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「与えない」を与える、ということ

最近、というよりもずっと前から、子どもに与えること、与えすぎることについて考えている。

たとえば新しいおもちゃを買うとき。
今どき百均なんかに行けば、子どもが喜びそうなものが溢れている。

大人の私が、それらを買うのはたやすい。
ちょろっと買って与えれば、子どもはパッと笑顔を見せてくれる。

長時間の移動時にいいかと買った電車のシールブック。
一回きりしか遊んでいない小麦粘土。
あるいは、ハンバーガーについてきたおもちゃたちなんかも。

そういったものはしかし、こと我が家の場合、本当のお気に入りになることはない。
ちょろっと与えたものは、気づけば全く顧みられなくなっていく。


良かれと思って気軽に買い与え、そしてあっという間に見向きもされなくなったものたちを見ると、私はひどく恥ずかしく、居心地が悪くなる。

それらを欲しかったのは息子ではない。
ただ自分が与えたがっただけなのだ、という事実を目の当たりにするからだ。

2024年に生まれた子供は、ついに70万人を割り込みそうだという。

そのニュースと、ここ数年の極端な少子化のグラフを目にしたとき、私は、少し前にSNSで見かけた言葉を思い出した。

「奨学金を借りているような人とは、結婚するなと親に言われた」

これが稀な話かというとそうでもなさそうで、
「結婚してから、相手が奨学金を借りていることを知ってショックを受けた」とか、
「大学までの費用を全部出してあげたいから、一人っ子にしないと」とかいう話も、割と見かける。

私も夫も奨学金を借りていて、結婚する際には、二人して繰り上げ返済をした。
私はそんな自分たちをちょっぴり誇らしいとさえ思っていた。

だから奨学金を借りて大学に行く学生とその家族のことを、端から許容できない人がいることを知り、少しばかりショックを受けたのだった。


子どもを育てていると、人間は、自分が「与えられた以上」のものを与えたい、そういうものなのだと痛感する。

大学に行けなかった親は、大学に行けるように。
大学に行けた親は、奨学金がなくても行けるように。

大学の費用まで準備できた親は、子どもにより良い環境を与えようと私立の高校や中学、小学校、幼稚園を検討し、
同じような階層の人と結婚し、お金に苦労しないでいてほしい、と願う。

私たちも今まさに、必死に二人分の学費を貯めているところだし、三人目を考えた時も、真っ先にお金のことを考えていた。

だけどふと、寝かしつけをしているときなんかに考えるのだ。

私たち親は、一体どこまで与える責任があるのだろう。
そして「与える」ことはいいことのようで、実は「奪うこと」と表裏一体なのではないか、と。

高校受験しかしていない私たちは、子どもの中学を「公立でもいいか」と思えるけれど、もし、子どもに中学受験をさせてしまえば、子が子を育てるときに「中学受験をさせてやらなければならない」と思うかもしれない。

あるいは、地方出身の私たちは、便利で整った街を「ここも素敵、だけどもう不便な街でも十分」と思えるけれど、美しく綺麗な街で育てれば、その子どもは「最寄りにスタバがない駅には住みたくない」なんて思うのかもしれない。

良かれと思って与えたことが、与えられた側にとっては常識となっていく。

それが孕む窮屈さや苦しさ、許容できなさを、一緒に植え付けてしまうかもしれないということに、うっすらとした不安を覚えるのだ。


私の祖父は木こりで、その家はとんでもない山の中にある。
そこで育った父親は、夜間大学を伯父の援助を借りて卒業し、鉄工所で勤め上げた。
母も色々あって苦労人で、親戚の助けもなく、働きながら子供を育て、資格を取った。

両親は贅沢せず、節制を重ね、私と兄を国立大学に入れた。

酒もたばこもパチンコもせず、夜にはインスタントコーヒーをいれて、一袋百円のお菓子を嗜んだ。
夏場はたまに、100円のわらび餅を家族で分けるのが楽しみだった。

うちにはサンタも来なかったし、誕生日ごとにプレゼントをもらうこともなかった。

友達がつけている飾りのついたヘアゴムが欲しくて、随分ねだり倒して買ってもらったと思ったら、
一つだけ買ったそれを母がハサミで切って飾りを半分に分けて二つのゴムにしてしまい、そのケチさに号泣したこともあった。

子どもながらに我慢したことは多々あるけれど、テレビでお宝鑑定団を見ながら「うちにも何かないの」と聞けば、「うちの宝物はここにいるやないか」と揃って言うような両親でもあった。

もし40年前に、「奨学金を借りさせるのは論外」「大学を出せないなら産むべきではない」といった意見が幅を利かせていたら。

責任感の強い両親、そして義両親のことだ。私も、そして三兄弟の末っ子である夫も、生まれていなかった可能性が高い。

そう思うと、裕福でないけれど子どもが欲しい、やっぱり子どもが可愛いと、二人目、三人目を産んでくれた両家の親たちに、そのちょっとした無鉄砲さに、ただただ感謝をするしかない。




つい忘れそうになってしまうけれど、
親が子どもに与えられる一番大きなものは、高価な教育でも、モノに満ち足りた生活でもなかったはずだ。

まず第一に、命を、人生を、与えること。
第二に、その命をただ大切に、試行錯誤、四苦八苦しながら、親なりに大切に育てること。

何をおいても、この二つが、突出して大きいのだ。


そういうふうに考えてみると、世界が一気にシンプルになり、育児の判断基準に占める「自分の意見」と「子どもの意見」の割合が、ぐっと濃くなるような気がする。

たくさん話して、抱きしめて、様子を見て、あとはもう、なるようになる。

必要なものは力の限り与えるし、お金が無限でない以上、諦めてもらうこともあるだろう。

そういうこともひっくるめて、一緒に家族をしていきたい。
子どもが選んで生きていく世界を、受け入れ、一緒に楽しみたい。


そうやってシンプルにそぎ落としていった先に、それでも与えたいと残るものは、きっと人によって違うのだろう。

私の場合は、自由と決断、どんな場所でも生きられる振り幅。
できれば、葉っぱが揺れるのを気持ちいいと思う気持ち。

ここには、私の親の影響が多分にある。
そしてきっと、その親、その親の親からも。

ずっと続いてきたものの先っぽに、私たちはちょこんといる。ちっぽけなものだ。

なにも気負いすぎなくていい。

どっしりと構えて、人と比べず、楽しく家族をやっていければ、それでいいはず。
この気持ちを握りしめて、明日からも家族をやっていく。



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黒木郁
私の、長文になりがちな記事を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。よければ、またお待ちしています。

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