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孤独とポーカーフェイス

でっかい使命を果たすため、密約を胸に、敵陣営に入り込む。味方の眼をも眩まして、勝負の時を静かに待つ。仲間がどんどん死んでいき、自分ひとりが残されようと、最期まで孤独に闘い続ける——

そんな強すぎる生き方できんわ!!と卒倒しそうになりながら、私はなおも、その男に憧れを抱かずにいられない。

山本周五郎が時代小説『樅ノ木は残った』で描いた、原田甲斐という人物について紹介したい。


『樅ノ木は残った』のストーリーを簡単に説明すると、時は伊達政宗の子どもたちの代。江戸幕府と結託して仙台藩を乗っ取ろうとする悪人【一ノ関】=伊達兵部(宗勝)の一味と、なんとしても仙台藩を守り抜きたい【涌谷】=伊達安芸(宗重)、【松山】茂庭周防(良元)らの陣営との攻防戦だ。(この話は同一人物を「姓名」「領地名」「役職」で呼び分けるのでたいへんややこしい。しかも役職が地名)

【船岡】原田甲斐(宗輔)は、もともと一ノ関派の悪人とされていたのを、山本周五郎が新解釈で「じつは涌谷派が送り込んだ刺客だった」と設定したのがこの物語である。


さて、

まずは原田甲斐の話をする前に、『樅ノ木は残った』に登場する「よわい男ども」を少し紹介したい。

ひとりめは、渡辺七兵衛。【一ノ関】の引き起こした「暗殺事件」の下手人のひとりだ。物語中盤で、敵対する涌谷派の武士・伊東七十郎が、歩きながら声を掛け、近ごろ七兵衛が昇格して家禄が増えたことをおだてると、七兵衛は「冷淡に会釈を返す」のだが……

 ——あまい野郎だな。
と七十郎は心の中で思った。会釈の返し方は冷淡だが、少なからず得意に感じたことは、その表情に隠しようもなく、あらわれていた。こういう単純さがもっとも危険なんだ。
(第三部)

出ちゃうよねえええ顔に!!!

敵陣営の人間を安易に信用してはいけない、相手にしてはいけない、冷淡な対応を貫くべきと頭で分かっていても、うれしいことを言われたり、特に「周知されていないけれど実はうれしいこと」を知っている人に指摘されたら、つい喜んでしまう。

弱い。

まじめで、盲目的に上に仕えるだけの「忠誠の士」は、おなじように単純に操られてしまう危険を孕んでいる。


ふたりめは宮本新八。七兵衛たちに兄を殺され、十代で逃げ出し放浪。その間、柿崎六郎兵衛とその妹にいいように利用され、女癖を崩してどんどん堕落していく。町外れの風呂屋で遊んでいるところを同心に踏み込まれ、偽名を名乗るも「でたらめだな」と即看破され、連行。最後には原田甲斐のもとで一切合切を話すのだが……

新八は話した。彼はすべてを語った。六郎兵衛との関係はもちろん、おみやのこと、お久米のこと、湯女を買いにゆくため、石川らの道場の金をごまかしたことまで、誇張もしないが、少しも隠さずに語った。ふしぎなことに、とうてい口には出しかねるような、恥ずかしいことを告白しながら、新八は却って、解放感とやすらぎを感じ、自分が清められるようにさえ思った。
(ながれの中)

感じるよねえええ解放感とやすらぎ!!!

自分が悪いことをしたと分かっていて、でもその「悪」から逃れることはできなくて。その秘密を懺悔することで「清められるようにさえ」思う錯覚。実際は喋ったところで何一つ解決していないのだけれど(実際新八はこのあと、塩沢丹三郎という若者に、烈しい怒りと侮蔑の眼で見られ、落ち込む)。

最終的にバッドエンドではないのだけれど、作品を通じて、宮本新八とその取り巻きの人々は、人間の「弱さ」をぼんと突きつけるような描かれ方をしている。しんどい。


さて、

ここから対比的に、原田甲斐の姿を見ていきたい。冒頭、さきほど登場した伊東七十郎が、暗殺事件の真相はこうではないか、という自説をロジカルに展開し、甲斐につきつける。

「[中略]ねえ、そうでしょう原田さん、あなたはそれをご存知の筈だ」
 甲斐は「う」といって彼を見た。
「なにか云ったか」
「あなたは、——」
 七十郎は盃を置いた。甲斐は静かに彼の眼をみつめた。あたたかい光を讃えた、静かな視線であった。七十郎は眼をそらした。
「あなたにはかなわない」と彼は云った、「だが……[中略]

甲斐が云った、「やっぱり七十郎は酒が足りないようだ。おくみ、おまえ酌をしてやらないか
「痛いですか原田さん」と七十郎は云った。
 甲斐は穏やかな眼で彼を見た。
「痛いんですね」と七十郎は唇で笑った、「しかしもう少し言わせてください、[中略]——なにか仰いましたか」
 七十郎は甲斐を見た。甲斐はよそ見をしたまま「いや」と首を振った。
(第一部)

徹底して穏やかな挙措である。

ちなみに私は伊東七十郎の切れ味のよさにも心底惚れているのだが(彼の方が今の自分の系統には近い)、七十郎にどれだけ切り込まれても、原田甲斐は穏やかさを崩さない。「ちがいますか」と訊かれても、訊かれたことをそのまますぐに答えようとしない。人に酌をさせたり、話の腰を折るようなことを言ったり、無関心を装ったりして、はぐらかす。ほんとうに「興味が無い」ような態度を取る。

自分が素直に回答すべきとは捉えていない。「あなたはそういうことを考えていて、そういうことに興味があるんですね」と、切り離して、神の視点で捉えているふしがある。

そして眼は優しい。眼が、この辛辣なやりとりの底に、愛と信頼が流れていることを担保する。だから原田甲斐は基本愛されキャラだ。上っ面だけを追っていては全く読めない、しかし本当に甲斐を知る人には、心から信頼されている、そんな人物である。


中盤、おなじ伊東七十郎が甲斐を問い詰めるシーン。

「原田さん、あなたの本心を聞かせて下さい、あなたは茂庭さんとの盟約を守っているんですか、それとも一ノ関の与党になったんですか」
 甲斐はこすっている手指を見ながら、そのどちらでもない、と答えた。
「どっちでもないんですって」
「そう、私は私であるだけだ」
「不偏不党ということですか」
「私は私だというのだ」
[中略]
「もしその盟約が事実だとしたら、ほかへはもれないようにする筈だ」
「ほかへもれたんですか」
「現に七十郎が知っている」
「私がですって、——あなたはこの七十郎を、そんなふうにみているんですか」
「私はどんなふうにもみない」と甲斐は穏やかに云った、「私は憶測や疑惑や勝手な想像で、人をみたり商量したりすることはしない、誰に限らず、なにごとによらず、私は現にあるとおりをみ、現にある事実によってその是非を判断する[後略]」
(ささやき)

「現にある事実」を目の前にしない限り、是非の判断はできないという強烈な信念。この信念により、「噂話」的な二次情報を当てられても動じない。「YesかNoかの回答をしなければならない」という縛りから解放され、「回答すること自体に本質的な意味がない」と達観することで、巌のような穏やかさを保っている。甲斐自身が当事者であることがらでも、甲斐が自ら「現にある事実」であることを証明しない限りは、すべては憶測、疑惑、推測のままだ。


少し場面変わって、柿崎六郎兵衛が、甲斐に秘密情報を売りつけにくるシーン。

そのとき甲斐は、手で口を押えながら欠伸をした。
「御退屈ですか」と六郎兵衛は甲斐を見た。
[中略]
 けれども甲斐は冷ややかに、しかもそっぽを見たまま云った、「それは聞くには及ばない、私には関係のないことだし、興味もない」
[中略]
 甲斐はまったく無関心に、手をあげて自分の指を眺めた。
[中略]
 甲斐は立ち上がった。
「原田さん」と六郎兵衛が云った、「私は代償など求めてはいない、初めはそのつもりもあったが、いまは違う、あなたに会ってから私は考えが変わった、私はあなたの役に立ちたい」
「丹三郎」と甲斐が云った。
「お願いです、原田さん」
「丹三郎」と甲斐がまた云った、「客が帰られるぞ」
(山彦)

取り付く島もない態度の見本市である。ひとっかけらも関心を見せない(話を聞いている時点で一部の関心はあるけれど、六郎兵衛の手には一切乗らない)。

私は特に、懇願する六郎兵衛に対して、付き人の塩沢丹三郎を呼び、「客が帰られるぞ」と言い放つ冷酷さが見事だと思った。まあ柿崎六郎兵衛という男は、そういう扱いをされるのが順当に思えるクズ野郎なのでいいんですが、作中で原田甲斐はけっこう味方にもこういう態度をやっちゃうので、すんごいいろんなひとを傷つけるのだ。元妻の律は絶望させるし、後半はこの姿勢で密約を守り続けるため、どんどん味方が離れていく。

ここまでやらんでええやろ、というのと、でもこの冷酷さでもって密約を守り続けなければならないのが甲斐の決めた信念であるので、その葛藤に悶えながら、終盤を読んでいくことになる。


伊東七十郎の親族、【小野】伊東新左衛門の死の床で甲斐が交わす会話。

「ただ、最後に一言、一ノ関を除くと云ってもらいたい、一ノ関のことは引受けた、それだけを、一言、聞かせてくれ」
「少し落ち着くがいい」と甲斐が云った、(中略)
「云ってはくれないのだな」
「言葉が役に立つか」と甲斐は云った、「小野が求めるとおりのことを、私がここで誓言したとして、それで小野が満足するか、満足すると思うか」
 新左衛門の眼が、甲斐をみつめたまま動かなくなり、甲斐はその眼に頷いた。心をかよわせるように、頷いて、それから、ゆっくりと首を振った。
(隻手砕甲)

云ってはくれないのだな!!

しかし甲斐が言うとおり、言葉は何の役にも立たない。安心させるようなことを言う、それで死にゆく人は安心するかもしれないが、甲斐が本当は一ノ関の敵であることを絶対に口に出してはいけない立場なのである。現実的に内通者が聞いている可能性もあるだろうし、そうではないとしてもリスクがある限り秘匿し続けることを基本スタンスとしている。


作品の終盤では、密約の主体の一人である茂庭周防が先に逝き、残された甲斐は秘密を誰にも言えないまま、仲間がどんどん死んでいく現実を受け入れていく。最後の勝負所は、Kindleの進捗%で言う所の98%ぐらいまで引っ張るので、終盤はほんとうにきつい。甲斐の死後、原田家の一族は(史実通り)乳幼児まで全員切腹・斬首・他家預けとなり家は滅びる。それよりも大きな「仙台藩62万石安堵」という大使命を果たしきった勇者として、原田甲斐は描かれるのだが……


あれ、これ憧れていいやつなのかな???


でも私が原田甲斐から学ぶことは大きくふたつあって、

ひとつは「言葉の重み」——言葉が伝えること、言葉が伝えないこと、伝えるべき言葉、伝えてはいけない言葉。それらをすべて正しく見極めて、いつも穏やかに、言葉をコントロールしていたい。

そして

もうひとつは「孤独の苦しみ」——何かの大きな目的のためにあえて孤独を選ぶとしたら、『樅ノ木は残った』の終盤で、甲斐が心折れそうになりながらも向き合い続けた苦しみを味わう覚悟をしておきなよ、ということ。


孤独はつらいよねえ。孤独を選ばなくてもいい時ならば、自分もまわりも苦しまずに生きていける、そんな立ち振る舞いを、選んでいきたいと思う。

けれど、孤独に耐え続けるポーカーフェイスと強さへの憧れは、ずっと抱いていくんじゃないかな。


おわり。


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illy / 入谷 聡
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