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感謝ばかりしても幸せにはなれないよ、と教えてくれる小説

 上京して初めて住んだアパートは都電荒川線の庚申塚から歩いて5分とかからない場所だった。小さな路地を歩いてしか通れない場所に建てられたアパートは1階に二部屋、2階に二部屋しかない古びた風呂なしアパートだった。
 初めて不動産屋と訪れたとき、大家さんは一階に住むおばあちゃんのために残してるようなものだから若い子が来るなんてね、と珍しそうに言った。どうせ誰も借りないのだから2階の二部屋は自由につかいなと、契約をしたときに大家さんは言った。しかし入居する頃には結局、韓国からの留学生が住んでいた。こんな古いところでも不動産に出してみるものね、と大家さんは驚いていた。


 その頃に買った『パストラリア』。六編の短編を集めたジョージ・ソウンダースの短編集。ソウンダースの邦訳は他に二つほどあるようだが、あまり日本では人気のある作家だとは言えない。なぜか人気にならないのはすこしSF的だからだろうか。2002年に角川から出版されている。訳は法村里絵。

 庚申塚の風呂なしアパートには2年住んだ。その後、荻窪のアパートで男友達3人とシェアハウスをした。それから、今の妻と池尻大橋で同棲をはじめた。結婚のタイミングで少し大きなアパートを探して住み、子供が生まれるタイミング、郊外へマンションを買った。35年ローン。まともに働かなくてはならなくなった。

 
 『パストラリア』に収められている『シーオーク』は、ストリッパーをしながら生計を立て、妹と従姉妹、その子供たち、おばちゃんと共に住む男が主人公の物語。
 彼らの住む地域は治安が悪いが、早くに父親を亡くした兄妹たちにはお金がなく、引っ越すこともできなかった。
 母は別の男と別のところで過ごしている。主人公の家族とその男とはあまり仲は良くはない。
 つまり、なんとか生きていくだけで精一杯の暮らしをしていた。治安が悪いところでしか住むことができず、学校へも行くことができなかったからまともな仕事につくことまできない家族。
 妹と従姉妹は、暮らしに悪態をつくことしかできずにいる。悪態をつき、お互いに喧嘩をする。それをいつもおばが嗜める。
 おばの名前はバーニィ。バーニィおばちゃんは若い時に主人公のおばあちゃん(つまりバーニィおばちゃんからしたら母)を亡くし、おじいちゃん(バーニィおばちゃんからしたら父)の世話をして過ごした。男の子とデートすることも結婚することはなかった。
 そんなバーニィおばちゃんにおじいちゃんは遺産を相続させず、どこかの知らない女に渡した。バーニィおばちゃんは、ドラッグストアの最低賃金で働かなくてはならなくなった。それでもバーニィおばちゃんは怒らない。どんなことにも腹を立てることはしなかった。

 「ああ、信じられない。歩行器についているアヒルの顔が撃たれたっていうのに、あたしたちは運がいいなんてどうして言えるの?」ミンは訊いた。
 「ああ、あたしたちは運がいいんだよ」バーニィおばちゃんは答えた。
「誰かの嘴が撃たれたかもしれないのよ」ジェイドが言った。
「何か悪いことが起きたとき、あたしがどうするか知ってるかい?考えないようにするんだ。深刻にとらないんだよ。この世の終わりってわけじゃないんだからね。それがあたしのやり方なんだ。いつもそうしてきたんだよ。そうやってきたからここまで辿り着けたんだ」

 主人公が仕事から帰る。近くで銃声が響き、ギャングたちの声がした。
 家に着くとカウチに蹲る妹と従姉妹とバーニィおばちゃん。ギャングたちが鉄砲を撃ちはじめた時、妹の子どもは幸運にも家の中にいた。歩行器に付いているアヒルの嘴がギャングたちの鉄砲の流れ弾に当たって壊れている。
 それでもバーニィおばちゃんは腹を立てない。おじいちゃんに奴隷のようにこき使われて、遺産も相続されなかったバーニィおばちゃん。おじいちゃんの世話ばかりして、男の人とデートをしたこともないバーニィおばちゃん。六十にもなるのに、ドラックストアで最低賃金で働き、何も持っていないバーニィおばちゃん。
 「だけどね、あたしたちは、ほんとうによくやっているんだよ」と言って。
 

 とても寒い冬の日、風呂なしアパートに住んでいた頃、近くの銭湯へ行こうとすると、隣の韓国人の留学生が一緒にお酒を飲もうと誘ってきた。もうすぐ引っ越してしまうらしい。
 彼女はよくアルバイト仲間とお酒を飲んでいた。いつもうるさくしてごめんなさい、とビールを持って来てくれた。どうぞ、と招き入れた部屋の中には小さなテーブルしかない。彼女は適当に座らせ、乾杯をした。大学は茨城の方なのだという。ここから通うのが2時間もかかる。だからもっと近くへ引っ越そうと思う、と彼女は言った。
 それから程なくして、彼女はソファを残して引っ越した。よければ使って、と言ってくれた。ぜひとも、と言って、そのソファをもらった。

 『シーオーク』は今まで読んだ物語のどれにも属さない。バーニィおばさんについてはもう書かない。読んで欲しい。
 ついでに、幸せについて書いてみたい。
よく全てに感謝する人がいる。Instagramでハッシュタグがついている。全てに感謝。
 全てに感謝していれば幸せなのか?ポジティブであればうまくいくのか?楽観的であることは暮らしを豊かにするのか?
 一部は当たっていると思う。ただし全てではない。
 コロナウイルスであらゆるイベントが中止になった。仕方ないさ。生きてるだけで幸せなんだ。分かってる。分かってはいる。
 目標にして必死に鍛えてきたマラソン大会。所詮は市民ランナーだ。レースに勝つことより走りたいだけ走りたい奴ら。体調が走るために調整されている。空回り。
 それでも生きているだけで感謝しよう、とマラソン大会中止のInstagramにハッシュタグがつけられる。感謝しよう、世界へ向けて発信!

 
 留学生にもらったソファは、引っ越しをする時に捨てた。荻窪の部屋はとても狭かったから。本しか持っていかなかった。同居人が家電を揃えてくれる。
 アパートには風呂があって、いつでも入りたい時に入れた。水圧の弱いシャワーに同居人が悪態をつく。
 「おれたちは運がいいんだよ。入りたい時にお風呂に入れるんだから」
 同居人は醒めた目を送る。今の言葉をなかったことにして、再び悪態をついた。
「まあ、浴槽があるだけましだ」と付け足した。

 感謝なんかくそくらえだ。本当に感謝すべき時に素直に感謝すれば良い。

「全てを手に入れる人間がいるっていうのに、あたしはどうして何も手に入れられなかったんだ?どうしてなんだ?いったいどうしてなんだ?」
毎回おれは「わからないよ」と答える。
ほんとうに、おれにはわからない。

パストラリア