大人だから泣いていいとか
おととい、祖母が他界した。
祖父母の類の中では、一番思い入れが強い祖母。
高齢者なりの色々は抱えていたものの、年齢からすれば(享年90)、要支援認定もされていない程にしっかりしていた。
元気だった!と言いたい所だけど、控えめでおとなしい性格だったせいか、元気という言葉が祖母には似合わないので、このくらいに。
秋田の小さな村の集落で暮らしていて、車椅子になった(のに、頭がしっかりしすぎている)祖父の面倒を見続けたこの10年程。
むつかしい性格の祖父は、なかなか外部の支援者を受け入れられず、ずっと祖母に頼っていた。
祖母が腰痛で手術をした後も、早く帰って来いと怒っていたほど。
祖母が帰りたくない、とこぼしたのはその時が初めてで、その前にも後にも祖父に歯向かう様な事はなかった。
そんな入院生活から帰り、雪解けの時期を待ってから歩行訓練のリハビリをしようと前向きに生活していたそう。
このお正月にも、今回集まった親族の殆どが祖母と電話で話していた。
大人しい人ではあれど、電話越しの声はいつも明るい印象が残っている。
そんな祖母が、突然、空へ向かってしまった。
お風呂場での事故死。
祖父はその後、泣き続けていたそう。
私は知らせを聞いてから、2人の姉と都合を合わせ、先に向かった両親の家を片付け、翌日の始発に飛び乗って新幹線で秋田へ向かった。
一番上の姉はむつかしい事情を抱えていて、会うのは何年振りかだった。
姉妹が揃ったのは忘れてしまうくらい前の事。
それでも私たち3人は、4時間弱ある新幹線の中で会話が尽きず、子供が遠足に行く時くらいの小さな期待みたいなのが湧いていた。
幼い頃から3人集まると笑いが絶えないのは変わらなかった。
祖母は、綺麗な状態だった。
遺体を見るのは初めてで、直前までスタンドバイミーを思い出していた。
だけど顔を見た一瞬で、想像していたのと全然違うのだと静かに悟った。
そこにいたのは、遺体ではなくて、おばあちゃんだった。
目も口も動き出してもおかしくないし、それを望みたいんだけど、心のどこかでそんな事が起こったら叫んでしまうんじゃないかとか、想像の先に僅かな恐怖心があった。
そして集まった皆んなが少し気を遣いながら口々に、どこか前向きになれる言葉を発していた。
祖母とはほんの数日前に話した人ばかりで、あの時こうしていれば、なんていう後悔や、やっと楽になれただろう、という励ましや、何十年も良く頑張り続けていた、という褒め言葉なんかを思い思いに話しているのを聞いて、私は、ああ、何を言っても届かないんだよな、とふと現実に帰ってしまった。
夫が死んで7年になる。
最後に連絡を貰ったのは多分私で、その後何度も、後悔と励ましと褒めを繰り返した。
そして私なりに出した答えは、何を考えても届かないということだった。
今回、それを改めて確認する様な気持ちになった。
私はたぶん、冷酷な人間ではない。ただ、単純な事実というのを見た方が楽になる時があるというだけの事。
祖母は冷たくて、それはよく聞く、ヒトが冷たくなっていく、という文字の羅列以上に心に流れ込むものが多い事実だった。
ヒトだったそれが今はモノとして横たわっていた。
そしてそのモノの前で泣く2人の姉を見て、涙が出ない自分は悪者なのだろうかという罪悪感が生まれた。
私は幼い頃から泣かない子供だった。
二十歳ごろ泣く様になった時は、いつでも1人だった。
もう少し歳をとった時にようやく、酔っ払っていたり、信頼している人の前で泣ける様になった。
幼少期の生い立ちが影響しているであろう事は何となく分かるのだけど、泣けなくて困った経験もないので真面目に悩んだ事すらない。
祖母の前で見えた事実に、涙が出なかった。
そして自宅に戻り、そんな一日を丁寧に思い返していたら、祖母の寝顔が脳裏を離れず、私はワンワン泣いた。
大好きなおばあちゃん、どうか安らかに眠って下さい。そしてどうかこの想いが届きますように。
人は勝手に理由を欲しがる。
簡素に言語化できる動きを重ねた生き方に理解を示す人は多いのだろう。
でも私の人生はたびたび、理由付けに意味を持たない様なヨクワカラナイ複雑に出会う。
それは私にとって、結構悪くない事なのだ。