人一倍敏感な子どもの子育て #8 競争は必要か?
先日学校で、学級の親子が集まっての懇談会がありました。
親睦を深めたり、体を使ったりする機会にしようという趣旨のものでした。
そこで行われたのが、クラス対抗競争。
クラスごとの親子で競うわけですが、問題はここです。
親子や、級友と楽しく過ごす時間であればよいはずなのに、「競争」することで一体何が生まれるでしょうか?
級友が「敵」になる
結論から言えば、級友が「敵」になります。ライバルではありません、敵です。
勝つと嬉しいですよね。それはなぜでしょうか? 相手を見下せるからです。優越感に浸れるからです。
負けると悔しいですよね。なぜでしょう? 相手より劣っていると感じるからです。個人の能力が劣っているわけはないにもかかわらず、です。
ちなみにうちの子は、チームが三連敗して泣きました。よほど悔しかったようです。つまり、自分が劣っていると感じたということだと思います。
アドラー心理学では、競争原理を推奨していません。
それは「縦の関係」だからです。「縦の関係」からは他者を敵視することしかできなくなります。常にだれかの目を気にしなければならなくなり、他者の評価によってしか自分を見れなくなります。つまり、「他人の人生を生きている」のと同じことになるのです。
この例に限らず、社会に出れば必ず、順位付けの中で生きていかなければならなくなります。「努力すれば一番になれる、だから頑張ろう」と尻を叩かれ、勉強させられる。
残念ながら、この世の中は優劣をつけるようにできています。
大人は子供を支配したい
学業を頑張れば、結果、一番になれるかもしれません。しかし、学校の試験で一番(例えば100点)をとったとしてもその場限りの優越感に浸れるだけ。あるいは、先生からの評価が上がるだけです。
実は私自身がそうでした。
親や先生に認められたい。頑張れば褒めてもらえますから、とにかくテストでよい点を取れるよう、通知表の評価が少しでも良くなるよう、日々コツコツと勉強に励んでいました。
しかし、先に書いたとおり、その場限りなのです。
テストが終わったら、勉強したことは全部忘れてしまいます。そしてまた次のテストの時にだけ勉強して暗記する(←そう、暗記です!)。ひたすら評価を気にする子供時代で身についたのは、机に向かうのが苦ではなくなったことくらいです。
別の記事でも書きましたが、大人は子供を支配したいのです。従順でいてほしい、自分の権力をふるえるように大人しくしていてほしいのです。
だから褒めて承認欲求を満たす。満たしてあげることで他者の(自分の)思うとおりの人生を生きさせる。しかも無意識のうちに行われているのが怖いところです。
「ふつうであることの勇気」を持つ
アドラーは、競争原理ではなく、協力原理を働かせなさいと言っています。つまり「横の関係」を築けということです。
他者はみな仲間、という意識です。
個々の能力が違うのは当然のこととして認め合う。認めたうえで、それぞれの不足部分を補い合うのです。大人も子供も関係ない。みな、対等の立場です。
競争原理の中で生きるということは、集団の中で自分が「特別でありたい」と常に望むことです。そのためには一番を目指すし、いい子(先生や親の言う通り)にもなろうとするのです。ですがそれでは自分が失われてしまいます。
協力原理の中で生きていくことができれば、集団の中で特別である必要がなくなります。どんな性格でも、どんな能力があろうとも、「私は私」であり、それでいいのだと思えるようになるのです。
他者に価値を認めてもらうのではなく、自らが自らの価値を認める。そうすることで初めて「自立」できるのです。
学校教育の現場で変わってほしいと思うこと
ぜひ、学校でもアドラー心理学の思想を広め、実践していってほしいと思います。
これまでのやり方は、人を人として見ないというか、弱い者いじめを助長する教育だといってもいいと思うのです。
いじめがしばしば問題になっていますが、それもこれも、学友と競わせ、優劣をつけるからそうなるのではないでしょうか。特に子供は力社会ですから、「かけっこで一番早い」とか「テストで一番をとった」とかいうことでクラスでの地位を獲得し、劣った子供をさげすみ、いじめに発展する。自分の子供時代の経験からもそうおもいます。
アドラー心理学をご存じない方や、いまいちわからないという方には理解されにくい内容だったと思いますが、他者との比較ではなく、昨日の自分との比較で人は成長していけるのです。学校もかつてよりは個を重んじるようになってきましたが、もっともっと協力し合える人間作りに力を入れてほしいなと思います。