誰のために「書く」のか? ーわたしが「書く」理由ー
書くのが純粋に楽しかったころ
記憶が正しければ、6歳ごろから手紙やお話を書き始めている。
とにかく、紙に向かって何かを書くのが好きな子どもだった。物語を書くと、自分の世界が広がって楽しかったのを覚えている。
だから、習字も楽しく通ったし、今でも丁寧な字を書けるのは、そのころの経験があったからだと思っている。
友達同士、お話の交換日記をしていたこともある。とにかく書いていればよかったし、本を読むより圧倒的に書くほうが多かった。
小説の書き方(らしきもの)を知る
わたしにとって書くという行為は、自分の内なる感情を整理するためのものでもあった。それが分かったのは、高校を卒業したころだろうか。
小説のような、読ませる物語を書くための訓練は大学で、また結婚してからは、書くことを応援してくれる主人のアドバイスがあって培われた。
数多くの新人賞に投稿もしたが、いま読み返してみるとやはり中身は薄い。受賞には程遠かったのも納得である。
何が足りなかったのか。
それは「とがった」あるいは「特徴的」な書き方だ。
万人受けしよう、と思っていたわけではないが、話を読んだ人に「私」という書き手のいい印象が残るよう、きれいな表現にこだわっていた。
何しろ、友人、親せきも描いていることは承知していたし、応援もしてくれていたので、万が一にもデビューした場合は読まれる。要は、読んでくれる身近な人の評価を気にしていたのだ。
新人賞というのは、これまでなかった文章を書く人間を選び出すための賞だ。きれいだとか、丁寧だとか言った文章を書いたところで選ばれない。
賞のイメージに合わせて文体を変えようと試みたこともあるが、当然いきなりうまく書けるはずもなく、かえって読みにくく、自分らしさはかけらも表現できなかったように思う。
文章表現が「自分のため」から「伝えるため」へ
子どもが生まれてからの数年間は、小説を書くまとまった時間はほとんどなくなった。物語を書くためには、集中して一人になれる時間が必須だからだ。
それでも、やはりときどき思い出しては書き進めてきた。書くことは私が生きる上で欠かせない行為であることは変わりないようだ。
病気を気に、「今、ここ」「人生に悔いを残さないよう、毎日全力で」と心に決めた。
ライフワークの筆文字と色鉛筆画のメッセージカードもその一つだが、最近は小説も再開しようと思い始めている。
以前は「今流行りのテーマだから」とか「ウケそうだから」と書き始めていたが、それはつまり「自分の利益のため」であった。今は「伝えたいこと」のために書きたいと思う。
「誰かの笑顔のためにこれをしたい。たとえ見返りはなくても」と思えるようになったのは大きい。
貢献感、あるいは感謝する気持ちは、以前の記事にも書いたように自分の気持ちをも幸せにしてくれる。自分のため、利益のために行動しているときには感じなかった、不思議な感覚である。
noteでこうして書いているのも、「伝えたいこと」があるからだ。
多くの方が気付いていることかもしれないが、30代にしてようやく悟った私。これからはどんどん「伝えて」いきたい。
読んでくださる方に、少しでも「気づき」や「幸せ感」をお届けできたら幸いである。
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