思索②「前提」
最近、ある人と話をしたときの言葉が離れない。
「前提から話さないといけないと、途中で気持ちが折れて、話すのを諦めてしまう。」
※本記事は考えたことをつらつらと書く備忘録です。まとまった記事でもなく、何かの研究でもなく、メッセージ性もなければ、誰かに宛てたものでもありません。遠くの誰かを評価しているような語り口調になっており不快な気持ちにさせたら申し訳ありません。予め、お伝えしておきます。
彼は続けて言う。
「同じような状況にいる人なら、言わなくてもわかる“当たり前”があって、僕の話を難なく理解してくれるけど、その“当たり前”が当たり前じゃない人もいる。そういう人と話すときに、一体、何をどう話したら良いのかわからなくなる。」
その日の夜に、恋人がある記事を僕に見せてくれた。それは、数学が得意な人の考え方、と言うものだ。
内容を簡潔に話すと、3枚のコインを投げて、最低でも一回は表が出る確率を答えよ、という問題を、「どう導き出すか」というもの。
やろうと思えば、どんな方法でもわかる問題かもしれない。例えば、一枚目の確率+二枚目の確率+三枚目の確率というように、遠回りだけども、一つ一つやっていくことで導き出すこともできる。
ただ、「数学が得意な人」はこう導き出す。
1−1/8
答えは7/8だ。
その理由については、ここでは書かないが、この式を導き出すときに、数学が得意な人は、ある“当たり前”を組み合わせただけで、できるというわけだ。
数学が得意な人にとって、この式をわざわざ説明することは違和感があるようで、「え、これって当たり前じゃない?」という気持ちになる。
これは皮肉でも、見下しているわけでもなく、本当に当たり前のことだと考えているので、これを「当たり前と思わない人」が珍しく思えるのだと思う。
この「当たり前」というのを以後、「前提」と僕は呼ぶことにする。
僕らの日常の中で、こういう現象が起こる。「前提」を知らない人と話すときに「なんで、僕の言うことがわからないんだろう」と思うことがある。
しかし、すべての人が、自分にとっての前提を、前提と思っていないのは同然だ。
ここで、二つの事象を見つけたので、それを紹介したい。
①前提を知っていないと遠回り
②前提が違うから食い違う
以下で説明していく。
前提を知らないと遠回り
ニコラ・テスラとエジソンがとても良い例だ。
ニコラ・テスラはエジソンの研究所で働いていたが、テスラの天才的な発明に嫉妬心もあったのか、エジソンはテスラを潰しにかかった。
テスラもテスラでエジソンをやはり舐めていた。
テスラとエジソンは根本的に「発明方法」が違った。エジソンは、ひたすら実験を繰り返し、トライアンドエラーのなか、どこかで成功することを愚直に続けるやり人だった。それに対して、テスラはほとんど実験をすることなく、頭の中だけで理論を構築し、実際に組み立てると、ほとんど実験に成功した。
この大きな違いが、まさに「前提」だ。
テスラの名言を二つ読んでいく。
この言葉からもわかるように、テスラは「知識とひらめき」で、発明をしていた。これは天才の定義なので、一般人の私たちには関係なく、分相応に「努力しよう」というメッセージではなく、むしろ「だから、知識とひらめきを大切にしよう」という挑戦のように見える。
これに対してエジソンはこう言う。
エジソンはあくまで「ひらめきは一つ、あとは愚直に実験」というスタイル。
ニコラ・テスラ派なのか、エジソン派なのか、という議論をここでしたいのではなく、エジソンはアホだという話がしたいわけでもない。
ただ、実績で言えば、明らかにニコラ・テスラはエジソンのはるか上手を言っていた。なぜなら、テスラには「前提」があったからだ。
先程の記事の紹介(数学が得意な人)で、当たり前を知ってる人と、知らない人で、解き方が違うという話をした。
数学が得意な人は、前提を知っているので、1-1/8という、たった5筆で答えを導き出すのに対して、前提を知らない人は、愚直に、3枚分の表裏の可能性を一つずつ考えていた。
前提を知っているだけで、答えまでの最短距離を持っていて、また前提を知っている人同士の情報交換に参加でき、かつ、そこで得た知識が、また新たな前提を生み、どんどんと精度も効率も上がっていくのだ。知っているのと知らないのとで、格差はうなぎのぼりで開いていく。
ある人にとっては「人の心の当たり前」を知っており、この発言をすればこうなる、という瞬間的にわかる答えがある。これは式を起こすまでもなく、直感的にわかるものだ。
しかし、人の心の当たり前を知らない人は、知っている人にこう質問する。「え、俺なんか悪いこと言った?」そして、優しく彼に教えはするが「それって、その人の捉え方次第じゃない?」と言ってくるので、全く理解ができそうにない。
他にも、バンド経験がある人にしかわからない「当たり前」がある。何も知らない視聴者は「この人のギター下手くそだな」と言うが、知っている人にとっては、「いや、めちゃくちゃうまいよ」ということがある。逆に「この人すごく上手い!」と視聴者が言うのに対して、知っている人は「この程度ならゴロゴロいる」ということもある。
何がこの違いを生むかというと、「ギターの上手い/下手」という軸の定義だ。
簡単だけどカッコよく難しそうに見せられるテクニックと、簡単そうに見えてめちゃくちゃ難しいテクニックがあるということは、ギタリストなら直感的に理解できる。正しく知っているからだ。
例えば、ライトハンドというテクニックがある。このテクニックは、聴いているほうはなんだか凄技テクニックに聞こえるが、割と初歩的なテクニックだ。逆に、ジャズフレーズなんかはぶっちゃけめちゃ難しいが、割と地味に聴こえる。そして、誰でもできそうと素人には思われるのかもしれない。ただ、ギタリストにはわかる、ジャズフレーズは難しい。
視聴者にとっての「上手い下手」の定義は、テクニックの上手い下手の軸ではなく、単なる「刺さる音楽かそうでないか」というだけだ。感動させられる音楽を弾ける人が上手く、別にテクニックの難易度については触れていない。
ただ、それは定義を間違えている。ギターが上手いのではなく、「感動させられるのが上手い」のだ。知識も経験もない人にとって、この違いを直感的に理解するのは、多分難しい。しかし、ある程度熟練したギタリストにとっては簡単だ。演奏する上での前提をたくさん知っているので、考える間もなく直感的に、この違いに気づく。
ニコラ・テスラとエジソンの話に戻すと、ニコラ・テスラは様々な前提をまず理解するところから始め、その蓄積から直感で発明をした。
エジソンは前提を知ることよりもまず「行動」から始めた。理解よりも、作業を選んだ。これはアメリカの「プラグマティズム(実践至上主義)」という考え方からきているもののように思う。
プラグマティズムとは、「理論よりもまず行動」「行動なくしてなにも生み出せない」という考え方だ。実際に、このおかげでアメリカはものすごい勢いで強くなり、世界の覇者となった。
しかし、特に研究の分野では、それがうまくはまらなかった。
そして、テスラならものの1日で発明できるものを、半年かけて発明するような動き方をしていたように思う。(そういう実例があったかは知らないが)
知識は、余計な労力を省くことができる。知っているだけで、わずかなコストで多くのものを生み出せる。逆に、知らなければ、一つ生み出すのに、多くのコストをかけてしまう。
前提を知らないと悪い意味で遠回りをしてしまう。
前提が違うから食い違う
僕は最近、ある牧仕のYouTubeをよく観る。彼は大御所牧師たちに物を申す系で、考えをハッキリ主張し、対談も申し込みに行く。
僕は、彼がそのYouTubeをはじめた当初は、「何か過激だな」と思っていたが、彼のYouTubeを観るうちに、その主張が冷静であり、ちゃんと説明をしていることに感動した。
その真偽がどうなのかは、僕も吟味しながら聞いているが、彼自身が抱いた「これどうなの?」という疑問を、包み隠さず、公に出している姿は尊敬するし、彼の態度やスタンスにはとても共感する。
そんな彼にはアンチも多く、度々批判される。よく受ける批判の内容は「クリスチャンなのに、公の場で名指しで批判するなんて聖書に反している」というものだ。
確かに度々過激な物言いで、僕もこれは言い過ぎではないかと思うものもある。
しかし、彼はこう言う。
「公で批判することがいけないとどこに書いてありますか?」
この件については僕は牧仕に賛成している。「批判は良くない」「するとしても個人的にこっそりと」「批判ではなく、励ますように」という意見に、すこし頭をかしげてしまう。
というのも、確かに、「優しく諭す」ということは聖書にはすすめとしてあるが、「(皆の面前で)面と向かって抗議する」ということも聖書に書いてある。
公でハッキリと批判することは聖書的にアウトと言う人たちも多いが、むしろイエスもパウロも、多くの預言者たちもやってきたことであり、励ますことよりも、警告や非難をすることの方が、ある意味「聖書的」だと思う。
僕にはこの「前提」があり、この点については定義が似ていたので、牧仕のやっていることに共感した。
そんな彼に対して、怒りを覚える人たちも結構いるようだ。そして、彼らは牧仕に対して、面と向かって抗議をし、「公で批判するのは良くない」と言った。(皮肉っぽくなってすみません)
ただ、この一連の流れを見ていて、この現象は、どちらが正しくて、どちらが悪い、という争いではないと、僕は思った。
この現象は、単なる「前提の食い違い」だ。
牧仕は、感情的になる瞬間もあるし、言い方こそ過激風だが、何をしたいかと言えば「それって本当に聖書的ですか?」という議論を持ちかけたいだけに見える。僕の目には、罵るため、マウントを取るため、ではなく、公の場で、何が聖書が語っていることなのかをハッキリさせたいという申し込みをしたいだけ、というふうに映る。
それに対しての反論で、「みんなが嫌がっている」「言い方が悪い」「批判は分裂を引き起こす」というものがある。
そして、この両者は、片方は「僕の意見の何が間違ってるのか?」という聖書的根拠について議論をもちかけ、片方は「人の気持ちを考えているのか?」という寄り添いについての議論を持ちかけている。話がどうも噛み合わない。
マルコをかばう牧者タイプのバルナバと、典型的な教師タイプのパウロのあの決裂を見ているようだ。
この両者は、どちらもそれぞれの文脈の中では、間違ったことを言っていないように思う。しかし、目的が違うもの同士が、同じ土俵に立つと、とにかく噛み合わない。
これがまさに「前提が違うから食い違う」という現象だ。
まとめ
「前提」があるかないか、また、前提が違っているか、この2点だけみても、前提を共有することの大切さを痛感する。
もし、「共有」が必要な場面で、話が合わない、噛み合わない、と思うときに、「なんでこんな当たり前のことを知らないんだ」と怒り出す前に、お互いの前提を共有し、同じ土俵、同じ目的をセットすることが大切だと思った。
前提が共有されていないからこそ、コミュニケーションが全然取れないのではないか、と僕は考える。