花山法皇ゆかりの地をゆく③〜元慶寺、比叡山延暦寺、書写山圓教寺編〜
旅と称して花山法皇のゆかりの地をストーカーのように追っていて、その旅行記を二度、note記事に書いて公開してきた。振り返ると、これまでの旅は行先の決め方を、あまりにも思い付きの気が向くままの行き当たりばったりであったと自省するようになった。
誰に批判される謂れのない、きわめて個人的な旅行なのだから、自分の思うように好きな時に好きな場所へ行けばよいのだが、歴史上の場所を尋ねる際には、事前に歴史を十分に調べて時系列に沿って訪れないと、現場を見ても大事な点を見落としてしてしまい、的外れな考察をしてしまう可能性があるように思えた。
とくに下にそのリンクに示した前回の旅行記では、いつどこへ行った、昔こういう事件があったと、事実だけを淡々と書き連ねた記事を書けばよかったものを、つい筆が滑って末尾に素人の珍妙な歴史考察を書いてしまった。ズブのド素人であっても、実在の人間が生きた歴史の考察を書いて公開するからには、結論が的外れで間違うのは仕方ないとしても、考察の過程においては歴史に対して真摯に向き合うべきだと思うのだ。
そのようなわけで、花山法皇という歴史上の人物を追うには、まずは彼の歴史的な原点に立ち返るべきだと、思いを新たにした。花山法皇においては寛和の変という謀略事件によって、数奇な運命を辿ることになった。したがって、今回の旅にあたっては、寛和の変を花山法皇の原点としてその歴史をきちんと調べ、関連する場所を訪れる旅をするべきとした。
ということで、まずは改めて寛和の変についてを調べ直した。
曰く、寛和の変に関連する事件については、おそらく旧暦の日付が正確に記されていて、以下の様な事件が寛和の変とその後にあったことが史実として伝えられている。
寛和二年(西暦986年)
6月22日 花山天皇 元慶寺にて出家(寛和の変)
7月21日 宗子内親王(花山法皇の実姉) 死去
7月22日 花山法皇 書写山に出発
一条天皇 即位礼
7月27日 花山法皇 書写山の麓に到着
7月28日 花山法皇 性空上人と会合
7月29日 花山法皇 書写山から船で帰京
9月16日 花山法皇 比叡山延暦寺にて受戒
寛和の変の概要を改めて記すと、当時、右大臣であった藤原兼家が孫の懐仁親王を天皇とするために、息子の道隆、道兼、道長を使って、当時の天皇であった花山天皇を騙して退位、出家させてしまった事件だ。
騙されて出家したと言っても、要は寺に連れて行かれて頭の毛を剃られただけなのだから、現代の感覚では、「いや〜、昨日は騙されちゃったよ〜」と、ツルツルになった頭をカキカキ、戯けてみせて、何食わぬ顔で天皇を続けても良さそうだが、そうは行かないのが古代・中世の世界なのだろう。つまり、中世のヨーロッパでも同様だが、軍事や治安や文化技術を統べる朝廷政府と、同等かそれ以上の権力を宗教が持っているのだ。それだけ、民衆の信仰心が強かったということなのだろう。今でも宗教法人の優遇が取り沙汰されて議論の的になるが、それとは比べものにならないくらい、当時の宗教の権力と影響力が強かったのだ。
この事件によって、懐仁親王が一条天皇として即位し、天皇の外祖父となった兼家は見事に摂政の座を勝ち取った。即位時の一条天皇はわずか七歳であるから、即位当時の一条天皇を補佐する役職の摂政は、ほぼ天皇と同等の権力を手に入れたようなものだろう。おまけに、兼家は仲の悪い兄の兼道が全盛であった時期に右大臣の職を奪われる降格人事を受けており、出世争いにおいて辛酸をなめているから、念願の摂政の就任した際は格別の思いであっただろう。これで兼家は貴族社会の頂点に登り詰めたと同時に、藤原義懐といったライバルの失脚にも成功し、貴族間の権力の均衡がなくなったおかげで、兼家が朝廷の権力をほぼ独占した。この兼家の摂政就任から息子の道長の現役時代が、摂関政治の最盛期であった。
藤原道長と言えば、自信過剰、傲慢、怖いもの知らずの性格を浮き彫りにしたようなエピソードが残されている。その中でも、道長の三女である威子が中宮となって自身の権力を盤石とした晩の祝宴で詠まれた、摂関政治の象徴でもある例の和歌が有名だ。
日本史や古典が大嫌いだった私でも、さすがに藤原道長の「この世をば~」の和歌は覚えていて、当時の権力者はずいぶんと傲慢なものだと思ったし、時の権力者がこのありさまでは、平安時代とはひどい時代だなと偏見を持ったものだった。
ともあれ、この寛和の変によって本格的に藤原家の摂関政治時代に切り替わり、藤原道長の全盛時代にもつながった、古代末期の権力史における重要なターニングポイントと言えるだろう。
また、花山天皇個人にとっても、この事件をきっかけに天皇という立場から出家して僧侶になったわけだから、人生の上で大きなターニングポイントとなった重要な事件であった。
花山法皇は寛和の変の一か月後、一条天皇の即位式の当日でもあった7月22日に、十名程の従者を連れて京から姫路の書写山へ向かった。目的は書写山に住む性空上人との会合であった。出発前日に宗子内親王を亡くしているが、それが花山法皇の書写山行きと関連があるのかはわからなかった。京から6日もかけて書写山に着いたが、性空上人との会合は一泊二日で終えて、会合翌日には船で京へ帰ってしまった。
今回は、寛和の変とその後の花山天皇の足取りを追うために、寛和の変の舞台となった平安京内裏跡から元慶寺の道程と、比叡山延暦寺、書写山を目的地として、例によって新幹線とホテルの予約を取り、12月9日(土)と12月10日(日)の二日間で訪れることにした。
新幹線で京都へ
2023年12月9日(土) 6時24分、時間通りにのぞみ285号は東京駅を出発した。今回はグリーン車を使った。贅沢ではあるが、今回はネット予約で指定席の1500円プラスでグリーン席が買えたので、つい買ってしまった。移動という成果に対する違いはないグリーン車に、1500円プラスの料金を払うのが高いか安いかは議論のあるところだが、旅を計画・準備をしているときというのは大抵舞い上がっているものだから、予約をした時の私は「グリーン車やすぇー、とったれ」と思ったのだ。今回の新幹線は、私が乗ったグリーン車8号車に限ってだがガラガラで、乗車率は20%程度といったところ。前回2回の新幹線がいずれも朝早い便であるにもかかわらず満席状態であったから、肩透かしを受けたような気分になる。12月に入って、週末に旅行なんて手合いは少ないということだろうか。新横浜を出発して、新幹線が本気の走りを見せだしたのを確認して、東京駅で購入した駅弁を食べる。本日は昼食をとる時間がなくなる可能性が高いので、普段は食べない朝食を食べておくことにする。駅弁を食べ終わると、音楽を聴いたりして無為に新幹線内の時間を過ごした。
8時32分、新幹線は予定通り京都駅に到着した。京都駅からは地下鉄で京都御苑を目指すつもりだが、京都の地下鉄に乗るのは初めてだった。幸い、京都駅に乗り入れている地下鉄線は一本しかなく、駅の標識に従って簡単に地下鉄駅にたどり着けた。
8時51分、丸本町駅着。この地下鉄駅を出ると目の前が京都御苑であるが、この中にある御所の内裏は、今回の目的地ではない。しかし、まずは京都御苑に入り、花山法皇が出家後の京の自宅としていた花山院邸跡を訪ねる。丸本町駅から最も近い間之町口から入ると花山院邸跡の石碑はすぐに見つかった。花山院邸跡全体が神社として残されているようで、その神社内に花山院邸宅跡の石碑と、花山稲荷なるものがあった。この神社丸ごとが出家後の花山法皇の京都での邸宅であったとすると、花山法皇は出家後もやはり良い暮らしをしていたな、と思う。神社自体はこじんまりとした、大して見るべきものもないようなものであったが、12月だというのに暖かいせいか、紅葉が赤く色づいていて美しかった。自分の家ではなくても、こういう景色を自由に見れるというのは素晴らしいのだと思う。花山院邸跡を後にすると京都御苑も一度出て、平安京内裏跡を目指す。平安京内裏跡は京都御苑より西に1kmほど行ったところの新出水通近辺らしく、看板が何件かあるらしい。
実際に付近まで訪れてみると、油店という古い商店と屋敷が併設された珍妙な店が目に入る。創業二百年の老舗で、食用油を専門に扱っていることだが、油専門店というのは現代の感覚ではずいぶんと尖った商売だ。内裏跡については、その山中油店よりさらにもう一区画北に進んだ通りにあった。看板以外はいたって普通の京都の古い住宅街。特に内裏を思われる建物などないから、適当な場所から、寛和の変をなぞる意味で、およそ10時頃に元慶寺を目指して歩き始めた。
平安京内裏跡から元慶寺を目指す
今回、内裏跡から元慶寺までは、全て徒歩で移動した。少しでも、寛和の変の主人公である、花山天皇と藤原道兼の当時の心情に近づきたい、現代風に言い換えれば「ライブ感を感じたい」からだ。
内裏を出ると、寛和の変である花山院の出家では、安倍晴明宅の前を花山天皇と藤原道兼は歩いたと記している。安倍晴明は自宅内にいたのに、花山天皇と道隆の晴明宅を歩いただけで、天皇の危機を感じたそうだが、現代の感覚ではどうにも嘘臭い。しかし、例えばいまだに清盛の首塚は東京都心のど真ん中で開発もされずに保存されているし、数年前には国会前で数人の僧侶に呪殺祈祷をされていた政治家が暗殺された。千年前当時の信仰心やスピリチュアルも、バカにできないものがある。
現在も安倍晴明宅跡を示す石碑があるらしく、GoogleMapにも表示されているのでそれを目指したが、石碑は見つからなかった。もしかすると民家の敷地内にあるのかもしれないが、そこまでする気はない。代わりに、京都ブライトンホテルという、宗教施設のような不思議な形をしたホテルがあった。おそらく、安倍晴明の法力で、そのようなホテルが未来のこの世に建ったのだろうと、ひとり納得する。
今度は、鴨川を目指すために蛤御門から京都御苑に入ると、京都御所がすぐ目の前に鎮座していた。思った以上に京都御所の塀と、塀の上からわずかに見える建物の屋根は巨大で圧倒される。今の京都御所ができたのは1331年とのことだから、すでに世の中は武家の時代になっていただろうに、それでも天皇のためにこれだけ巨大な建築物を作り、今まで維持しているのだから、日本という国は大したものだ。御所内の参観もできるようだが、今日の目的ではないので通過して京都御苑を二度あとにして、鴨川を目指した。
鴨川沿いを歩きながら、花山天皇と藤原道兼が、当時どのような会話を交わしたのだろうかと、想像を巡らせる。私は、とにかく酷い弱虫、臆病、甲斐性なし、無才の者であるから、見知らぬ土地を巡ったり歴史を辿ろうとすると、勝者より敗者、偉人より愚者、天国より地獄に目が行く。今私が追っている寛和の変は、花山天皇が陥れられて敗れ、藤原兼家の親子が謀略に成功して勝ったわけだが、兼家親子の中でも花山天皇を内裏から元慶寺まで連れ出すという、最も重要な役割を担ったはずの藤原道兼は、黒幕の藤原兼家からその功績に見合う恩賞を与えられなかった。それにより道兼は、兼家の死後に関白になれないとなるとヘソを曲げて喪に服さなかったり、生前の道隆を大層憎んだりしたようだ。そんな道兼も、最後は道隆の死後に頂点の関白まで上り詰めるが、それも「七日関白」と揶揄されるように、わずか十日程度で死去により終わってしまった。そうなると、俄然、騙された花山天皇より、父の命令に従ってリスクを冒して裏切り騙しても報われず、後世にあまり良い評判も残せなかった藤原道兼の方が気になる。彼はどんな心境で花山天皇を元慶寺までお連れしたのだろうか。
思えば私は、眼前の重要かつ大切な人の心情すら推し量れず、学業、仕事、家庭の全てにおいて失敗した敗残の男である。他人に誇れるのは、せいぜい他人よりは苦労した、という程度のものだ。そんな私が、千年前の、身分も全く違う人達の心情の、一体、何が解るというのか。
そのように思うと、なにか考えを色々と巡らせるのもアホらしくなって、無心で元慶寺まで歩くようにつとめることにした。
12時ちょうど、元慶寺の隣にある華山寺に着いた。その華山寺は妙に子供の声でにぎやかなようで、何かと境内に入れば、華山マルシェなる移動販売車や屋台を境内に入れて、バザーのようなものが催されていた。このような、観光客など訪れようもない、いかにも地元の寺院が、法事の類でもなく地元の人たちでにぎわっている姿を見るのは、なんだか嬉しくなる。ちょうど昼時だが、すでに予定の時間を過ぎているので、すぐに買えて食べる時間もかからなそうな、クレープを買い食いして昼食とした。
元慶寺
元慶寺は華山寺のすぐ裏手にあるはずだが、崋山寺を出て裏手に回ってみても小さい民家ばかりで寺のようなものが無い。奥まで進むと段ボールのようなものに手書きでぶっきらぼうに「寺」と書かれた看板があったので、その看板の矢印に従い、未舗装の小道に入ると元慶寺が見つかった。門が二階建て構造になっていて、二階部分では寺の住職と思われる方が掃除をしている。
境内は先ほどの崋山寺とは違って、参拝客も少なく静かであった。以下にも古い寺院らしく、墓地が併設されているわけでもないから、用のない人以外は訪れることもない寺だろう。花山法皇に関する看板が建っており、出家時の石が同の等と書かれている。まあ、それだけだよな、と思い本堂にお参りした後、ろうそくと線香に火をつけてお供えをした。元慶寺については、二時間以上も歩いて訪れてみたが、特に大きな感慨もなく、それだけであった。感想と言えば、寛和の変以後、数か月は花山天皇改め花山法皇は元慶寺に滞在していたようだが、皇室をお泊めするには小さすぎる寺だな、といった程度である。所詮は、裏切り者の兼家か道兼が用意しであろう寺だから、皇族をもてなしたり丁重に扱うなんて意図も無かったろうし、当たり前ではあるのだが。
元慶寺を出ると、来た道を戻り御陵(みささぎ)駅から京阪の京津線と石山坂本線、それに坂本ケーブルカーを乗り継いで比叡山延暦寺を目指す予定だ。花山法皇は、元慶寺で出家の後、比叡山延暦寺で受戒を受けて正式な僧侶となり、その後、しばらくは比叡山延暦寺で修行生活を送ったようだ。おそらく、花山法皇が元慶寺から比叡山延暦寺へ向かった際は、今回の鉄道ルートと同じように琵琶湖側の陸地沿いを進み、坂本ケーブルカーの近辺の山道を徒歩で登って比叡山に入ったと思われる。峰沿いを歩くのは無駄に苦しいし、京都側に出るのは知っている人に鉢合わせするのも気まずいだろうからである。
比叡山延暦寺へ
12時45分、御陵駅発の京津線に乗った。京津線は鉄オタには名高い、地下鉄と山岳と併用軌道の3つを通る珍しい鉄道路線だ。私も今回初めて乗車するが、正直、元慶寺より楽しみにしていた。地下の御陵駅を出ると列車はすぐに地上に出て、国道1号横のワインディングロードを、車輪をきしませながら走る。勾配もかなりきついようだが、京津線の車両は新幹線車両と同じくらいコストをかけているらしく、力強くぐんぐん進む。終点のびわ湖浜大津駅手前の数百メートルが、道路の上を走る併用軌道になる。併用軌道は外から見る分には珍しくて面白いのかもしれないが、併用軌道を走る列車に乗ると、路盤が弱いので揺れは酷いし、スピードは出ないし、信号で止まるしで、あまり良いものではない。それでも道路上の景色を列車内から眺めるのは、珍しいので面白かった。
13時6分、びわ湖浜大津駅から石山坂本線に乗り換えて、終点の坂本比叡山口駅を目指す。電車は、前々回の嵐電のようには混んでいない。やはり、今日は観光客は少ないのか。二両編成の短い電車は、13時21分、何事もなく終点の坂本比叡山口駅に到着する。坂本比叡山口駅からケーブルカー駅までは徒歩で15分ほどかかるらしい。バスもあるのだが、徒歩15分であればバスに乗る必要も無かろうと、歩いてケーブルカー駅を目指した。
13時32分、ケーブル坂本駅に到着。時刻表を見るとケーブルカーは毎時0分と30分に出発とのことだった。つまり、ついさっきケーブルカーは行ってしまったばかりで、30分近く待つことになった。この後、京都側にケーブルカーと嵐山鉄道を乗り継ぐ際にも、乗り継ぎの悪さに悔しい思いをし続けることになる。
14時00分、ケーブル坂本駅からケーブル延暦寺駅を目指す。この坂本ケーブルには車内放送で、よほど自慢なのか、日本一長いケーブルカーであることを、しきりにアピールした。おまけに途中駅もあるらしい。ケーブルカーで途中駅を設けると、ケーブルカーは2台の車が連動して昇降しているから、片方は不要な停車をしなければならない。なんかつまらない話であるなと思ったら、途中駅の上側のもたて山駅の近くには、紀貫之の墓があるらしいことを車内放送で紹介していた。
比叡山延暦寺
14時11分、ケーブル延暦寺駅着。駅から延暦寺を目指して参道を歩くと、引っ切り無しに鐘の音が聞こえて、荘厳な感じがする。しかし、どうも鐘の音が安定しているように思えない。花山法皇は、比叡山延暦寺の西塔という場所で過ごしていたらしい。別に西塔という塔があるわけではなく、どうも比叡山というのは東塔と西塔にエリアを分別しているようで、どちらのエリアにも複数の施設がある。本来の目的であれば用があるのは西塔だけだが、延暦寺の主だった建築物は東塔にあるらしく、せっかく来たのだからと貧乏根性をだして、参拝料1000円を払って東塔エリアに入った。坂本ケーブルカーも乗客は少なかったから、今日の比叡山延暦寺は空いているのかと思ったが、東塔に入るとピーク時には及ばないのだろうが、やはり、それなりに観光客がいて賑わっているた。東塔は根元中堂というのがメインの本堂らしいのだが、残念ながら改修中。巨大なプレハブに覆われて改修工事をしていた。文珠楼、大講堂、阿弥陀塔と一通りを見る。例の鐘の音は、大講堂の横にある鐘楼の巨大な鐘を、参拝客が自由に突けるようになっていたからだった。開運の効果があるそうだが、もう開く運も無い私は辞することにした。
さらに、徒歩で西塔へ進む。冬場は西塔へのシャトルバスが無いらしく、西塔に行くには徒歩で行くしかないようだ。無舗装の砂利の敷かれた山道をあるいて、西塔へ分岐するためのドライブ道を跨ぐ歩道橋を渡る。西塔は行き止まりになっているので、入ったら来た道を戻ることになるが、西塔に入るといきなりの長い下り坂である。これを登り返すのかと思うと憂鬱になるが、西塔を目的に来ているのだから、引き返すわけにもいかない。進む。
まずは、浄土院という伝教大師御廟に入る。京都の寺院によくある、箒で波打った模様を描いた庭園があり、奥には延暦寺では珍しく朱色で塗られていないお堂があった。花山法皇を滞在させるには、ここが丁度良いように思えたが、御廟に人を住まわすものだろうか。
さらに西塔の奥へ進むと、にない堂と呼ばれる常行堂と法華堂の二つのお堂を渡り廊下でつないだお堂がある。おそらく、西塔内で最も絵になる建造物だろう。
渡り廊下を潜ってさらに進むと、釈迦堂。最も大きい建造物で、なかには帝釈天像など多数の仏像がある。一番立派な建物だけど、建物内は広いし仏像の圧迫感も強い。ここで寝泊まりするのは嫌だなーと思い、結局、花山法皇についてはなにもわからないまま西塔をあとにした。
比叡山からは、往路の坂本ケーブルではなく、比叡山頂駅からロープウェイとケーブルカー、叡鉄を乗り継いて京都まで戻った。上でも書いた通り、ロープウェイこそ駅に着いたらすぐに臨時便を出してくれたおかげで、本来は毎時00分と30分の出発のみであるところ、15時40分に山頂駅を出発した。しかし、その後のケーブルカーは30分待ち、叡鉄は15分待ちと、それぞれ各駅ではインターバルいっぱいに待たせてもらい、京阪の出町柳駅に着いたときは疲れ切っていた。しかし、今日はこれから予約したホテルのある姫路まで移動しなければならない。京阪で京橋駅まで移動し、京橋駅でJRに乗り換えて大阪駅で新快速に乗って、19時12分に姫路駅に着いた。
姫路駅の北口は、正面にライトアップされた姫路城があり、街路樹も建物も目一杯イルミネーションが飾られていてにぎやかだった。それに比べてホテルがある南口は、かろうじて最低限の街路灯はあるが、廃墟街のような暗さであった。そのホテルは、暗い北口の駅通りを5分ほど歩いた、大通りの奥まった場所にあった。姫路駅周辺で、そのホテルが妙に安かった理由がわかったような気がした。
書写山圓教寺
寛和の変から一ヶ月後に花山法皇は書写山の性空上人の元を訪れている訳だが、それについて、花山法皇研究の第一人者と思われる、今井源衛氏の「花山院研究」という論文によると、以下のようにある。
つまり、一条一門とは花山法皇を含めたその親族であり、出発直前の姉の死により死の呪いの存在を確信し、死の呪いをかけているのは藤原兼家一門であろうとして、その呪詛を解くのが目的だったということらしい。平安時代当時、確かに信仰心が強く呪詛の類も信じられていたのかもしれないが、京都にも安倍晴明をはじめとした陰陽師はいた訳だし、わざわざ六日間もかけて書写山まで行くだろうか。しかも、呪詛を解くのであれば一週間でも一ヶ月でも居て良いと思うが、わずか一泊で退散したのも、どうにも真偽の程が怪しい。
おまけに、1002年には花山法皇は引退した性空上人の元を訪れて、当時暮らしていた弥勒寺に立派なお堂を建てている。
未来にそのような恩返しをするのだから、寛和の変直後の986年の御幸で性空上人は花山法皇にけんもほろろな扱いをした訳はなく、むしろ、一泊のわずかな時間で開眼させるような何かを性空上人は花山法皇へ与えたのではないだろうか。
ともあれ、書写山圓教寺は、ちょうど花山法皇が生きた時代の性空上人が開山した寺院であるから、花山法皇が訪れた当時と現在とでは、大きく違う様子であったろう。花山法皇の目に当時の書写山がどのように映ったかは、実際に書写山を訪れて知りたいところだ。
姫路のホテルで目が覚めたのは午前5時であった。年を取ったせいか、旅の高揚感か、どうにも目が覚めるのが早い。今回はホテルで朝食を取ったが、朝食の食堂は混雑というひどではないが、満席に近い賑わいであった。外を見れば駐車場は満席で、おそらく今日は満室なのだろう。関西は特に観光客が多くホテルはどこも満室で、価格も高騰していると聞くが、その様子が改めてよくわかる。
朝食を食べ終えたら、今日のバスの時間を確認してホテルをチェックアウトした。
12月10日(日)の本日は、姫路駅からまずはバスで書写山圓教寺に向かう予定だが、姫路駅のバス停を見渡しても、どのバス停がどこ行きかの案内板がない。一つ一つ調べていくと、歩道橋を何度も渡って降りてを繰り返すことになる。余裕を持ったつもりであったが、ギリギリで書写山ロープウェイ行きのバスを見つけた。
8時35分、書写山ロープウェイ行きバスは姫路駅前を出発した。バスは部活動の通学と思われる女子高生が多い。すると、書写山まで行く客はほとんどいないのか。実際、女子高生たちは姫路高校前なるバス停で全員降りて、終点の書写山ロープウェイバス停まで乗っていた客は私ともう一人だけであった。
バスの到着予定は9時4分であったが、実際はかなりの早着だったようで、9時ちょうど発のロープウェイに乗れた。
書写山ロープウェイを降りて、ほどなく進むと参拝料を払って、さらに奥へ進む。参拝料を払った入口から摩尼殿までは、バスがあるとのことだが、500円をケチって謝辞したので、山道を歩く。道沿いには観音像が並べられていて、並々ならぬ宗教的な雰囲気がある。
途中で、木々が開けて姫路の市街地を見下ろせる場所があった。比叡山の西塔には京都を見下ろせる場所は無いから、仮に花山法皇が書写山を訪れた際に、すでに比叡山に移っていたとしても、山寺から眼下の里を見下ろす体験は、ここが初めてだろう。花山法皇は、最後に里を見下ろせる花山院菩提寺を、隠遁の地と決めた。それはきっと、この書写山の風景が頭にあったからではないだろうか。
さらに山道の参道を進むと、摩尼殿が正面に見えてくる。でかい。山の中のしかも斜面に、よくもまあ、こんなでかいお堂を作ったものだと思う。石段をのぼり、摩尼殿の中に入る。中は、お守りなどの売店と、飾られている神仏の像を見ることができた。本来、このような目的で建てられた建築物ではないだろうが、時代が、観光施設にしてしまったのだろう。
摩尼殿の次は順路に従えば食堂(じきどう)と呼ばれる建築物が奥にあるので、さらに進むわけだが、山道を進むルートを取ると白山権現なるものがあるらしい。白山信仰は花山法皇にも縁があるから、白山権現を目指して山道を登る。意外と、この道を歩く人も多い。前にはトレランの格好をした登山者、後ろにも登山の格好をした人がいる。私だけ普段着だ。
白山権現は何ということもないと言っては失礼だが、普通の山中にあるような神社であった。もちろん、敬意を表して手を合わせる。
白山権現を下りると、食堂に着く。ここは、映画「ラストサムライ」のロケ地にもなった場所で、たしかに実際に訪れると、他の寺院とは異なる印象を受ける。
まず、大講堂、食堂、常行堂という三つの機能の異なる建物が、中央の白砂利のひかれた広間を囲むように、カタカナのコの字に建っている。現在の円教寺は観光客向けの寺院だから、お堂がどのように建てられても構わないのかもしれないが、建築当時は、実際に多数のお坊さんが生活して修行をした場であるだろうから、生活と修行とイベント開催の建物が機能的に配置されたように見える。大講堂の看板を見ると、大講堂は花山法皇の命によって建てたとあり、花山法皇は青写真を描いただけかもしれないが、建築設計にも才能を発揮したというから、この三軒の建物の配置を花山法皇が立案したのであれば、相当な才能だったと思う。
正面の食堂には入れるので、靴を脱いで入場する。二階に数々の小さい仏像が飾られており、一種の博物館のようである。本来は、多くの修行僧が寝泊まりをしたフロアであろうに、私のような無信仰の観光客が立ち入るのは不相応な気分になった。
食堂からさらに奥へ進むと、奥之院の開山堂についた。一通り写真を撮り終えると、丁度10時になったからであろうか、本堂内のお坊さんがお経を唱え始めた。
お経は亡妻の葬式を思い出すので聞きたくないのだが、なぜか聞きたくないように思えず、本堂の庇に立ってお経を聞いた。お経を聞いていると涙が溢れてくる。亡妻を思い出して、ここで嗚咽を漏らして泣き叫んで気でも違えてしまえば、それで終わりにできるだろうか。狂いそうになるのを「まだ、その時ではない」とじっとこらえる。二十分ほどお経を聞いて、次の予定に差しさわりが出ることに気づき、般若心経を聞いて奥之院を後にした。
奥之院からロープウェイ駅までは一気に戻ろうと思ったが、摩尼殿の前で微妙に空き時間があることに気づき、茶屋で抹茶をいただいた。おまけで付いていた和菓子が旨かった。
通宝山弥勒寺
今回の旅の最後の目的地は通宝山弥勒寺である。
弥勒寺は上でも紹介した通り、圓教寺を引退して里に庵を構えて過ごしていた性空上人の元を、1002年に花山法皇が訪れて立派なお堂を建てさせた始まりだ。
弥勒寺のWebサイトは、今は珍しいページに入るとカーソルの後をついてくる画像があったり、アクセスカウンターがあったりと、Web黎明期を思い出させる作りであった。httpではなくhttpsなのだけは現代的か。
それより問題は、弥勒寺のWebサイトのトップにも書かれているように、弥勒寺に行く公共バスが無いことだ。一応の案内では、又坂と呼ばれるバス停から徒歩30分とあるが、GoogleMapで調べると徒歩では44分かかるらしい。それであれば、レンタカーを使えばよかったのだが、徒歩30分でも歩いていけるのであれば歩こうと、計画時に思っちゃったので、バスで行くことにした。
書写山ロープウェイを下りてから、姫路駅に戻るバスで姫路駅までは戻らず、途中の横関東口というバス停で降りて100mほど移動し、横関バス停で前之庄行きというバスに乗ればよいらしい。
11時30分、6分遅れでやってきた前之庄行きバスに乗る。
バスはほどなく又坂バス停についたので降りる。降りた客は、もちろん私一人であった。又坂バス停で、手持ちのスマホのGoogleMapで弥勒寺を目的地に案内を開始して、Google先生に従って歩き始める。地図を見ても気づかなかったが、又坂バス停から弥勒寺へは、車道の軽い峠越えがあった。やはり、花山法皇のゆかりの地を行くのは楽ではない。峠を越えると、おだやかな山のふもとに広がる里の風景が見れた。こういう景色は好きだ。寺院を尋ねるより、こういう場所を歩くために旅をしているのかもしれない、と思い始める。
12時20分、弥勒寺に到着した。弥勒寺にいたる道には、まだ気の早い「初詣」の真っ赤な幟が何本も建てられていて、意外ににぎやかだ。
境内には、私の先客で一組の家族の参拝客がいた。大きい寺院ではないので、写真を撮って参拝だけ済ますと、早々に弥勒寺を後にした。
さいごに
花山法皇のゆかりの地を訪れる旅も今回で三回目となったが、前回からなんとなく、普通の旅とは違う不思議な違和感を感じていたのに気づいた。
通常の旅であれば、京都を訪れれば清水寺や金閣寺、姫路であれば姫路城、山口県を訪れれば秋吉台など、その土地の名所を訪れるものであるし、それらを如何に効率的に巡るかを思案するものだ。しかし、何かしらの史実や人物を追って、当時の場所を訪れようとすると、訪れた土地の、それ以外の名所名跡をスルーすることになる。旅としてそれなりの金額を使って移動、宿泊をするのならば、その土地の有名な箇所はすべて回ろうとするのは通常であろうが、今回のような旅の形式をとると、そうはならないのだ。
これは、実際にやってみると何とも不思議な感覚を覚える。京都という今や世界でも有数の観光地において、あまり観光客も訪れない場所を訪れたかと思うと、観光客でごった返す寺社を横目に通り過ぎ、ある場所からは突然、観光客の大混雑に巻き込まれるのだ。このような旅で受ける感慨は、私の筆力では表現できないので、ぜひ、奇特な趣味をお持ちの方は、試していただきたい。
今回の記事については、珍妙な紀行文どころか奇行文と呼ぶべきものとなったが、この馬鹿々々しい記事に付き合っていただいたことに、感謝を述べたい。今回は型破りな形式をとったが、極々一部の奇特な趣味の方に喜んでいただければ幸い。
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