事件が発生する。
この日を本書では「心が殺された日」と題している。
当たり前だが、事件の経緯や具体的な内容については、全く書かれていない。
この辺りはあまり報道もされていなかったが、著者は事件直後は普通に仕事をこなしていたが、徐々に体調を崩して入院という流れになった。
体調の不良でメンタル関連の病院も当初は自分で探してようで、あまり職場であるフジテレビのサポートは得られなかったようだ。
あるいは、フジテレビ関連の人物の描写を本書では意図的に避けたのかもしれない。
「心が殺された日」の次は「透明人間」と題された、入院直後の心情を記した節になる。
おそらく本書の「透明を満たす」の透明とは、このどん底の時期を「透明」と表現して、そこからの回復を「満たす」としたのだろうと最後まで本書を読むと、実際にそのような解説で本書を結んでいた。
「透明人間」の最後の段落は「誰かの悪意と悪巧みのせいで病気になって、すべてがなくなっていく」と書かれている。もう、憶測だ何だと書くのは面倒なのでぶっちゃけて書くが、「悪意」は当然中居正広のことだろうが、それと並べて書かれている「悪巧み」とはフジテレビ中嶋氏と思われる。
やはり直接の加害者ではない関連人物である、いわゆるフジテレビ中嶋氏こと「A氏」への著者の恨みは相当なものなのだと、このようなわずかな表現から推察されるし、おそらく読者にもそれが伝わるように意図的に書いている。

ここから著者の病状は、自傷行為をしてPTSDと診断されるまで悪化の一途を辿るのだが、本書に書かれている著者が感じた仕事や金銭面での不安な心情や、自傷行為の際には冷静に自分の心情を観察している描写は、メンタルヘルスを患っている人たちの多くは共感できるのではないかと思う。
案外、人は自ら死に向かうとき、苦しみにのたうち回るでもなく、狂気で見境がなくなっているでもなく、せいぜい腹が減って飯を食うかくらいの感覚で、体から出る自然の欲求に任せて死へ向かおうとする。
あと、女子アナといってもそんなに給料をもらっているわけでもないのね、と下世話なこともわかった。

そして、ここまで読めば当たり前だが、一部の噂で著者が被害にあったとされる「性トラブル」について、著者がその被害者であり本書の「心が殺された日」に相当する出来事なのであれば、その性加害の内容は卑猥な言葉を投げられたとか、軽いボディータッチやキス程度の軽いものではなかっただろう、というのはわかる。
やはりどこまで行っても憶測ではあるが、重い犯罪性のある内容であっただろうと推測してしまうし、著者もその推測を読者にさせないようにするつもりはないようだ。
さらに言えば、二章には「PTSDにした人たちのせいで退職にまで追い込まれたら、暴力に屈して負けるような気がした」とはっきり書いてあるのだから、今回のフジテレビ騒動と著者の渡邊渚が関係ないのだとすれば、フジテレビは仕事がらみでここまで心身の不調を負った渡邊渚に、何かしらのきちんとしたケアをしていたのか?そもそもこの暴力って何か?とか、別のフジテレビのスキャンダルになるはずだ。
加えて今回の騒動は、ほぼ中居正広とフジテレビの自爆で自ら窮地に陥ってしまったが、仮に彼らが週刊誌報道やSNSでの噂や非難をうまくやり過ごせたとしても、この本の出版をもってやはり今と同じような窮地に立たされただろう。

PTSDの診断をされ食事も取れなくなった著者の、以下の友人とのエピソードは、私にとってはひどく胸が痛くなった。

そんな時に「ご飯食べてる?」と友人に聞かれた。その人は体調を気にして聞いてくれたのにイライラして「食べられてたら入院してない」と八つ当たりしてしまった。そして、今の思い、ご飯の時間が一番嫌いで小さい目標も越えられない自分が全部嫌だと素直に伝えてみた。これが母だったら絶対に「何のために入院してると思ってるの!食べなさい!」と怒っただろうが、友人は「そんな日もあるよ」と受け止めてくれた。また、「できない日もあるしゆっくりでもいいんだよ」と言ってくれた。私は自分の本性を見た気がして、ますます自己嫌悪に陥り、すぐに謝った。すると「謝んないで!むしろ当たってくれてありがとう」と返ってきた。「ん?何のありがとう?」とちょっと疑問に思ったが、私の不満や不安に付き合ってゆっくり立ち上がらせてくれて、また一歩進む勇気をもらった。

私は妻を自殺で亡くしている。
妻の最期は、自殺未遂をして著者と同じように精神病棟に入ったが、そこでの生活にも馴染めず病院内でも自殺未遂をしてしまい、本人も病院を出たいというので、どうしようもなく退院させた。退院した一週間後に自宅で首を吊った。
妻が自殺するまでの3年間くらいの期間をうつ病と闘っていたが、私はこの友人のように優しく妻に接することができただろうかと思うと、明らかにできなかったな、ダメな夫だったなとしか言いようがない。
私ではなくて、仮に妻がもっと別のいい人と結婚していれば、今も生きていただろうなとも思う。

それでも、本書を読んだ人が本書内にある著者が助けられた言葉ややり取りを覚えていて、いつか病んだ人と正面から対峙した時に同じように接することができれば、確かに助かる命もあるだろうな、とも思う。

あと、本書内ではとにかくひどい書かれようの著者の母だが、よもや社会に出てボロボロにされた成人した娘に、こんな言葉をかける母はいないだろうとも思う。
おそらく著者の母についての記憶は学生時代でストップしていたのだろうか。
成人して自立した娘に親は、デリカシーはなくても、もう少し優しい言葉もかけてくれるよと言いたい気がするし、一方でこの著者は敵味方でかなり他人をフィルターにかけてしまう人だなというのもわかる。
ひょっとするとこの人、一時的なものかもしれないが、どんなに近くても友人程度に距離を置いた人間としかうまく付き合えない危うさがあるのかもしれない。
別の言い方をすれば、他人の悪い面が見えたらそれで切り捨ててしまう面があるかもしれないということだが、こう書いてみると、やはり著者はまだまだ精神的余裕がないのだろう。

その後、著者は自宅で療養と闘病をして、五輪が開催されるパリに旅行するまでが一章「これまで」となる。

ここまでの回復の経緯を総括すると、著者が精神的に最も苦しい時期から抜け出せたのは、医師や友人や妹といった周囲の人たちが優しかったからで、なおかつこちらの方が重要だが、彼ら彼女らはその優しさを言語化できる知性を持っていたからなのだろう。
それに加えて、本書では語られていないが、著者を陥れて追い込んだ明らかな悪の敵が存在したことも、自責の念から逃れられたとすれば治療の助けになっただろうし、恋人のような著者が依存できる存在が事件時にいなかったことも、回復が順調であった一因にあるように思えた。

二章の「今と、これから」は、読んでみたがあまり消化できていない。
著者が救われた言葉、医療、著者が考える生き方、救われ方が書いてある。
SNSについてなどの若干の本音を入れてバランスを取っているとはいえ、綺麗事と言ってしまえばそれだけの内容かもしれないし、それでも著者が純粋に読者に訴えたいことだろうし、嘘偽りない本音の一部を言語化したものなのは間違いないだろう。
それでも、あまりメンタルヘルスの実態がわからない読者が、この章を読んで、メンタルヘルスなんてこんなもんか、この程度が理解できればいいのか、と思ってしまう危うさも感じる。
私から言わせれば、こんな甘いもんじゃねーよと言いたくなる。
これは、おそらく著者の黒い面が赤裸々に書かれてはいないからなんだろうというのがあるし、商業出版をする都合上、どうしたって綺麗にまとめなければならないからだろう。

この記事は発売日の速報的に書いているので、この辺でやめておこうと思う。
感想文としてもっと書けることはあるような気もするが、これ以上は無理やり絞り出すような内容になりそうだし、それを書くことにあまり意味も無いように思える。
批判的なことも含めて色々書いたが、全体的には著者の知性と綺麗な部分の心情がわかる良い本だと思うし、自分自身でも家族でもメンタルヘルスに悩む人は手にとって読んでみた方が良い本だとも思う。

【2025年2月6日 追記】
この記事は、話題の書籍の発売日当日の感想記事であり、おそらく題名が過激だったこともあり、公開後数日で私の記事としては異例の10,000ビューを超えるビュー数となりました。
ちなみに、普段の私の記事は100〜300ビュー程度、たまにまぐれで1,000ビューを超える程度のものです。
ご閲覧いただいた多数の方々には、お礼を申し上げたいと思います。

一方で記事の内容は非常に歯切れの悪いものとなったので、公開当時は書ききれなかったことを追記します。

この記事を執筆当初に書ききれなかったこととして、著者の心理的な最も重大な課題に、過剰な他責的攻撃性と道徳的人格を保とうとする理性の葛藤があると、この著書を読んだ私の感想にありました。
この点を、この記事を書いた当初は文章にしづらく、かと言って微妙な仄めかした表現だけを入れてしまい、書いている私としても後味の悪い記事になったので、改めて書き残したことを追記という形で記述します。

著者は被害者X子という人格で中居正広やフジテレビの中嶋優一氏、あるいはフジテレビという巨大組織を多数の支持を集めながら攻撃する一方で、渡邊渚という人格ではこの著書や他の活動で極めて善良で可愛らしい元アナウンサーのタレントとして活動しています。

この他責的攻撃性については被害者X子としてだけではなく、渡邊渚として著書の出版においても、事前の宣伝時はエッセイの重い内容にはほとんど触れずに、むしろ著者のグラビア写真など性的魅力だけをアピールして、読者にエッセイの内容で「騙し討ち」をするという点でも著者の攻撃性の一端が見えています
中居正広や中嶋優一という個人だけではなく、著者は男性の性欲そのものにも嫌悪と復讐心を抱いているのかもしれません。
通常であれば、このエッセイの内容であれば宣伝時にもっと深刻な内容であることもアピールするはずです。

今はこの著者の二面性が極めて際どいバランスで成立をしていて、ギリギリの状態で著者の精神を保てているように著書と週刊誌報道から私には見えました。
とはいえ、被害者X子というのは一時的な社会の潮流によってのみ存在が許された人格でしかなく、いずれは渡邊渚という人格一つで元々内包する他責的攻撃性を抱えていかなければならず、その時に著者の本当の危機が訪れるように思えます。
この内に秘めた二つの矛盾する衝動を一つの人格で抱えて言動を統合しようとするときに著者は真の意味で苦しむはずで、それを克服せずともどうにか暮らしていけるレベルで苦痛の妥協点を見つけられた時こそが、著者が心理的危機を本当に乗り越えられたことになると思われます。
ですから、現時点で著者を強い人だと褒めそやすのは避けておきたい。

なぜこのような考察というか憶測をしたのかというと、私の亡妻も著者ほどではないけど学校の勉強ができて優等生として成人まで暮らしていて、それが環境の変化でこの「他責的攻撃性と道徳的人格」のバランスが崩れて深刻なメンタルヘルスを病んでしまい、最終的には自殺にまで至ったからにあります。
当然、その過程において最も近くにいて助けるべきであった私の力が至らなかったのは重々承知をしております。

誠に差し出がましいかもしれませんが、どうか著者においては現在の騒動が収束後も心やすらかに暮らせるように祈っていることを記して、それに私の過去の懺悔を添えてこの記事の最後としたいと思います。

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