一隅を照らす~荒野に希望の灯りをともす~
年末に「荒野に希望の灯りをともす」というドキュメンタリー映画を見た。
アフガニスタンで用水路を拓いた、医師・中村哲さん。
精神科の医師でありながら、アフガニスタンに用水路を拓き、砂漠を緑の土地に変えた人。多くのアフガニスタンの人の命を救ったひと。
私がまだ学生の頃、大学に講演に来られていたのをちらりと覗いたことがある。
超満員の九大の講堂は熱気むんむんで、当時はまだ医師としての活動をされていたころだろうか。それとも、井戸を掘り始めたころだろうか。2000年より少し前のことだ。
中村さんの偉業は本当にとてつもないものだ。
医師として、そして用水路を拓いて、一体何人、何十人、何十万人の人の命を救ったのだろう。
でも、その一歩一歩は本当に泥くさく、ぬかるみを歩くような、普通なら投げ出したくなるような、過酷なもののように見えた。
そもそも、医師なのだ。
用水路の作り方なんて知るわけがない。
感謝もされない。拒否される。「どうせあなたたちは好きな時だけ支援して、そしていなくなる。私たちの暮らしをめちゃくちゃにする。」と。
不平不満とあらゆるものが足りない環境で、死が隣り合わせの日々。
日本国内では血のつながった息子が病気と闘っている。言葉の一つもかけてあげられない、一緒に遊んでやることもできない父親としての葛藤。
病気の原因は干ばつとそれに伴う飢餓だから、と1600か所を超える井戸を掘ったのに、またすぐに干上がってしまう。挫折に次ぐ、挫折。
「百の診療所より一本の用水路を」
そんな中で、現地の病院は仲間に任せ、土木工学を一から学んで試行錯誤が始まる。医師としての自分を投げ捨てて、「自分が得意なこと」でも「自分にできること」でもない用水路の建設。
「まるで賽の河原のように、造っては崩れ、崩れては改良した」
途中、9.11が起きる。国際社会をアフガニスタンは敵に回し、工事中に機銃掃射されたりもする。命の危険にさらされてもなお、諦めない。見捨てない。
「ただ、ほっておけなかった。そうとしか言えないです」
と。
2010年。
7年の月日を経て、マルワリード用水路が完成した。
2019年12月4日。
凶弾に倒れる。
***
食べるものもない、アフガニスタンの荒野に灯された希望の灯りは命の水。一本の用水路であっただろう。
そして、荒れ果てた人の心に灯った灯りは、用水路を自分たちの手で拓き、『自分たちが国を守る。』という達成感や自信だったに違いない。
圧巻は、映画のラスト数分で紹介された中村さんが建てたマドラサに響く祈りの音。
その音色は、文化的に破壊しつくされたアフガニスタン人の魂の荒廃を潤し、癒すものだったはずで。伝統を繋ぎ、文化を育み、よりどころになるであろう場所。
コーランを教える大人の誇らしい姿と子どもたちの笑顔が、中村さんの全ての偉業を象徴していたような気がして、私はここに本物の「希望の灯り」を見た。
***
「一隅を照らす」
とは、中村さんが生前好んで書いていた言葉だそうだ。
一隅とは、片すみという意味。
天台宗の開祖、最澄の言葉で、
「一隅(いちぐう)を照らす、これ則(すなわ)ち国宝なり」
片すみの誰も注目しないような物事に、ちゃんと取り組む人こそ尊い人だ」という意味だ。
わたしにとっての「一隅」は何だろう。
あなたにとっての「一隅」は何だろう。
今、いる場所で。
そして、今はまだ見ぬ場所で。
できることとか、今持っているものとか一切関係ない。
小さくても、へなちょこでも、どこにいても
「一隅を照らす」
そんな人でありたいと思う。