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AIとゆっくり読む「Vtuberの哲学」第二章 VTuberの身体性の問題
VTuberの哲学
この記事は山野 弘樹 著「VTuberの哲学 」をAIの力を借りながらゆっくり読んでいく記事です。読みながら残したメモなので、グダグダしています。
あんまりまとまっていないですし、あとで考え方が変わる可能性が高いので、読む人は真に受けないでください。(こんなメモを読む人もいないと思いますが…)
前回のまとめ
頑張って第一章を読み進めてみたが、哲学のツールを使って記述しただけの話に見え、トートロジーめいた説明が多く、果たしてこの本をどう受け取れば良いのか、わからなくなってきた自分がいる。やたら抽象化された特許の請求項を読んでいるような気になってきて、仕事を思い起こしてしまい若干苦痛も感じてきた。果たして哲学とはこういうものなのだろうか。私は哲学的議論を解することはできないのだろうか。
だが、乗りかかった船と諦めて、第二章も読み進める覚悟をするのであった。
第2章 VTuberの身体性の問題
「身体的アイデンティティが欠けているときは、VTuberは可能的に制度的存在者として存在する。存在を現/潜在的水準に分けて考える」
これはすごい。モーキャプでロストしたときの話をこんな定義してくる人は初めて見た。人類史上初であろう。これが哲学というのもなのか。一周回って面白くなってきた。
第一節「デュナミス」としてのVTuberと「エネルゲイア」としてのVTuber
なんかすごい単語が来た。
びっくりしないようにAIで予習しておこう。
アリストテレスの哲学におけるデュナミスとエネルゲイアは、可能性と現実性を表す概念です。
デュナミスは、可能態や潜在性と訳され、あるものが持つ可能性や能力を指します。例えば、種子は植物になるデュナミスを持ち、子供は大人になるデュナミスを持っています。
エネルゲイアは、現実態や活動と訳され、デュナミスが現実化した状態を指します。例えば、種子が成長して植物になった状態や、子供が成長して大人になった状態は、エネルゲイアの状態です。
デュナミスとエネルゲイアは、互いに対立する概念であると同時に、密接な関係を持つ概念でもあります。デュナミスはエネルゲイアの可能性であり、エネルゲイアはデュナミスの実現です。
アリストテレスは、すべての存在はデュナミスからエネルゲイアへと変化すると考えました。この変化は、目的に向かって進行すると考えられています。
これらの概念は、存在の変化や運動を理解する上で重要な役割を果たします。
デュナミスとエネルゲイアの例
まだ家が建っていない状態はデュナミス、家が完成した状態はエネルゲイア
なるほど。FF11でいうと、裏世界というか概念はデュナミスで、ヴァナ・ディールはエネルゲイアなのか。
このあと、限られたモデルの身体性の事例としてVTuber同士のやり取りを描写するのだが、読んでいるうちにFF11を思い出してきた。そもそも、これはネトゲとかでよくあった話ではなかろうか…
ネトゲのプレイヤーもそのモデルもまた同様に「可能態」としてプレイヤーキャラの存在を下支えしている。と言える。
この定義がVTuber以外に波及すること自体は自然であるが、この本はVTuberの話しか書いてないので、どこが独自なのか、定義として抽象化しすぎていないか、カバー範囲が広がってしまうのでは…といらん事を気にしてしまう。
第二節 身体的アイデンティティが欠けたVTuberに対する「シームレスな鑑賞」
モデルがフリーズしたり配信者の実写を配信しているのとかを「シームレスな鑑賞」と名付ける。以上。
名付けたければ名付ければ良いと思うが…
最近のホロライブとかは配信者の手が出したりするのは避けて手袋させたりしてますよね。モデルのフリーズとかも避けるようにしていて、シームレスな鑑賞を排除したいと思ってるフシがありますね。これは多分商業的理由による。
このあと、琴吹ゆめさんの事例から「倫理的アイデンティティ不在な場合はシームレスな鑑賞はできない」と結論づけるが、まぁそれはそうでしょう。中身がいきなり変わってたらそれは「誰?何?」となりますからね。
第三節 VTuberの「入れ替わり事例」を検討する
VTuberの中身入れ替わり企画に対しての見解。この節はある意味面白かった。単なる入れ替わり企画を、自身の論理立てを解するとどのように見えるかという論述である。考え方を定義したとき、現実の現象がどう解釈できるか…という芸であり、役には立たないが、役に立たなさが面白い。
第2章まとめ
あっ。もう終わりなのか。この章は短かった。比較的わかりやすかった。
この章は、著者の思考というより、芸が面白かった。哲学的議論というのはこういう芸なのだろうか。ちょっと法務的な解釈の話と似ている気はする。それに価値があるかどうかとかではなく、単にそういう思考形態ならこうなるという論述に見えた。