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矛盾する健康情報のなぞ

私は、長く、いろいろな健康情報を読んだり、実践してきました。サプリメントなども、飲んだことはありますが、特に、食事法については、試したものが多いです。

一時期は、乳製品や、卵をほとんど食べなかったり、ベジタリアンに近かった時もあります。玄米食べたことも、グルテンフリーも、コーヒー断ちもしました。

色々、調べていて、困るのが、ある一つのことが正しいという説があると、しばらくすると、それは間違っているという説に出くわすことです。

例えば、納豆。納豆について、体に良いという話を最初に聞いたのは、確か久米宏のニュース番組で、納豆を研究している学者の方が、優良食品として絶賛していた時でした。それから、20年以上、アメリカで納豆を購入するのは、電車に乗って、日本食スーパーか韓国スーパーに行く必要があります。値段も、日本よりずっと高価ですけれど、ずっと、優良タンパク源として、買いだめして、時には毎日食べている時もありました。

コロナ期くらいから、有機納豆は、アメリカで手に入りにくくなったため、自分で作るようになったり。

スーパーで、納豆を買っていた頃から、うちの旦那さんは、「くさいー」と文句言ってましたけど、家で作ると、わたしも我慢できないくらい臭いものが、できあがります。それでも、『体に良い』説を信じて、作ってたわけです。

2年ほど前でしょうか、数箇所から、実は、納豆、『あんまり良くない』という話を聞き、『ええええー』と、驚いたわけです。その話を、知人に言ったところ、たまたま、その方は、納豆良くない説を信じている方で、「食べない」と聞きました。

もう一つ、例を出すと、『肉が体に悪い』『野菜が良い』という話も、わたしは、長年、『そうなんだろう』と思ってきたわけです。これも、諸説あり、体に良いからと、『肉ばっかり食べている』の人もいます。

去年から、オープンソースのSNSを始めたところ、たまたま、肉や卵を健康のために食べてる人が多く、写真で肉ばかり上がります。どんな肉でも良いというものではなく、抗生物質など投与なしの、grass-fedのものだと思いますが。中には、野菜は、いらないという人もいます。また、この説の人たちは、米とか小麦は、ほとんど食べないと思います。わたしは、肉ばっかりは、嫌だし、ご飯が好きなので、する気ないですが、肉食べる量は、知らない間に影響されて、最近増えてます。

納豆にせよ、肉にせよ、わたしは、実際どうなのか、確認する方法ありません。ただ、肉をほとんど食べない時期に、体調があまり良くなったので、菜食は、向いてないかなと思ってます。もう、何が良いか、わからないから、胃袋に従い『好きに食う!』という感じでしょうか。

ここで、『健康』も話題から離れて、少し、考えを深めてみたいと思います。

わたしが、錯綜する健康情報に混乱するのは、『肉(あるいは納豆)が体に良ければ、体に悪いという説は、間違っている』と、考えるからです。逆に、『体に悪ければ、体に良いという人が間違ってる』と考えます。

当然のように思えますが、この考え方は、実は、フォーマルロジックという、現代において一般的に受け入れられている、論理の決まりを、受け入れているからこそなんです。

アメリカにきて、哲学の授業をとって知ったのですが、フォーマルロジックは、ギリシアのアリストテレスあたりから、徐々に形成されてきたものです。それでは、矛盾した意見は、間違いとなります。今のヨーロッパ、アメリカや日本、現代の考え方は、これに基づいています。

つまり、『AがB』なら、『AがBじゃない』は、間違いだし、一つの『図形が、三角』なら、『同時に、丸ではありえない』とか、そういうことです。

だからこそ、私たちの法律、裁判では、『有罪なら、無罪でない』し、『証拠が正しければ、間違っていない』。『Aさんが個人で所有している土地は、同時にBさんの所有ではない』とか。『実験の結果がXなら、Xではないは、あり得ない』とかになっているわけです。

けれど、私たちが、当然のように受け入れているこのフォーマルロジックに、歴史上、疑問を唱えた人も、います。今でも、そういう方は、多分いるでしょう。少数派で、一笑に付されているかもしれませんが、大事な物の見方を提供していると思います。要は、『AがBであり、AがBでない』とか、『ある図形が、三角でありつつ、丸である』も、不可能でないかもしれない、ということです。

また、よく知りませんが、流行りの量子力学では、『AがB』かどうかは、『最初から決まっていない』、とか、『観察する人による』とか、するものだと思います。

なので、『AがBであり、Bではない』、『納豆や肉が、体に良くも、悪くもあったりする』というのも、考え方を変えれば、あり得るかもしれないわけです。

どちらにしても、何かを『間違っているとする』、あるいは『正いと考える』、というのは、実は、勇気と、慎重さとがあってはじめて出来る決断なんですね。

それを、わかって、何が健康に良いか、情報発信される方が、していると良いのですが、そうでもないでしょう。

情報を受ける側が、冷静に構えるのが、大切な時代になってきました。




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