思索⑥『「傷ついた」と「悲しい」の違い』
2024/09/14
「あの人にこう言われて、私傷ついた」という表現がある。相手が故意にナイフで刺すように、ことばの暴力をされたときに使う言葉が「傷ついた」だ。
このようなパターンもある。彼女に振られて「傷ついた」と言うことがある。もし、彼女が自分に人格否定をしたり、悪意のある嫌味を言ったのなら「傷つけられた」わけだが、単に「別れましょう」と言われ、振られただけなら、それは傷つけられたのではなく、振られたことに「悲しくなった」だけだ。
「傷ついた」という表現をすると、どうしても「傷つけられた側(被害者)」「傷つけた側(加害者)」が存在しはじめる。単に、自分にとって悲しく思える出来事が起きたのなら、それは自分の感情が悲しいと思ったにすぎなく、加害者も被害者もないはずだ。
確かに相手にそのような悲しい事実を告げられなければ、悲しむことはなかった。言ってきた相手の行動が自分を悲しませたのだから、相手は加害者だ、と言いたくなる気持ちもわからないでもない。
しかし、相手は自分を傷つけるために、わざわざそのような発言をしたわけではない。別れるためにそのような発言をしたのだ。
もし、別れる発言をすると相手が悲しむからそれを言った側は加害者になる、という論理がまかり通ってしまうなら、別れる発言をする別れる権利はなくなるのだろうか。
別れる権利はお互いにあるはずだ。結婚をしていない以上、それは契約違反ではなく、当然してもよいことのはずだ。
そうすると、それは加害とは言えない。つまり、「傷ついた(傷つけられた)」という加害者被害者を存在させる表現ではなく、単に「私が悲しく思うだけ」という個人の気持ちの表現にすべきだ。
もちろん、相手が悪意を持って、言葉をナイフにして、心をえぐってくるような言い方、言葉を使ったのであれば、それは加害であり「傷つけられた」ことになる。
「傷ついた」と「悲しい」という言葉は混合されやすい。共通しているのは「心が苦しい」という点だ。しかし、「悲しい」というのは個人的な問題であり、「傷ついた」というのは加害被害という社会的な問題であるという大きな違いがある。
言葉を使い間違えると、敵対関係が生まれてしまう。または、事件でもないことを事件のように偽ってしまうという危険性が孕んでいる。
言葉の使い分けには気を遣いたい。