速さへの憧れと決別
800mのスタートの合図が鳴らされた。スタンディングのセパレートスタート。第二コーナーでオープンになる。8人の走者たちは第二コーナーで良いポジションを取るため、短距離走さながらのダッシュでスタートする。
第二コーナー。走者が一斉にインコーナーへ入ってくる。細かなポジション争い。体幹の強いものは接触を恐れない。浮き上がった踵を蹴られてもぴくりともせず、スピードは安定している。
一方、瞬発力のある走者は詰め寄ってきた走者を一瞬で突き放し、ポジションを譲らない。瞬発力と体幹の弱い走者は後方、自分のペースを崩して走るか、1人2人分外側に出て走らざる得ない。
バックストリート。まだ勝機はある。第三コーナーに突っ込む前に外側からスピードを上げて前半に勝負をかけるか、後方で待機してラストスパートで抜き去るか。いずれにしても、レースのコントロール権は失った。あとは自分の特徴で隙をつくしかない。
たが、その勝負に立てない走者だっている。
1997年のインターハイ。1500mで優勝したのは高校一年生だった。その後の3年間で彼は800m,1500m,3000m,5000mで当時の高校記録を更新した。敵はいなかった。高校3年時、1500mでは日本記録のタイムに迫り、日本選手権でも優勝を果たした。
大学へ進学し一年生でインカレの800m,1500mの二冠を達成。しかしその後、彼の名前は消えた。
再起をかけて社会人陸上に参加するも、当時の輝きは戻ってこなかった。
スタートの合図が鳴らされ、最初の100mを全力疾走する。ほとんど無酸素だ。なんとか8人の集団の殿にへばりつく。前の走者の足があたり、よろめき、外側に体が流れる。ペースが一段下がるとみるみる集団から離される。バックストリート。先頭がペースをコントロールしはじめる。落ち着くのか、スピードレースに入るのか。
せめて一周は持ち堪えたい。気持ちが後ろを向く。呼吸が乱れ、足が重い。第三コーナー。先頭はすでに第四コーナーを回りはじめている。バタバタと足音が響く。殿集団は2人。作戦は必死に走る、だ。
乱れる呼吸と腰の落ちたフォーム。第四コーナーに入る。同じ陸上部の声援が飛ぶ。長い直線。ラスト一周の鐘が鳴っている。まるで遥か彼方。対岸にいるようだ。
唯一の武器、持久力を使おう。
前を走るドタバタした7位の選手の横に並ぶ。彼は横を見る。眉間にシワがより、顔が崩れている。喉から呼吸をして酸素が体内に供給されていないのが明らかだった。肩が並ぶ。スピードが上がる。第一コーナーまでになんとか前に出たい。前に足を出すたびに首が回る。フォームはすでに乱れに乱れている。
観客は第二コーナーを観ている。バックストリートで仕掛けた選手がいたのだろうか、歓声が上がる。第四コーナー、前に出ることなく外側を走る。徐々にペースが乱れる。ここでスパートしないと負ける。ギュッと呼吸を止めて回転数を上げる。足に力を込めて、ストライドを伸ばす。ようやく抜いた。スパートしているのに前を走る6位の選手との差が縮まらない。後方からの足音。まずい、また抜き返される。第二コーナーからのバックストリートでさらに呼吸を止めて力を入れるが、呼吸は止まらない。漏れ出す酸素。エネルギーに変換されない乳酸がたまる。重い。
第四コーナーからゴールまで。既に予選通過者は決まったような感じだった。バックストリートでスパートをかけた選手が後ろを確認しながら流して走る。スピードは衰えていない。後ろから猛追する2人。そのうちのどちらかが予選通過安全圏を逃す。予選通過は2プラス2。2位には入りたい。
予選通過などはなから期待していない第三コーナーの争い。息が途絶えたようにスピードが落ちる。再び後ろからやってきた選手と並ぶ。外側に出ても抜きされる、そう判断したのか、ペースを落としたくなかっただけか、後ろの選手が外側で並走する。第四コーナー、スパートだ、と決意する。少しだけ回復した力を振り絞り、腕を強く振る。大丈夫、さっきよりは走れている。
しかし、後ろからやってきた選手は何事もなかったかのように抜き去り、最後の直線をかけていく。ゴール。10mまではいかないが、結局明白に離された。会場からは拍手が起こり、倒れ込む選手たちはフィールドの外へ、もしくはうちへ這って移動する。駆け寄る部員たちが何かしらの声をかける。
テレビ越しにインターハイを観た。歩くように伸びていくストライドと力感のないピッチ。後ろの選手が険しい表情でフォームを崩しながら走っているのに対して、険しい表情ではあっても、フォームは崩れない。スタートでダッシュをして、バックストリートでスピードを上げる。ラスト一周の鐘が鳴るとさらにスピードは上がり、第四コーナーを曲がると爆発的なスパートでフィニッシュする。自分の敵は自分しかいない。そんなレースだった。
三年生の先輩たちがインターハイへ出場している中、インタバルトレーニングで吐きそうになっている。300m+100×50本を2セット。大した練習じゃない。インターハイへ出るような奴らなら。
くたくたになって、グラウンド脇の河川敷に寝そべる。鳥が水浴びをしていた。野球部の練習する声が聞こえる。同級生の女の子が自転車で通り過ぎていく。大して話したことのない女の子。副顧問の声がする。2セット目はじめるぞ、と。渋々立ち上がる。
足はもうガクガクだった。ゆっくり歩きながら副顧問のいるスタート地点へ向かう。
同級生が尋ねる。次の大会は何走るの?と。もう800は走らないな。と答える。
翌年、無名だった彼は800mで東北大会まで進んだ。僕は相変わらず地方大会の後ろの方で走っていた。5000mと3000m障害。なんとか県大会出場の切符がとれるレベルで。