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『世界は僕を拒む』②
高橋さんの車は吊り下げるタイプの芳香剤が1ヶ月に一度取り替えられる。今月はバニラの香りで僕には甘すぎたから少しだけ窓を開けた。
「お父さん達、何してるんだろうね」
「さあ」
「お仕事忙しいのかな」
車窓から覗く空は透き通った青空で眩しいほどだった。
「僕、こんな時間に外に出たのは久しぶりかもしれない。最近工場で缶詰状態が多かったから」
入り込む柔らかい風が心地が良くて僕はいつの間にか眠りについていた。
「ほら、ついたぞ。必要なもの持ってこい」
高橋さんに肩を揺すられ目を覚まし、僕は車を降りて家へ向かったが、なぜか玄関の前で足が止まった。
「今日からしばらくこの家には帰らないんだ」
改めて、生まれ育ったその家をじっくりと見上げた。冷静に見れば立派な一軒家だ。隣接する家と比べても大差のないごく普通の家に見える。僕が呆然と立ち尽くしていると、後ろから
「大丈夫か?」
と、高橋さんの声がした。
「大丈夫」
僕はドアを開けて自分の部屋へ向かった。
リュックサックに荷物をまとめ車に乗り込んだ。
「そんなもんでいいのか」
「十分だよ」
車が動き出すと芳香剤も左右に大きく揺れた。僕がそれを目にしてから窓を開けてしまったので
「この匂い嫌いなのか」
と高橋さんにバレてしまい、とっさに笑ってごまかしたが、高橋さんはそれを外しゴミ箱に捨てた。
「ごめんなさい」
僕がそう言うと、新しい袋に入ったままの芳香剤を僕に手渡し
「俺も甘ったるくて嫌いだった」
と言ってくれた。僕はその新しいペパーミントの芳香剤を袋から取り出し吊り下げたのだが、先ほどのバニラと混ざり合いそれはそれは不思議な香りだった。しばらくすると高橋さんは窓を開けた。
僕の家から約30分走り、高橋さんの家に着いた。高橋さんの家は14階まであるマンションの8階の角部屋だ。1LDKの部屋で一人暮らしの部屋にしてはそもそも広いのだが、家具もシンプルで無駄なものが何一つないその部屋はさらに広く感じさせる。
「僕、どこ使っていいの?」
「好きに使え」
高橋さんはコーヒーを入れるためにお湯を沸かし始めノートパソコンを立ち上げた。僕はリュックサックをソファーの横に置き、高橋さんの向かいに座った。
「高橋さんの家、改めて見ても広いよね」
「まあ」
「1人で寂しくないの?」
「寂しくない」
「僕は1人で眠るだけで寂しかったんだよ」
「俺は大人だから」
「僕は子供?」
「そう」
高橋さんは立ち上がりコーヒーを入れ、僕には麦茶を注いでくれた。
「ありがとう」
高橋さんはノートパソコンの中で仕事をしている。どんな仕事をしているのかは知らないがいつも難しそうな顔でその画面を覗いているから、なるべく邪魔をしないように心がけている。僕はただじっと座って高橋さんの仕事が終わるのを待っていた。
高橋さんの仕事が終わる合図はノートパソコンを勢いよう閉じる音なのだが、今日はその音よりも先に高橋さんの口が開いた。
「さっき、家の前で立ち尽くしてたろ」
「うん」
「何を考えてた?」
高橋さんのコーヒーはすっかり冷めているがまだマグカップには半分以上も残っている。高橋さんは冷めたコーヒーは飲まないから勿体無いなと少しだけ思っていた。
「なんとなく、もうここには来ないんじゃないかなって思って目に焼き付けようと思ったんだと思う」
「お前、俺の家居座るつもりか?」
「そんなんじゃないよ。ただ何となく。直感」
「そうか」
「初めてあんなに家をじっくり見たよ。案外普通の家だよね」
「そうだな」
「本当に僕が働かなきゃ行けないほど、お金無かったのかな」
「働いていること後悔してるのか」
「そんなんじゃないって」
「明日、学校へ行け」
「え?」
「送ってあげるから」
高橋さんは立ち上がるとやっぱりコーヒーを捨てた。
「そんなこと言ったって、僕、制服も教科書も持ってない」
「入学式から行ってないんだから当たり前だろ。全部学校に置きっぱなしなんだからちゃんと貰ってこい」
今はもう6月。中学校にはまだ一度も行っていなかったから不安と緊張で心臓の音がバクバクと鳴り始めた。指先が震えるような感覚もあったが、僕の口からは
「ありがとう」
と言う言葉が出た。高橋さんは驚いたのちに僕の頭を強くクシャクシャと撫でた。
僕は明日から中学生になる。