携挙研究①『動機』

はじめに、僕がなぜ携挙を信じたのか、またなぜ研究をするのかをお伝えします。

なぜ携挙を信じるのか

携挙を信じるに至った大きな流れをかきます。
①青年時代(教会の教え)②つまずき時代(自分で考える)③現在(夢を見る)

青年時代(教会の教え)

僕の教会では携挙について語られてきました。いわゆるディスペンセーション主義に立ち、キリストは花嫁なる教会をある日、ある瞬間に、天に引き上げるというものです。それは瞬きよりも早く、突然やってくるもの。僕らに罪があったら、取り残されると教えられてきました。

小学生の頃、僕は、取り残されることが怖くて罪を犯さないように頑張ったり、罪を犯したと思ったらその瞬間に祈って悔い改めたことを覚えてます。それはまるで、椅子取りゲームのようで、いつBGMが消えるかわからない緊張感のなかで、その瞬間が来る前に悔い改めができるかどうか、という、そういうゲームのような感覚でした。

それから僕は、23歳の神学校を退学するまで、携挙を心から信じ、そして怯えて生きていました。

つまずき時代(自分で考える)

僕は22歳で神学校に入学し、23歳で退学しました。双極性障害を発症したことが原因です。

僕は実家に帰り、闘病生活をしながらバイトをする生活をしていました。あることがキッカケでクリスチャンが嫌いになり、教会にも行かなくなりました。バイトも夜勤をしており、日曜日の朝に仕事から帰ってきて、そのまま寝るので、かれこれ5年は教会を離れていました。しかし、神様のあわれみによって29歳のころ教会へと戻ってきました。

この5年間は、僕にとってとても苦しく、でも解放されていく大切な時期となりました。

それまでの23年間、僕は「神のみこころ」を求め、このような考え方をしていました。「聖書以外読んではいけない」「自分で考えることは必ず罪につながる」「やりたい、ほしいなどは強欲」「決断は自分でしてはいけない」。

そのため、僕は自我を主張できない人格を持っていました。自分で考えない、自分で決めない、自分のしたいことやりたいことがわからない、聖書以外の学問は読まないなど。

しかし、教会を離れ、病気と向き合い、将来のことを自分で決めていかなければならない状況に立たされました。そして、今まで祈れば色々と教えてくれた神様からの返答も毎度「あなたのやりたいようにしなさい」というものだけになりました。

僕は何をするにしても、自分で調べたり勉強したり挑戦したり、誰かに聞きに行ったり、ノートを買って考えをまとめたり、発信したり、企画したり、仕事をつくったりと「自分はどう考えて、どう判断し、どう行動するか」をするようになりました。

教会に戻り、久しぶりに携挙の話を聞きました。そして、また戻ってきたあの恐怖感。「罪を告白しなければ取り残される…」

しかし、その時の僕はこう思いました。「待てよ、この考え方は本当に聖書が語ってることなのか?自分で読んで確かめよう」

現在(夢を見る)

僕はそれから聖書を読むようになりました。少しずつでしたが、聖書を読んでいくうちに、今まで神の教えを誤解していたことがたくさんあったことを知りました。

その中に、携挙のこともありました。特にマタイ24章、マルコ13章を読んでいると、どうしても患難に入る前に、教会が携挙されて、患難から逃れるというシーンが見当たりません。

いわゆる、地上再臨と言われる、患難の後にくる再臨で、ラッパの響きがあり、天使たちが世界の隅々から聖徒たちを集め、天から雲に乗って来られるキリストの話が出てきます。僕が聞かされていた携挙のイメージと、患難後に起こる地上再臨が全く同じイメージだったのです。

僕は、まず患難前携挙を疑いました。そして、患難前携挙説に立つ身内、教会の兄弟姉妹などに片っ端から質問してまわりました。

マタイ24章、マルコ13章で携挙について言及してないのではないか?と、質問してみましたが、多くの返答が、文脈からの説明ではなく、部分的なみことばを引用した。たとえば、マルコ13:35-37の「いつくるかわからない」や、マタイ24:37-41「片方が取られるのは携挙しかないじゃない?」など。

僕は携挙説について詳しそうな人にも色々質問しました。ただやはり、部分的な引用を並べたような返答で、「携挙神学の根拠はこの聖句」というものが多く、「聖書が何を語っているか」がなかなかわかりませんでした。

だんだん、僕の中で、患難前携挙は聖書から外れてる、トンデモ理論なんじゃないかと思うようになっていきました。ただ、否定をする決定的理由もなかったので、「よくわからない」という結論でいました。

ある夜、僕は恐ろしい夢を見ました。そこは、世の終わり。今まで見たことも聞いたこともない体験したこともない恐ろしい世界でした。

またある夜、こんな夢を見ました。僕の信頼するクリスチャン友達はすでに死んでいました。すると、天からイエス様が雲に乗って栄光の中で降りて来られるシーンでした。すると、死んでいた友達がピチピチの体でムクっと起き上がり、光り輝きながら笑顔の中こう言うのでした。「いやぁ、ほんまにあっという間やったなぁ」と。ここで目が覚めました。

そして、目が覚めた時、心にこのような言葉が残りました。「目を覚まして祈っていなさい。主の日は近いから」

あまりにも壮絶すぎて、目が冴えてしまい、そのまま電気をつけて、聖書を読み始めました。すると、マタイ24:42を見つけました。「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。」

僕はその夢を振り返りながら、あのシーンは携挙だという、なんとなくそういう確信だけが残りました。この夢のゆえに携挙を信じました。

なぜ携挙を研究するのか

なぜ携挙を研究するのか、二つの理由があります。①聖書から確信を得たい、②その確信を伝えたい。

聖書から確信を得たい

携挙を心では信じています。きっと、患難前にキリストは僕らを携えあげてくださって、栄光の姿に変えてくださるのだろう、と。

しかし、やはり聖書の文脈をちゃんと読むと、どうしても、患難前に来るような描写が見当たらない。指示された聖句も読み込めば読み込むほど、携挙の根拠として、どうしても脆弱なものに読めてしまう。いわゆるディスペンセーション主義の神学が先に来て、その後で付け加えられた聖句引用、という感じがどうしても拭えない。そんな状態でした。

例えば、「黙示録4章から始まる患難時代では教会という言葉が消える、これは携挙された証拠」と言われるが、「聖徒」(13:7)は登場し獣が聖徒に打ち勝つシーンもある。また、「教会」というワードがないからイコール携挙、というものも、黙示録だけ読んでいても根拠とは言い難いです。

また、第一テサロニケ4:14-17を引用し「これが決定的な携挙の根拠」とも言われるが、この「号令、御使のかしらの声、ラッパの響き、雲に乗って来られるキリスト」のワードはマタイ24:30-31のシーンとほぼ一致します。これは、文脈からほぼ患難の後の話です。29節で「そうした苦難の日々の後」とあり30節で「そのとき」とあるので、この箇所は患難後の再臨の描写でほぼ間違いないと思います。

まだまだツッコミどころがあります。しかし、ここでは控えます。

以上のことから、どうしても携挙の根拠を示してもらい、そこを読み込むたびに「ん、これは患難の後の話じゃないか」という答えに何度も行き着きます。

しかし、僕は諦めるつもりはありません。そう読めたとしても、必ず患難前携挙の「動かぬ証拠」があることを信じてます。

シンプルに自分の読みがまだまだ甘くて、その奥義に達せていないだけかもしれません。心ではこの奥義を信じて、知識ではまだまだ未知の真理。

僕自身も胸を張って「携挙はあります!」と言いたい。それは、神の真理を余すところなく理解したいからです。

"私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに与えてくださいます。"
テモテへの手紙 第二 2章7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ただし、本当に患難前携挙が間違っていると確信したら、心がどう思おうと、それを間違いだと言う覚悟もしてます。

僕は聖書の語ることはすべて、教会が完全になるために必要なものだと考えています。

よくこんなことを耳にします。「聖書の中心は福音。福音のために聖書がある。だから細かいことに執着せず、ただただキリストの死と復活だけ語っていればいい。再臨の話をするとややこしくて誰も信じない」

ほんとにそうだろうか。僕の疑問は①キリストの死と復活だけ語っていればいいのか?、②再臨の話をするとややこしくて誰も信じないのか?について。

これもまたどこかで取り上げますが、僕の答えは「再臨も福音」ということです。再臨を語らずして、死と復活の意味がなくなります。

また、細かい聖書の話は語る必要はないのでしょうか?であれば、聖書から除いてもいいはずです。神様は無駄話を聖書に盛り込んだわけですから。

確実にそんなわけがありません。聖書の真理は余すところなく語られています。そして、僕らはそのすべてを理解する力が与えられます。

ただし、求めなければ与えられません。

患難前携挙なのか、患難後携挙なのか。このテーマについては明確にする必要があると僕は考えています。

もし、聖書がこのテーマを本当に大切な奥義として語っているなら、それは明確であると信じてます。

そして、その確信は自分の主観に基づくものではなく、誰がどう見ても明らかなものだと信じてます。なんとなくそうだ、そんな気がする、直感がそう言う、ではなく「聖書が明らかに語っている」、そういうものだと思います。

僕は神の御思いに沿って、患難前携挙を明確に理解したい、そう願ってます。

その確信を伝えたい

教会はキリストの花嫁として完成する日が来ます。そのためには、キリストの似姿へと聖化していく必要があります。そのためには、神のことばの真理を知る必要があります。

これは「自分だけ知ってればいい」「指導者だけ知ってればいい」そういうものではないはずです。

神のことばは、曲解すべきではなく、またパウロもわざわざ教会にあてて、曲解の訂正をしてきました。これは教会の完成の日まで続く作業のはずです。

偉そうな物言いに聞こえてしまうことを承知の上で書きますが、やはり、真理は正しく伝える必要があります。曖昧なまま、なんとなくでは教会の前進はないと思います。

そういう考えのもと、僕は、携挙についての確信を得るや否や、それを明確に文に起こし、多くの人に精査していただき、誰がどう見ても明らかである状態で、この携挙の真理を伝えていきたいと願っています。

「再臨も福音」です。福音宣教のなかで、必ず伝えるべき内容です。僕は福音のために、この働きをしたいと思っています。

2024/05/29追記

預言を明らかにするために細かく調べた預言者たちがいたというみことばを見つけたので、こちらに引用します。

"この救いについては、あなたがたに対する恵みを預言した預言者たちも、熱心に尋ね求め、細かく調べました。
彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もって証ししたときに、だれを、そしてどの時を指して言われたのかを調べたのです。"
ペテロの手紙 第一 1章10~11節

聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

ぼんやりではなく、はっきり見たいと願った彼らに倣って、僕も、はっきり見えるように細かく調べていきます。

いいなと思ったら応援しよう!